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言葉を選びたい
この前、本業の業務を終えて更衣室へ入った時のこと。
「このブスー!!!と思って!」
突如、そんな罵声を耳にした私は「ひぃ!」と思わずその場で固まってしまった。残業を終え、そこそこ遅い時間だったためか、その場にいたのは私含め3人。どうやら先にいた2人は、誰かの愚痴を大きな声で話していたっぽい。
声の張本人は私に気がつくと、少し気まずそうな素振りは見せたものの、またすぐに会話を続けていた。私はそそくさと着替え、その場を後にしたのだが、そんなド直球な悪口を耳にしたのは久々だったかもしれない。
そこで、ふと思う。
そういえば今の私は、比較的穏やかな言葉に囲まれて生きているなぁ、と。
長いことひとり暮らしをしているため、もちろん、生活に口を出してくる者はいない。今の職場(配属先)も、噂話なんかはあるものの、あからさまな悪口を言う人は少ない。友達だって、穏やかで面白くて、優しい子ばかりだ。
そして何より、ライター仲間が増えた影響は大きい。
私は約2年前に、副業でシナリオライターの仕事を始めた。
ライターを始めたことで、それまで好きであった文章や言葉と、さらに向き合う機会が増えた。けれど、当然ながらライターの世界には私以上に、文章や言葉と真摯に向き合っている人たちが大勢いたのだ。
だからだろう。
SNSを覗くたびに、ライター仲間と話をするたびに、クライアントとやりとりをするたびに、私は心地良い言葉に触れることができている。
単純に、幸せだなと思う。
私の母親はヒステリックな人間であったため、幼少期から何かにつけ、罵声や罵倒をされることが多かった。たとえ本気で言ったのではなかったにしても、‟心ない言葉によって傷ついた自分”は、あの日に根深く残っている。
また、私は婚約者を癌によって亡くした過去がある。当時は、いろんな人からいろんな労わりのメッセージをもらった。
正直言うと、その時は何も響かず、何も受け入れることができなかった。けれど今になって見返すと、あの時、連絡をくれた人がどれだけ真剣に私を思い、心配し、言葉を選んでくれたのか。そのことが、ハッキリと伝わってくる。触れないこともできたはずなのに、言いづらかったはずなのに、それでも、その人たちは私を思い、伝えるという手段をとってくれた。
言葉が、どれほど人を傷つけるか。反対に、傷ついた人を、癒すことができるか。微々たる程度かもしれないが、私は理解しているつもりだ。
だからこそ、普段から愚痴を吐いたり他人を乏したりしている人には、あまり近寄らないようにしている。たとえ同じ職場の人であっても、同じライターであっても、深くは接しない。それは、SNS上であっても同様だ。
昔、なにかで『SNSでの批判や批評は、路上に唾を吐く行為と同義』といった文を目にしたことがある。私も、そのとおりだと思う。誰に迷惑をかけなくとも、誰かや何かを否定するような強い発言は、見たり聞いたりした人を不快にさせるものだろう。
私は、言葉は「選ぶもの」だと思っている。いい子ちゃんぶりたい訳ではない。自分が嫌いな自分になりたくないだけだ。
もちろん、ネガティブや悲観といった発言は否定するつもりはない。後ろ向きな言葉だって、そのひとの大事な感情の一部だ。
けれど、悪口や批判は言葉選びひとつで、もっと柔らかな印象に形を変えられるものだと私は思う。
言葉を選ぶのは難しい。だからこそ、自分が発する言葉は真剣に選びたい。
そういった日々の行いが、「いい文章」を紡ぐ糧になるはずだと、そう信じている。
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