安田彩世(さよ)ってどんなひと?
ご覧いただきありがとうございます 🙌🏻 🙌🏽 ✨
改めまして、安田彩世(やすださよ)と申します。
ヤスダサヨってどんな人?
長文ですが、よければ目次だけでもごらんください🌻
それでは、れっつらごー!
安田彩世のプロフィール情報
・1995年(平成7年)生まれ、今年29歳
・3姉妹の長女
・京都府在住
・1歳半の娘を育てながら、IT系の仕事をしています
・夫、私、子ども(1歳)の3人暮らし
誕生〜幼稚園時代
第一子(長女)として誕生
1995年9月24日(日) 22時15分 2310g
三菱京都病院というところで、
第一子(長女)として誕生しました。
ちなみに父と母の馴れ初めは、
とある小学校での職場恋愛。
父と母はお互い相手のどこに惹かれて結婚したのか、、いまだに知らないままですが、
私から見ると父は真面目の権化、本当に堅実で真面目で、ギャンブルとか浮気とかからこの世で一番遠い人。
母もちゃらんぽらんではないという意味で真面目だけど、大ざっぱで楽観主義。
二人合わさった時に、
そういうバランスが良かったのかなぁ。
私の名前の由来
彩世(さよ)という名前の由来は、こうです。
父は達郎(たつろう)というのですが、
・自分が親に「タツ」と呼ばれていて、
自分の名前を省略されて呼ばれるのがいやだったので、子どもは2文字の名前がいい
・父は何かと人と被るのがきらいな人なので、めずらしい名前がいい
それで、男の子の名前辞書を見ていて、
「彩世(さよ)」か「桜花(おうか)」がいい💡
と父は考え、母に相談。
母が、「桜花」は却下。
ということで彩世と命名されました。
「世の中を彩る」
私はこの名前とっても好きです。
お父さんお母さん、ありがとう。
次女が生まれ、家をお引越し
私が生まれた時は賃貸マンションに
父母と3人で住んでいたのですが、
私が2歳の時に次女が生まれ、今の実家の一軒家を買い、そこに引っ越してきました。(当時の記憶はまったくなし。笑)
それが京都府長岡京市で、私の大好きな地元
マイホームタウンです。
超人見知りの幼稚園児
小さい頃はとにかく人見知りで億劫な子でした。
オムツがなかなか取れなくて、母は専業主婦だったので、急いで保育園に入る必要もなく、
私立の幼稚園に、年中さんから入園しました。
が、幼稚園につくと、「いやだぁぁぁーーーーおかあさぁぁーーーーーん」のギャン泣き。相当行きたくなかったようです。
当時のことは本当に覚えてませんが、母には毎朝送るたんびに泣いてたと言われます。
でも幼稚園の先生はとっても優しくて、綺麗なお姉さんで憧れの存在でした。(それは覚えています)
その頃、りょうくんという、クラスの中でもイケメンで人気者の男の子が好きだったのですが
りょうくんは美人な担任の先生のことが本気で好きで、先生に告白するも、歳の差がありすぎて先生には付き合ってもらえず、号泣。
それを見て私も、(りょうくんが好きなのは先生なのか。。)と自動的にフラれた気分になった記憶があります。
生活発表会では「白雪姫」の劇をやることになり、当時親友だった「たかちゃん」と二人で、白雪姫に毒リンゴを食わせる魔女の役をやりました。
当時から、なんかありきたりではない、少し特別な?ポジションがいいと思っていたような気がします。
小学生時代
2人目の妹が生まれる
私が小学校に入る4月に、2人目の妹が生まれました。
私は三姉妹の長女になります。
私と次女は2歳差で喧嘩ばっかりしてましたが、
(私が大学卒業して実家を出るまでずっと)
私と三女は6歳差。そこそこ離れてたからか、もう可愛くて可愛くて、「みお(三女)には何されてもいい」と私は言っていたそうです。
地元の公立小学校に入学
幼稚園卒園後、公立の小学校に入ります。
小1の担任の先生は優しいおばちゃん先生でした。給食で苦手な食べ物が出ると、一口だけ頑張って食べよう、と言われてました。
緊張しいな私で、幼稚園から小学校に変わってやっていけるか不安もありましたが、優しい先生のおかげで、なんとかやっていけていたと思います。
一番自由だった気がする小3時代
小3の時は30代くらいの男性先生でした。(その先生はしゃくれながら話す癖があって、それはずっと印象に残ってます。)
小3の頃の私は、同級生の女の子とキャッキャキャッキャと遊びまわる女の子でした。この頃が誰の目も気にせず、一番自由にいれた気がします。
掃除しない男子とかにもリーダーシップを振りかざして注意してました。
三姉妹の長女だからか、私はおせっかいで人の世話を焼くのが好きな人間でした。(昔から今もずっと)
クラスの男子を注意したりするのも「介入する」「おせっかい」って感じが出ていますね。。
小4の時、親友を亡くす
小4の時、親友だったあゆちゃんという子がいたのですが、その子が病気で亡くなります。衝撃的でした。
がんだったと思うのですが、あゆは大きな総合病院に入院していて、お母さんとお見舞いに行ったり、「元気になったらたくさん走って遊ぼうね」と手紙を書いたり、クラスのみんなで千羽鶴を折ってプレゼントしたりしていました。
だんだん、抗がん剤で毛が薄くなってきたり、細く痩せていって、元気な時のあゆとは似ても似つかなくなってきました。
でも当時は、あゆは当たり前に病気が治って退院するんだと思っていました。
亡くなったと電話で聞いた日は、ずっと実家で突っ伏して泣いてた記憶があります。
お葬式でもお手紙を読んだり、あゆのお家にお邪魔して、遺品をいくつかもらったり。あゆが作ってくれたブレスレットとか、一緒に撮ったチェキとか、キティちゃんのUNOとか、今でも大事にとっています。
