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ピーターバラカンさんDJトークショー番外編は

沖縄市に所在する(⁠正確には北中城とまたがる)プラザハウス

こちらは今年、70周年になるショッピングモールで沖縄では最も古く現存するモール。

かつて米軍の将校クラスの御婦人やその家族が顧客だったというアメリカと沖縄を象徴する建物だ。

今年は70周年ということもあり様々なイベントがされているのだが、

ちなみに同区内のご近所さんである。

そう、そこにあの!!ピーターバラカン氏が春から4回来られ、
彼が好んできた楽曲のDJを行いながら解説をするという贅沢な企画が行われ

自分はそのうち2回出かけてみた。

(⁠ものすごく割愛するが70年代の主にブラックミュージックチョイスが私はヒットだった。

個人的にはブリティッシュ、アメリカンロックより、ブラックミュージック、ラテンなどリズム系のものが好きということを再確認)

そして番外編でなんと5回目の開催の発表がされ、その番外編は久保田麻琴氏とのDJトークショーLIVEだと言うではないか。

我が家から徒歩5分の会場

氏と言えば、ハイサイおじさんを1974年に本土へ仲間の音楽家たちへ紹介した本人で、ここもまた理由は割愛するが、

個人的には人生と並んで彼が関わる音楽は遠からず近からず横目に暮らして来たと思う。

1番の思い出は許可もらってくっついていったマレーシアの打ち上げ40名のスタッフで、誰が支払いするかジャンケンを目にしたのが焼き付いている(⁠ちなみに負けたのは当時の社長)

ま、覚えてないと思いますが。音楽の話題、関係ないしw

更にその翌日、宮古島にて今度は久保田麻琴氏と細野晴臣氏のトークLIVEがある、という。
久しぶりのハリー&マックである。

(⁠実はコレ、みんなの発表前に私には耳に入っていた)

さて宮古島と言えば、與那城美和さん。(⁠誕生日が一緒である!)

彼女の宮古唄、特に古謡を昔スタイルで唄のみで聴かせる歌は、一気に空気が古の場に飛ばされる。

また様々な音楽家たちとのコラボもフリースタイルで面白い。

帰宅して美和さんに即、メール。

こんな時の行動に迷いはない。

翌日。日程はわかっているものの、しかしこの時点でどこで開催されるかまだわからない。

とりあえず適当にホテルを押さえる(笑)

結果、コレは間違いない場所だった。

そしていろいろあり、LIVEの予約完了。

その節はありがとうございました。

そしてやっと航空券予約。
片道はマイレージ特典で賄う。こんな緊急のときのため?に実はリアル&丘マイラーである。

そして迎えた11/15
まずはプラザハウスでのDJトークショー。
19:00〜22:00

果たして終わるのでしょうか(笑)→久保田氏の少し仕切りで一応、時間内に終わりました。 



80年代以降の久保田氏の流れはなんとなく知っているので、むしろ祖父が経営していた小松の映画館で若き氏に根付いた音楽の話などが詳しくされ、興味深かった。

何度もインタビューされて記事になってはいるものの人が書いたものを読み、ネットで広がっていくのと、
本人の口から生で聞くのではやっぱり意味が違う。

日本は戦後、復興すると音楽のジャンルも歌謡曲は独自のスタイルとなったと思うが、

ラテン、ハワイものなども日本語という言語に乗ることで独自の楽曲となっていったように思える。

その中で島国だった琉球から沖縄には島国ゆえの独自の音楽が作られ歌われ

戦争の爆撃の下ではパンクやロックなどに向かう、的なことを久保田氏は言っており、そこはさもありなん!という感じ。

確かにそうかも。

だからオキナワンロックは日本本土のロックと出だしが異なるのか。

幼少時代にませた音楽を耳にして肥えた知識を持つ氏の音楽歴史をバラカン氏と絡みながら話は進み、結びに近づく。

結びは翌日の細野晴臣氏との流れになるラスト2曲目に名曲「泰安洋行」に収められている「ルーチュー・ガンボ」をPlay。

音源流しながらではあるものの久保田氏の音楽遍歴を
結びでルーチューガンボも聴くことができて大変、面白かった。

終わりにはプラザハウス代表からオープン当時のプラザハウスの写真とフレームが2人に贈られた。

もしかしたらかつて、2人が紹介した音楽が流れていた日もあったかもしれません。

ギャラリーアンソロジーではかつてのコザのプラザハウスを中心としたアメリカの様子が展示されていて1970年代の沖縄がアメリカだった写真が伺えます。(なのに周りは野原と少し昔の住宅風景⁠)

なんとこの日は、お土産にプラザハウスから全員にステキなノートをいただきました。
嬉しい!
テンションあがる。

翌日に続きます。

かっちゃんも居た!

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