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対面から得た、意地と覚悟

 最近、とても胸を焦がしている相手がいる。

「好き」なんて、軽々しい言葉を吐くのはちょっと違う。だけど、「憧れ」というあやふやな表現も、これまた違う気がする。ただただ漠然と、「ほんの少しでいいから、近づきたい」。
そう、毎日のように考えてしまう。そんなお相手だ。

遡ること1ヶ月前の、2024年5月18日。
私は東京のとある会場で、うきうきしながら席についていた。
たまたま、本当にたまたま、東京に滞在する予定があったその日に、近藤康太郎さんの特別講義が近くで開催されるとの情報を得たのだ。

これは行くっきゃない!と、元々の予定であったライターサロンのオフ会に遅刻をする覚悟を決め、私はその講義に申し込んだ。

近藤康太郎さんを知らない人のために、軽く説明をすると、彼は朝日新聞社の記者であり、作家であり、猟師である。当のご本人は、ご自身のことを「表現者」と仰っていたが、Wikipediaを見ると『ジャーナリスト』や『評論家』といった肩書きもでてくる。非常にマルチな才能をお持ちの方だ。

去年の夏の終わり頃。
尊敬するライターさんたちを通して、近藤さんの存在を知った私は、彼の著書である『三行で撃つ』を読んで、度肝を抜かれた。

「こんなにも文章に、書くことに、真摯に向き合っている人がこの世にいるのか……」
そう思うと同時に、本のそで部分に書かれた「わたしにしか、書けないものは、ある」という言葉に、強く惹かれた。
その後すぐ、私は近藤さんのオンライン講義に申し込んだ。もちろん、その時の講義もすごく勉強になったし、とても楽しくて、有意義な時間だった。だから、今回はその時以上に、とても楽しみにしていた。なんていったって、生の近藤さんに会えるのだから。

そうして迎えた当日。
近藤さんから見て、一直線上のど真ん前の席を陣取った私は、穴が空くほど彼を見つめ、話を聞いていた。計6時間にも及ぶ講義。真剣な話も交えつつ、場内は終始笑い声で包まれていた。私の少し後ろに座っていたさとゆみさんこと、佐藤友美さんの、鈴を転がすような笑い声は特に印象に残っている。テンガロンハットにサングラスといった出で立ちの近藤さんも、終始口角をあげて喋り続けていた。
そんな、笑顔とユーモアの溢れる講義を経て、最後、近藤さんと1対1でお話をする機会までいただけたのだ。「あのっ、あのっ、」と緊張でわたわたしている私の話を、近藤さんは穏やかな表情で「ほーう」と聞いてくれた。ずっと聞きたかった質問にも答えてもらえて、私はもう有頂天だった。

その日の晩、宿泊先のホテルですぐ、noteに感想を書いた。そして次の日、自宅に戻ってすでに出来上がっていた原稿(シナリオ)の手直しをした。するとクライアントからも褒めてもらえ、私はさらに有頂天になった。……そう、この瞬間までは。

その後、特になにがあったわけではない。なにがあったわけではないが、講義の最中、学んだことをひたすら綴ったノートを見返して、あの日を思い返した途端、激しく落ち込んだ。岩石のように重たい何かが、全身にズシンと圧し掛かった、そんな感覚に襲われたのだ。

「私、これまで何をしてきたんだろう」

漠然と、そう思った。

 2年前にライターを始めてからこれまで、自分なりに精一杯努力をしてきたつもりだ。ライターを始めてからの1年間は、小説を書くのもやめて、割ける時間はすべてシナリオのライティングに割いた。睡眠時間も遊ぶ時間も、すべて削った。

でもそれほどに、「書くこと」がすごく好きだった。だからまったく苦ではなかったし、報酬よりも、クライアントからの褒め言葉の方がよっぽど嬉しかった。書いて表現したいことも、自分のなかにきちんと定まっていた。
それなのにこの時突然、そんな自分に対する不信感でいっぱいになったのだ。