家から自転車で15分くらいのところのお寺にお墓をつくられたので、小学生の時はよくお墓参りに行っていました。
でも中学、高校と上がるにつれ、だんだん自分のことでいっぱいいっぱい、自分の生活のことばかり考えて、お墓参りも頻度が減っていっていました。
ふと思い出した時に、自己嫌悪におちいる自分が居ます。
でも、自分がもし亡くなったら、ずっと家族が自分のことで泣いてたら悲しいし、忘れられるのも悲しいけど、
心の中に思い出しながら、人生楽しんでくれたらそれが本望だな、と思ったりします。
あゆ、いのちの尊さを教えてくれてありがとう
リーダーになりたかった小5、小6
小学校5年生のときに担任になったのは森先生、
通称「もりせん」。
当時で50代の元気なおじちゃん先生でしたが
私はすっかりこの先生の宗教にハマってしまいます。
もりせんは、クラス全員を
あだ名か下の名前で呼んでいて
みんなに毎日日記を提出するよう言いました。
毎日クラス25人と交換日記をして、
一人一人の性格的な問題や、〇〇はここがすごい、とかここを直した方がいい、とかいう話を、
「羅針盤」というクラスだよりに書いて発信していました。(それも毎日)
特に印象的だった出来事は「ししゃも事件」
何かというと、
私は給食で出る「ししゃもの塩焼き」が嫌いで嫌いで(今も若干苦手)、
あまりに嫌いすぎて食べたくなくて、ししゃもが給食で出る日、学校を休みました。
すると昼前にもりせんから電話があり、
「なんで学校こぉへんの?」
「ししゃも食べたくないから。」
「ばかもの!(笑)はよ今から学校こい!」
としぶしぶ登校。
登校すると、「別にししゃもなんか食べんでええ。そのために学校休んだら周りはどう思うと思う?」と言われ、めちゃくちゃ自分のことしか考えてなかったことを反省。
当時から、自分の思っている本心を人に言えない性格だったのがよくわかるエピソードな気がします。
今思えば別に大して変なことじゃないのに、言ったら嫌われるんじゃないか、引かれるんじゃないか、と常に思って周囲の友だちの顔色を伺ってました。
授業の休み時間とかも、別にいじめられたりとかもなく、クラスで明るく振る舞ってたのに、
学校から帰りたくて帰りたくて、トイレに行って、
(あと何日いったらクリスマスで、
そしたらしまじろうのクリスマスBOX🎄が届くからそれを楽しみに乗り切ろう。。)とか考えたりしていました。
小5の秋には林間学校(りんかん)というイベントがありました。
ログハウスとかに泊まって、キャンプファイヤーして、みたいなイベントです。
そのとき林間実行委員というリーダーの立ち回りみたいなのがあって、誰にするかクラスで決める時、即立候補し、採用されました。
私はけっこう真面目な性格で、先生に言われたことはきっちりかっちり守るタイプでしたが、クラスを仕切りたい!目立ちたい!という思いがずっと強かったです。
中学時代
かなり大荒れだった中学校
中学も受験はせず、そのまま小学校の向かいにある公立の中学校に通いました。
私たちの学年はやんちゃな子が多くて、
授業中クラスには基本いないし、廊下で火を使って遊んでいたり、授業を受けながら窓の外を見ると、長椅子が空から降ってきていて、屋上からやんちゃな子が投げていたものだったり。。。
特に陰湿ないじめとかはなかったですが、やんちゃな子達は先生達のことをかなり侮辱したり暴力振るったりしていて、自分も何か危害を加えられるんじゃなかろうかと、びくびくしながら過ごしていた時間がほとんどの中学生活でした。
中学で剣道に出会い、入部
中学に入った時に部活を決めなければいけなくて、色々回った結果、先輩の雰囲気が良さげだった「剣道部」と「吹奏楽部」の二択になりました。
めちゃくちゃ悩んで家に帰ってお母さんに相談して、なんてアドバイスされたかは忘れちゃいましたが(なんでやねん)、剣道部にすることに。
同じクラスの田中ちゃんって友だちが、3歳から剣道をやってた子で、その子のノリの良さが好きで、その田中ちゃんに誘われたっていうのもあり、初心者だけど入部しました。
背も140cmくらいだし力もないし、別に全然うまくはなかったですが、体を動かすのは好きだったので、そこそこ楽しくはやってました。
中2の時、シカト事件が起こる
剣道部の同期は女子6人でした。
その中で伊藤ちゃんって子がいました。
中1の時はめちゃくちゃその子に気に入られて、登下校も毎日一緒、放課後も毎日一緒、手紙交換では大好きの嵐。。。だったんですが、中2になった途端、突然無視されるようになります。
特に私が伊藤ちゃんに何かしたわけではなかったので、突然のことすぎて、
お弁当を一緒に食べようと思って、伊藤ちゃんの机に行くと「チッ」と舌打ちされる始末。
話しかけんなオーラが凄すぎて、なんで無視するのか、理由も聞けませんでした。
結局伊藤ちゃんは中学3年間の中で、1年ごとに好きな子と嫌いな子を取っ替え引っ替えしていて、「ただのドッキリに巻き込まれた」だけだったんですが、
(最終的に伊藤ちゃんは、あまりに理不尽だった制裁か、中3で後輩男子にめちゃくちゃいじめられる)
1年間くらいずっとシカトされ続けたので、
毎朝学校に行くのが本当憂鬱で、玄関で靴を履きながら(このスニーカーを履いていくから伊藤ちゃんにシカトされるのかな。。)とか、当時はもう意味わからん内省をしていました。
その頃のトラウマか、大人になっても「何も言われていない」=「攻撃」と思っている節がありました。(自分では無意識で)
社会人3年目の頃、コロナ禍でフルリモート勤務になって、誰の顔も見えない、チャットと電話だけのやり取りの中で、「誰からも連絡がない」=「攻撃されている」というエラーが頭の中で鳴り止まなくて、
仕事がhave toまみれでやる気が出なかったことや、直属の先輩が生理的に受け付けなかったことも相まって、適応障害・うつになりました。
仕事を退職してから、「無気力・食欲不振・何にも興味が湧かない・死にたい」などの症状は治まったので、もう完治したと思っていました。
でもいまだに(つい最近まで)、在宅勤務をずっと避けている自分がいて、
あるとき強制的に在宅勤務をしないといけない日が続いて、吐き気・食欲不振の症状が出てきました。
(今思うと、コーチングスクールに入って
仕事・育児・家事・スクールの4両立を頑張ろうとした矢先、夫の会社が倒産して無職になったり、子どもがインフルになったりしてたので、色々インシデントが重なったのかもしれません)
(これはどうにかしないと、、)と思って、コーチングスクールのアカデミー長に相談したところ
「了解です。」「李がなんとかしてあげます。」と。
その方のカウンセリングを1時間ほど受けて、
つい先日、この呪縛から解放されました。
李さんは本当に命の恩人です。
本当にありがとうございます。
アメブロにハマる中3
さて話は戻り、中3では伊藤ちゃんとクラスが分かれて、部活も引退になったのでちょっと状況が良くなります。
その頃友だちだった子が、ブログのデザイン作ったりするのが好きな器用な子で、その子の影響を受けて、自分でもアメブロのHPのデザインをするのにハマってました。
html言語とかはあんまり詳しくなかったけど、
この背景と装飾にするにはこの文字列を入れて、、
やってみたらちょっと違うからまた変えて、、
とか、視覚情報の組み合わせを考える・試すみたいな
これをやっている時は、夢中になっていて
無意識に集中している感覚があります
いま思えば、私のwant to「(視覚情報の)組み合わせを考える」が分かるエピソードです。
生徒会に入る
中3の時に生徒会の募集があり、これまたリーダーになりたい目立ちたがり屋の私は立候補しました。
生徒会に入るために必要な要素って、正直別に何もなかったと思うんですが、当時の私は「クラスでやんちゃな子たちとも渡り合えて、勉強なり部活なりもそこそこできる、人気者」が生徒会に入れる、ってなぜか思ってました。
私のことをクラスで嫌ってる子はいなかったけど、運動がめっちゃできるわけでもなく。
頭はそこそこ良かったけど、別にモテるわけでもない、可もなく不可もなくって感じの私ですが、
ちょっと得意かも、ということで言えば、当時クラスの女子は、明るいチームと大人しい文化系チームでなんとなーく分かれていた中で、クラスの女子みんなと話せて、どっちのグループも行き来している感じでした。
特に文化系の子達が、クラスでは目立たず内輪で固まって楽しんでいて、その中に入ってみると
少女漫画風の女の子をめちゃくちゃリアルに書いてたり
当時界隈で流行っていた「ヘタリア」という漫画があって
(世界各国を一人ひとりの人間として擬人化し、しかも全員イケメン男子という世界観)
それをみんなで回し読みして楽しんだり
授業では聞こえへんぐらいの声でしか話さない子が
私と話している時に、好きなことを生き生きと話してくれる
その感じがすごく好きだったなぁと、今振り返って思います。
あと、生徒会は生徒会で楽しくて、こっちは女3人、男2人の生徒会は、明るくてハキハキした、コミュ力高くて自分の意思がしっかりある子ばっかりで
一緒にいると楽しくて、大人になってからもちょくちょく集まっている一生ものの友だちです。
高校時代
高校受験
地元の中学ではもちろん楽しいこともありましたが、いじめや荒れてる感じが、総じてつらい要素多めだったこともあり、
高校は私立を受験することに。
中学の勉強であれば、別に大した努力をしなくてもオール5はとれるレベルでした。
ずば抜けて頭いいわけではないですが、平均よりは上くらい。
高校から帰ってきて、塾にも通うのがしんどそうだったので、高校で塾みたいに勉強できるところがいいな〜と思い、
私立京都成章高等学校のASクラスを受験します。(成章のクラスは、頭のいい順で、ASクラス、アカデミークラス、私立文系クラス、ポーツクラス)←最後二つクラス名ど忘れ
入ったら一日12時間×3年間勉強させられますが、
頭良くなくても入れる高校だったので、
受験はすんなり合格。
たっかい学費を払ってくれたお父さん、
ごはんや家事全般すべてやってくれた母には
本当に頭が上がりません。
(大人になってから聞いた話で、我が家は公務員だった父と専業主婦の母で3姉妹を育てている状況。
夜な夜な私が寝てから、私立の高校なんて無理だと父は反対。母は、彩世が行きたいって言ってるから、私パートでも何でもするから行かせてあげてと説得。
成章高校の吉竹校長先生の学校説明会を両親で聞きに行き、これはちゃんと信念がある学校だと、父は入学を許可してくれた)
高校でも剣道部に入部
高校に入学すると、またまた部活を選ぶ場面が訪れます。中学で剣道部に入っていたので、高校でも剣道部を見学。
当時の成章剣道部はあんまり強くなかったですが、(今はめっちゃ強いです)
中学の2個上の女子の先輩がそこの剣道部にいて、半強制的に入部。(強制連行されたのがちょっと、いやだいぶ嬉しかった当時の私)
高3の男女の先輩方がすごいいい人ばかりでかっこよくて憧れで、顧問の先生も大好きで、入部して大正解でした。
同期は女子5人で、剣道は私以外全員初心者で、