これまでに、もっとできることはあったんじゃないか。もっと努力できたんじゃないか。いや、それなら、今からでも遅くはない。でも、今さら何をどう頑張ればいいのか。

そんな、毒にも薬にもならないようなことを、ずっと考えていた。だけど、考えれば考えるほど分からなくなり、さらに落ち込んだ。
ほんの少し、ほんの少しでいいから、近藤さんに近づきたい。自分の書く文章に、書くことに、あれだけ真摯に向き合える人間に私もなりたい。
近藤さんを目の前にして、話を聞いて、忽然とそう思ってしまったのだ。

ただ、それと同時に、自分のなかでその思いに対する答えは出きってしまっていた。

「無理だ」、と。

恐らくこの先、何年、何十年と必死に努力を続けたところで、私は近藤さんのようにはなれない。どこをどう角度を変えても考えても、その答えは変わらなかった。
そもそも、私には文章を書く才能なんてものはまるでない。そんなことくらい、とっくに気がついている。だから努力を……。そう思って、書くことを続けてきたつもりだった。

でもこの時、‟近藤康太郎”という人物を真の辺りにして、やる前から諦めの感情が芽生えた。次元が違うのだ。
ただ、こんなことを言うと、多くの人はこう思うだろう。

「人と比べても仕方がない」「あんなすごい人に近づけるわけはない」「そもそも、そんな感情を抱くことがおこがましい」、と。

違う、そういうことじゃない。対抗意識とか、憧れを抱いた結果とか、そういうことではなく、自分自身の「書くこと」に対して、この時初めて限界を見たのだ。

こんなことを思ってしまうくらいなら、もういっそ、今書いているものすべて投げ捨ててしまおうか。そう思った。
するとその時、Xでこんなポストを見かけた。

編集者のりり子さんが、近藤さんの著書、『三行で撃つ』を制作したときに書いたとされるブログだった。
何かを考える前に、私はそのページにアクセスし、読んだ。そして、気がついた時には、ボタボタと泣いていた。
近藤さんの文章にかける、りり子さんの熱量と覚悟。そして、近藤さんの血の通った文章。画面の向こうから伝わってくる2人の想いに、泣いて泣いて、悲しいとも苦しいとも違う種類の涙が止まらなかった。

なかでも特に、胸を打たれた箇所がある。

一面記事を書いていたのは、折り合いの悪い一年先輩の記者だった。記事を書いていたその先輩に「たばこを買ってこい」と言われ、カネを投げられた。
(中略)
引き返し、自販機を探しに出た。たばこを手にしたら、涙が出てきた。物心ついてから今日まで、泣いたのは、後にも先にもあのときだけだ。
自分の居場所が、世界のどこにもなかった。

『「あらすじだけ」だけで人生の意味が全部わかる世界の古典13』/Daily Lily

この時のことを、近藤さんは先月の講義中にも話されていた。ユーモアを交えて、面白おかしく語っていた。そこにいた全員、笑っていた記憶がある。私も、笑っていた。
ただこの時、近藤さんはご自身が泣いた話はしていなかった気がする。いや、していただろうか。それがわからなくなるほど、会場の空気感と文章から受ける印象は、まったく違うものだった。

この瞬間、思った。身に染みて感じた。
あぁ、やっぱり、私はこの人のことがとても好きだ、と。

 私に、文章を書く才能はない。どれだけ努力を積んだところで、できることはきっと限られている。それでもやっぱり、私は私にしか書けないものを書きたい。私だから書けるものを書きたい。否定や批判なんかクソくらえ。誰にどう思われようと、私は自分の可能性に懸けたいのだ。
近藤さんと直にお会いして、お話を聞いて得たものは、そんな意地と覚悟だった。

もし、また次、近藤さんと直接お会いできる機会があるならば、今より成長した自分でいられるように。
そんな思いを胸に秘め、今日も明日も、私は書き続けようと思う。

【今日の独り言】
今回も私が所属しているオンラインサロン、Webライターラボのコラム募集企画に参加しております。「ライブ」というより、「生」や「対面」をテーマに書きました。お読みいただきありがとうございました!

Discord名:楓花
#Webライターラボ2406コラム企画


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