私もしょせん中学3年間なんとなくやっていただけだったので、実力的には全然弱かったです。
でもみんなで部室で毎日喋ったり、合宿行ったり、土日も遊んだり、青春って感じで過ごせたし
オフの日は、同期女子5人でスイーツ食べ放題行ったり(食べすぎて帰りの電車で吐きそうなってたり)、誰かしらの家で集まってたこぱしたり(食べてばっかり)してました。
弱いなりにも部活の練習は一生懸命取り組んだので、いい思い出です。(他になれる人がいなかっただけだけど、部活始まって以来初の女子部長もやらせてもらった)
毎日12時間の勉強漬け生活
私立成章高校は、朝8時の小テストから始まり、夕方17時ごろから20時ごろまで補講をやって1日が終わるという、普通に過ごしていても12時間くらい学校にいるのが基本スタイルでした。
でもどの科目の先生も、全員が、寝る間を惜しんで本当に真剣に(受験)勉強を教えてくれるので、私も勉強するのはあんまり苦じゃなくて、授業受けるのが楽しくて、
1日3〜5時間睡眠とかで寝る間を惜しんで勉強してました。(今の、一日8時間くらい寝ないと持たない体からすると、本当信じられない。。)
地頭が良いわけでなかったので、それだけ勉強しても、(特に頭がめっちゃいいわけではない)成章高校の中の、学年7位(学年の人数は全部で400〜500人くらい)の成績でした。
(来世は京大とか東大とかケンブリッジとかハーバードとかサラッと行けるような頭脳の人間になってみたい。。)
初彼氏は15歳上
中学の時は全くモテなくて(高校もモテてませんが)
人生で初めて彼氏ができたのは高1か高2の時でした。(正確に覚えてないんかい)
当時たまたま行った美容院の美容師さんにナンパされて、高校生の私から見たら、大人〜✨って感じで、あんまり深く考えず付き合いました。(今思えば相手はすんごいロリコン。。笑)
見た目は若いお兄ちゃんでしたが、当時たしか30半ばくらいだったと思います。
大学に入ってからもしばらく付き合ったけど、だんだん私が合わないと感じてきて、お別れすることに。
今でも地元の美容院で働いてらっしゃるみたいので、ごく稀に近所のスーパーとかで見かけて、勝手に内心気まずく思ってます。(絶対声はかけない。私の中で関わりたくない精神がすごい。笑)
大学受験
文系だったので、模試とかの成績を見つつ、はじめは神戸大学を希望してましたが、この偏差値じゃ無理だ。。となり、第一志望は大阪市立大学商学部。
あと滑り止めで関関同立(関西学院大学以外)を合計10個くらい受けて、関大と立命館の合格は取れました。
無事に大阪市立大学も1発で受かって、
晴れて大学生になります。
今人生を振り返っても、28年間生きてきた中で一番努力した3年間でした。こんだけ頑張れる人間なんだって思える根拠になってるので、成章高校に入ったのは本当よかったなと思っています。
大学時代
ラクロス部に入部
大学でも何か運動がしたいと思い、中高と剣道部だったので、はじめ剣道部を見学に行きました。
が、全然本気度がない部活というか、顧問の先生も初心者の方だったので、高校時代のバリバリ剣道強い顧問の先生が好きすぎたのをモチベーションに剣道をやってた私は、ここじゃ剣道は続けられない。。と思って剣道部入部は断念。
(剣道自体が好きってよりかは、完全に剣道部にいる人が好きになれるかどうかで選んでいた)
ほかの新歓もいくうちに、人柄が良さそうだったのが女子ラクロス部。ラクロスはやったことなかったけど
カレッジスポーツでみんな大学から初心者ではじめる人が多いと聞いて、それならできるかも、と入部を決めました。
今まで武道しかやってこなかった人間だったので、スポーツは体育の授業でやる以外初めてて、それはそれでカジュアルというか、別の楽しさがありました。
(剣道は稽古前と稽古後に必ず黙想してましたが、ラクロスではそういうのは無い)
性格的に目立ちたがりだったので、ポジションはアタック(攻撃陣)がよかったのですが、先輩の指示でディフェンスをやることに。
もともと体幹が強い方なのか?相手をゴールに近づかせないように外に流すっていうのが自分なりに上手くできて、それはそれで楽しかったです。(書いてたらラクロスやりたくなってきた🥍)
一回生の時は、まだ高校生に毛が生えたようなもんで、大学4回生の先輩方が本当大人に見えました。
うちのチームは関西リーグの真ん中あたりの順位で、
私が入部した時は、新入部員が入らないと試合に出れない、廃部ぎりぎりの状態でした。
その内部事情は入部してから知ったのですが、
私たちの代は運良くも10名入部し、誰も辞めずに卒業まで一緒でした。
とにかくラクロスがうまくなりたい!!
チームの役に立ちたい!!
一点の曇りもなく、純粋にラクロスを楽しんで打ち込んでいたなぁと思います。
我が強すぎた2回生
2回生になると一番上の先輩が卒業し、一回生が入部。
元々先輩の数自体が少なかったので、自分たちが一回生の頃から、下手くそでも試合に出るしかなくて
先輩たちは頭を悩ませてましたが
良くも悪くも荒療治で実力はちょっとついてきました。
試合に出ているということと(別に関西1位とかでもないのに)、一回生が入ってきて先輩風を吹かすという感じで
なんだか2回生の頃はえらい意識高い系で独走してた気がします。。
女子ラクロス部の中でも色々役職があって、
部長、副部長、ATリーダー、DFリーダー、新歓係、トレーニング係などなど
本当は部長かATリーダーかDFリーダーか
いわゆる幹部と呼ばれるところの重要ポジションに入りたいと思っていて
なぜかというと目立ちたいしかっこいいから。という安直な思考回路でした。。
当時の私は、弱い子の立場に立つ優しさみたいなのがなく、強いものがいいんだみたいな、完全にセルフィッシュ利己的な人間でした
そんなやつにリーダーなんて務まるわけもないし、
チームの中で、剣道で培った筋肉モリモリだったことから?トレーニング係に任命されました。
三姉妹の長女だからか、「姉御肌」というのは周りからも言われてたし自覚もあり
後輩たちが入ってくると、話を聞いたり、一緒にご飯を食べに行って相談に乗ったりはよくしていました。
そういうのが全然苦ではなくて、おせっかいやくのがなんか好きなんですよね。。
大学で真剣に付き合う彼氏と出会う
15歳上の彼氏と別れてから、次付き合った人は
大学3回生でゼミが一緒になった人でした。
私は商学部の中でゼミに入っていて、その顔合わせの飲み会のとき初めて喋ったのがきっかけです。
話が弾んで、真面目で几帳面だけど面白い人で
「なんかいい感じかも」と思って、付き合うことになりました。(どうやって付き合うことになったか全然覚えてない。。)
私はいわゆる恋愛体質(おそらく)のため、その同じ学部の彼氏ができると、授業は「彼氏と私と、彼氏の男友達」の3人でほぼずっと一緒に受けていました。
なんか男の子の方があっさりしてて、一緒にいて楽だ〜という気持ちも大きかったです。
一日2〜3コマの授業を受けつつ、(少なすぎ)
夕方のラクロス練習までダラダラ暇を潰し、
夕方部活をして、1時間半かけて電車で寝ながら実家に帰り、朝起きてまた大学に通う
という生活をしていました。
彼氏とは本気で結婚すると思っていて(当時は)
社会人になって転機が訪れるまでは、ずっと付き合っていくことになります。
ラクロスが嫌になった3回生
3回生になると、いよいよチームでも上の方で、メインになって引っ張っていかないといけない学年なんですが、週5のラクロスの練習がしんどくてだんだん嫌になり
しんどいのはみんな一緒なんだから、「練習嫌やな〜」「めんどくさいな〜」と同期でこそっと言いながらやればよかったのに
昔から変な真面目で、(弱みやネガティブなことを言っちゃいけない。。嫌われたくない。。)
と思ってて、人と本音で話す。人とぶつかる。みたいなとをずーっと避けてきました。(今も避けてる。。これには向き合わないといけない。)
なので当時も、練習が嫌だということが誰にも言えず、でも練習は行きたくないので、寝坊してダラダラ乗り換えて練習に遅れて行ったり、練習自体も形だけこなしてて、当然上手くならなくて余計嫌になったり
本当もったいない時間を過ごしたなぁと、今もとても思います。
4回生になりちょっとやる気が出る
3回生の終わりから、だんだん4回生が近づいてくると、もう夏のリーグ戦で負けたら引退になってくるので
あと少しで終わりが見えてきたから頑張れるかもと
ちょっと頑張れるモードになってきました。
周りの同期も私が3回生の時しんどかったりやる気がなかったのは目に見えて分かっていたと思うけど
特に仲間はずれにしたりすることもなく、ふつーーの態度で接してくれていて、今も仲良くしているし、そのことは本当にありがたいなぁ。。
大学時代のバイト〜パン屋、居酒屋、塾講師〜
大学生の時、私は実家(京都)から大学(大阪市の南端)まで通っていて、はじめのバイトは地元のパン屋さんで働いていました。
高校時代は勉強に明け暮れていてバイトはしたことがなく、
人と話すのが好きなので、制服を着て「店員さん」となって接客するのがとても楽しそうで
制服を着て、「パン屋さんの店員」になれた自分がとても嬉しかったのを覚えています
覚えることは沢山あるし、部活が週5回あったので
社畜への憧れがありつつも、
週2〜3入る程度でとどまっていましたが
「いらっしゃいませ〜🧑🍳♩」
と言って店内を回りながらパンの配列を整えたり、
パンを買いに来てくれたおばあちゃんと話したりするのがとっても楽しかったです
そして毎日陳列されるパンは、「閉店間際に数個しか残ってないと見栄えが悪くて、売れるものも売れないから」という理由で、50〜100個くらいは残るように毎日作ってらっしゃって
残ったパンをそのまま捨てるのももったいないので
ラストまで入ったバイトの特権で、
閉店後パン食べ放題🍞(売れ残ったパン)
残ったパンも持って帰れるなら全部持って帰ってもいい🥖
という天国のようなバイトでした
大学時代は部活をしていて私自身食べ盛りでしたし
実家は5人家族、大学のラクロス部🥍の女子たちも
朝練でパンを持って行くととっても喜んでくれたので
需要と供給がマッチしていました(笑)
パン屋のバイト先は穏やかな人ばかりで、とっても居心地のいいバイト先だったのですが、なんと私が大学3回生の時に閉店することになりました
他の接客業のバイトを探そうと思い、バルの接客業もいいな〜と思い、また地元で雰囲気のいい居酒屋を探し始めました
小料理屋風のところもいいし、ワインや野菜にこだわっているおしゃれバルもいいな〜
と迷い、お母さんについてきてもらって、お客さんとしてお店を下見したり、何回もお店の前を通ったりして(笑)
バルの面接を受けることにしました
当時の大学生の私は、社会人としては全くなってなかったと思うし、そこまで有能人間でもなかったですが、
バイトで人手不足なのもあってか、あっさり受かりました
夜の時間帯の接客業で、お酒を一緒に飲みながらおじちゃんたちと話すのは、それはそれで楽しかったんですが
部活の朝練があったり、夕方練習してから京都に戻ってくるとなると、夕方の入り時間に間に合わなかったりして、
これも週2〜3くらいしかシフトに入っておらず、
かつパン屋さんより覚えることが圧倒的に多くて
(前菜からメイン、デザートまで何があるのか、
季節おすすめのメニュー、ワインやウイスキーの種類、カクテルの作り方、などなど)
エース級のバイトになることはできませんでしたが
これまたバイト先の店長さんや社員さんがみんな気さくでいい方ばかりで、
大学卒業時にバイトも卒業しましたが、
いまだにお客としてお店には行っていて
マイホームを感じる場所の一つです
就職活動
商学部だったので、就職先はメガバンクとかの人が多かったですが、銀行にはあまり興味が湧かず。。
大学3回生になると毎日のように、色んな企業の採用の方が大学キャンパス内でブースを開いてくれ、
何かしたいかも分からなかった自分は
手当たり次第に話を聞いていました。
「課題解決することが好きで得意です」
「相手の立場にたったコミュニケーションができます」
そんなことを面接で(さも)堂々と言っていました。
広告系やメーカー、IT系など幅広く受けたのですが
最終受かったのはIT系3社で、
大手のIT企業 or 岡山で名の知れたIT企業 or 大阪の中小IT企業
から選ぶことになりました。
当時は、
「とにかく大企業に入って、バリキャリウーマンになって、東京で颯爽と歩くOL」
みたいなものに憧れが強すぎて、
単純に一番ネームバリューがある、誰でも知ってる企業がいいと、一番大手のIT企業に入社しました。
最初は当時の彼氏のこともあり、関西配属で希望を出していて、入社前に希望通り関西配属になっていたのですが、
何を思ったのか、入社直前に、
やっぱり東京で働いてみたい
とふと思いたち、人事部の方へ電話。
「関西配属でお願いしてたのですが、やっぱり東京配属に希望変更できませんか、、?」
とお願いしたところ、東京配属に変えていただくことができました。
当時彼氏にはどう折り合いつけたのか全く覚えていなくて(相変わらず自分勝手なやつだ)
彼氏は関西、私は関東へ
社会人になって遠距離恋愛が始まることになります。
社会人時代
東京で大手SIerに就職
さて、入社してすぐは3ヶ月間の研修生活でした。
横浜の東戸塚というところに社宅と研修ビルがあり、同期200人ほどが集まって、毎日一緒に過ごしました。
毎朝おきて支度をして、9:00までに研修センターまで10分ほど歩いて通勤。
17:30まで研修という名の授業を受けて、おわり。
みんなで近くの居酒屋に飲みに行く。寝る。また朝起きて支度して通勤。
高校生の延長線上みたいな生活で月20万もらい、
社宅の家賃は1万くらいだったので、遊びや家具や服飾品や
好きなものに自由にお金をつっていました。
これまた私の人生の青春でした。たのしかった。
楽しかった3ヶ月が過ぎ、大崎の本社へ配属されました。
配属先ではシステムエンジニアとして、4〜5社くらいのお客さまの情報システムを保守運用する仕事でした。
最小単位のチームは、課長、先輩二人、私の4人で
ojtの先輩は二人ともめちゃくちゃ優しく教えてくれました。
ただ当時の私があまりに生意気で仕事のやる気もなかったので、扱いづらかっただろうし、やりづらかったと思います。。
(いま30歳手前で、職場で後輩ができてから
いかに新卒の当時の自分が仕事のやる気なくて迷惑かけていたか、痛感しております。。。)
東京の本社はお金も潤沢にあって、
やる気と根性みたいな泥くさい感じはなく
サラッと仕事している人が多くて、それがすごく好きな雰囲気でした。
社会人2年目で大阪に異動希望
プライベートでも、仲のいい同期(ほぼ男の子)は結構たくさんいて、楽しく遊んでいたのですが、
関西人のおせっかいがデフォルトの私は、東京はどこか冷たいと感じてしまい、サラッとしすぎてるというか。。(関西人が暑すぎるだけ笑)
やっぱり関西に戻りたい、となり、人事の方にお願いして、大阪支社に異動することになりました。
全く違う世界の大阪支社
さて、大阪支社に配属され、担当することになった仕事は「AI-OCR」の拡販業務でした
ブラック企業とまでは言わないですが、課長以上の人たちは毎日日が変わるまで働いていて、かつ死んだような目をしている瞬間がいくつもあって
ここは東京と同じ会社なのか、、?と衝撃を受けました。
直属の先輩は、仕事などちゃんと丁寧に教えてくれましたが、身だしなみが汚かったり、フロア中に聞こえる声で電話したりしているのをみて、どうしても生理的に受け付けられず、、
そんな時にコロナ禍になり、急に週5のリモートワークが始まって、職場の人間関係と、中学の時から引きずっていたシカトのトラウマが相まって、適応障害・うつになりました。
死にたい、何も興味がわかない、食欲もない、眠れないという日々が続き、休職していましたが、
休職するにも1〜2ヶ月に一回は課長面談が必要で、そこで課長に会うのがどうしても辛くて、
結果、入社して3年弱でその会社を辞めることにしました。
転職活動
会社を辞めて2ヶ月ほど経つと、気持ちも前向きになり、転職活動をしよう!と動き始めました。
前職で人間関係にうまく馴染めなかったため、次はとにかく人間関係重視。。で選んでいて、
業界は同じIT系の方が転職しやすいだろうと思い、「人間関係の悩みゼロを目指す」と謳っていた今の会社に入社しました。
今思えば、自分を変えようとせず、周囲の環境の問題なんだと、周りに求めてばかりでしたね。。
転職先は正社員で入ったのですが、そこの会社がインフラシステムエンジニアの派遣業をなりわいとしている会社でした。
まだ社会人3年目のひよっこエンジニアでしたが、
中途入社で即戦力!と迎えてくださり、
はじめて派遣された先は、通販会社の情報システム室でした。
システム保守運用の仕事なので、そこの会社で働いてらっしゃる方が、スムーズに仕事ができる環境を整える。
例えるなら、エレベーターや電柱とかでメンテナンス工事してらっしゃる方を見たことあると思うのですが
それのIT版という感じです(問題なく日々使えることが当たり前。そのためにひっそりと、縁の下の力持ちとなる仕事です)
そしてまた似たような人間関係の問題にぶち当たります。
そこの職場でもojtの先輩がいてくださり、すごく丁寧に仕事を教えてくれたのですが、
何か質問すると、特に面白い場面でもないのに笑いながら話されたり、荷物が多い時もそれを見て笑われたり、
信頼関係がそこまでない中で介入された発言をされると、その人と仕事するのが辛く感じてしまい。。
苦手な人がいる時にうまく流せず、自分からその事ばかり考えて病む。という状態でした。
(これはいまもまだ克服できていない)
妊娠出産編
仕事を辞めたすぎて妊活
その時はうつまではならなかったですが、仕事自体にも夢中になれなかったのと、その先輩がどうしても克服できなくて、
どうしても仕事を辞めたい。
ちょうど結婚したころで当時24歳
子どもも欲しいし。と
ほぼ逃げの理由で必死に妊活していました。
ルナルナとコウノトリというアプリで
排卵日を何度も確認し、
(生理くるな、くるな。。)と念じ続け、
ちょっとでも吐き気があったら(妊娠じゃないか?)と期待したり。
今思えば、妊娠したすぎて、妊娠初期の症状を調べて、それが体の症状に現れるように脳が作り上げたんじゃないかとすら思います(いわゆる想像妊娠てにな、、)
初妊娠は流産
ありがたいことに、妊活して数ヶ月のとき
妊娠検査薬をしたら、うっすら陽性が出ました。
もう嬉しくて嬉しくて、朝4〜5時くらいだったと思いますが、一人でめちゃくちゃ喜んだのを覚えています。
産婦人科に行き、妊娠していることを確認。
また2週間後にきてねと言われた数日後のことです。
トイレに行くと、なにか塊がぽとっと落ちたのを感じました。
赤い塊でした。
これは赤ちゃんが出てきたのかもしれない。。
そう思いましたが、
いや、ただの出血かも。うん、きっとそうだ。と
ほぼ願いの気持ちで、すぐ産婦人科を受診しました。
先生にエコーしてもらうと、胎嚢がなく
何もない綺麗な子宮になっていました。
「あなたのせいじゃないよ。」
「流産の可能性はどうしても確率的にあって、今回はそうだったんだ。」
と先生はおっしゃって、看護師さん達もいる中で大泣きするのははばかられて、
産婦人科からの帰り道、自転車を漕ぎながら大泣きして帰りました。
その時、Official髭男dismの「Cry Baby」を聴いていて
という歌詞に、共感してしまってる自分がいることに気づいて、、
一つの命が天国へ行った。
その子は生まれてきたら、私たちの子どもだったし
この世に生命をうけて、素晴らしい人生を歩んだかもしれない。
そのことを全然考えられていなかった
本当に自分本位なやつだったなぁと、自分に絶望します。。
のちのち、ある助産師さんが
"流産になった赤ちゃんも、絶対なにか意味があってお腹に来てくれたんだと私は思ってる。"
と仰っていて、私のところに来てくれた天使は、
一体何を伝えに来てくれたんだろう
あまりに自分本位な私に、
命の尊さを、教えに来てくれたのかな
私がまだ未熟すぎるので、まだこの答えは出ていない気がします
翌月に妊娠
流産後、子宮環境を整えるため、3ヶ月は妊娠しないでね。と看護師さんに言われていましたが、
産婦人科の院長先生は「今週末あたりがんばったらいけるかもよ」と言ってくれて
都合のいい言葉しか受け取らない私は、その週末に賭けて、なんとそれで流産した翌月に、2回目の妊娠をしました。
一度流産した思い出が強すぎて、周囲に早々に報告してまた流産になった時、その環境に自分が耐えられる気がせず、夫以外には妊娠4〜5ヶ月になるまで黙っていました。
2度目の妊娠時も、エコーで見ると大きな白い影があって、もしかしたらこの命もダメかもしれない。と言われていました。
その影は妊娠5ヶ月以降とかで大きくなった時には消えていて、無事に大きくなって今の娘が生まれてきてくれたのですが、
当時はスマホで調べまくって不安で不安で仕方ない毎日を過ごしていました。
つわりもあり、一日一日が本当に長かったです。
切迫早産
妊娠してつわりに苦しみながらも、ほぼ在宅勤務で仕事は続けさせてもらってました。
(仕事が好きだったわけではなく、経済的な理由で、、)
しかし妊娠4〜5ヶ月の時から、子宮頸管が短いと言われ、家では寝たきりで安静にするよう指示されました。
仕事は休みたかったのもあり、先輩からはパソコンだし寝たきりでも仕事できるんじゃないかと言われましたが、なんとか診断書で休職させてもらうことがぇきました。
とはいえ家にいながらベットの上で一日過ごすのは本当に至難の技で、家の洗濯物や掃除をついやってしまうことが多かったです。
2ヶ月ほど休職し、産休まで残り2ヶ月ほどになったとき、お客さん先ではなく、社内の軽い業務をやりながら、産休までフルリモートで勤務させてもらいました。
出産
産休に入った翌日、子宮頸管を測ると3cmを切っていて、通ってた産婦人科の入院基準に引っかかり、翌日即入院することになりました。
朝、夫に車で送迎してもらい、病院に着くとすぐ車椅子を押しながら看護師さんがきて
荷物とかも持たないで!
もう座ってください!
と、一歩自分の足で歩くことすら禁じられているように感じ、これまた泣きそうになりながら車椅子で運ばれたのを覚えています。
入院生活は、張り止めの点滴を24時間しながら、個室のベッドで寝たきりでしたが、いいこともありました。
まず食事がめちゃくちゃ豪華で美味しい。
ベットで寝ながらテレビを観るか、トイレに行くかしかできなかったので
(シャワーもできなくてあったかいタオルで拭いたり)
毎日の食事が本当に楽しみでした。
この時は一人目だったから、家には夫ひとりだったので、夫が仕事おわってからは大体ずっとビデオ通話してました。
それと朝晩一回ずつ、助産師さんがきて心音を確認してくれるので
家にいると起こる(赤ちゃん生きてるかな。。)の心配があまりなく
いつ何が起こってもすぐ対応してくれる。という安心感は半端なかったです
その入院生活が2週間ほど続き、正期産の時期に近づいていたので
もう退院していいよと言われ、無事退院。
マクドとかのジャンクフードが恋しくて、退院した夜に
ポテト2セット完食した記憶があります。
家でふつうに過ごせるってめっちゃ幸せなことだ。。と痛感しました。
39週に入り、妊婦検診にいくと、
「羊水が減ってきている」「明日入院して誘発分娩で産もう」
と言われました。
それもまた突然のことだったので、また夫に連絡し、産婦人科の先生の説明を聞いて、翌日入院することに。
誘発分娩一日目、子宮口を柔らかくする薬を投入して、子宮口4cmくらい開いた状態までいきました。ちょっと痛みはつらいけど、まだ呼吸法をがんばれば耐えられるレベル。
初産だったこともあり、その日はまだ生まれないだろうと、夕方で一旦誘発分娩の点滴はストップしました。
翌日、仕切り直して点滴を再開。どんどん痛みが強くなってきて、朝11時くらいには陣痛室で叫ぶくらいの痛さでした。1分間隔の陣痛ってこんなに生き地獄なのか。。と、本当に地獄をみました。。
激痛に耐えてるなか、助産師さんから「旦那さんに電話できる!?」と言われ、分娩台の上で死にそうになりながら、夫に電話したのをおぼえています。
あとから義理のお母さんに聞いたら、私から電話をもらった夫が、そのあとすぐ義理の母に電話したらしいのですが、相当テンパっていたようです
病院と家は車で5分くらいのところだったので、夫も間もなく到着し、
夫に見守られながら、無事出産することができました
本当に陣痛が痛すぎて、生まれた子どもを見ても、感動というよりはホッとする気持ちが大きすぎて、写真も真顔でわが子を見つめていました(笑)
産まれる直前に会陰切開をしていて、(余談で、よく口コミとかでは陣痛が痛すぎて会陰切られたのも分からないくらい痛くないと聞いていたのですが、私は切られた瞬間、普通に「痛!!!?」と叫んでた)
赤ちゃんは生まれたあと助産師さんに運ばれて、体重測定やら検査やらしてもらってる間、私は切られた会陰を院長先生に縫ってもらってたんですが(縫うのは痛くなかった)
その時が人生で一番の達成感というか、、達成感ってこのために作られた言葉(?)ってくらい、達成感の極みでした。(語彙力)
その日は赤ちゃんを預かってもらって、友人とかに「うまれたよ~~」とか連絡したりして、ぐっすり眠りました。
ベットで寝ながらお腹をなでて、(もう赤ちゃんいなくなったのか~)の寂しさも味わいました。
翌朝、助産師さんが産まれた赤ちゃんを連れてきてくれて、
もうこの世のものとは思えない可愛さで。。
退院までの数日間、子宮の戻りも良好で、産後のトラブルはなにもなく、沐浴とかミルクの作り方とか教えてもらいながら、なのはと一緒に過ごしました。3時間おきの授乳だったけど、しんどいという気持ちはほぼゼロで、赤ちゃんと一緒にいれるのが嬉しすぎて、楽しすぎた入院生活でした。
退院する日、夫が車で迎えに来てくれました。産後、ビデオ通話で赤ちゃんを見てはいましたが、対面で会うのは初めてなので、めちゃくちゃ嬉しそうにしてました(それまで家で一人で家事とか全部やりながら仕事にもいってくれて、本当感謝です)
感動の再会のときは夫もウッキウキで、車で家に帰り、初抱っこ。めっちゃ嬉しそうになのはに話しかけてました。
両家にとって初孫だったこともあり、もうみんなかわいいかわいいと言っておおさわぎでした(それに満足しているわたし)
"宝物"ってこのことだったのか。。と、まさにしみじみ感じてました
1年もかけてしんどい中お腹の中で赤ちゃんを育てて、赤ちゃんもがんばって大きくなってくれて、無事この世に生まれてきてくれること。
本当に奇跡なんですよね
復職
出産した月に保育園申し込み
「育休1年とるぞ♪」(1年とりあえず働かなくて済む嬉しい)と思ってた私で、保育園は来年申し込もうと思っていました。
でも実際、毎日日中赤ちゃんと二人きりで、外に出るのも大変。ずっとおっぱい上げるかオムツ変えるか寝かすか。。
子どもが大きくなってきたら、この生活を1年以上続けるのはつらくなるかも、、?と思ってきて、一応保育園の申し込みを調べたところ
11/3生まれだった子どもが、次の4月に保育園に入る申し込み〆切は、11月末。
つまり生まれた当月中に、来年度保育園に申し込むかどうかを決めなければいけなくて、新生児を抱っこしながら、禿げそうになるくらい悩みました。
今の赤ちゃんの成長を見れるのは今しかないし。。
でもずっと赤ちゃんと二人だと病みそう。。
1歳なってからじゃ保育園入りづらくなるで。。
私が相談した地元の友達が、子ども二人いて育休は人生でとったことない、0歳から保育園預けてるバリバリのワーママやったこともあって、
「まあ申し込んだって落ちるかもしれんし!」と、えいやで保育園に申し込みました。
すると0歳児だったのでサクッと通過。
0歳4か月で保育園に通うことになり、私の育休は2か月で終わりました。。
2023年4月に、保育園デビュー&復職しました。
うちの子は近所の公立保育所に通わせてもらっていて、自分は幼稚園しか行ったことがなかったので、子どもを預けてはじめて保育園と関わることになりましたが、
0歳児クラスは3人で、先生もベテランの方で、めちゃくちゃ丁寧にみてくださってました。クラスの担任の先生じゃなくても、どの先生も子どもの名前を覚えてくれてて、お迎えにいったとき昼間のエピソードとかを廊下で話しかけてくれました。
まだ寝がえりもしてない時から預けてたので、保育園の中で最年少児で、「みてるだけで癒される。。」と、いろんなクラスの先生が0歳クラスに遊びにいくんです、と話してくれました。
今は1歳クラスに上がりましたが、0歳クラスから1年一緒だった友だちは分かるみたいで、1歳の世界なりに、関わり合いがあるようです。
通い始めた1~2か月は泣いたり、母乳で育てていたからミルク拒否しすぎて午前中で迎えに行かないといけなかったり、色々とありましたが、1年経ったいまはすっかり保育園で楽しんでいます。子どもと保育園の先生方には本当に毎日感謝です。
さて、母はというと、復職先では「ネットワークのプリセールス業務」をすることになり、ITの中でもネットワークの会社に勤めることになりました。
そこで出会った上司が、私の人生を大きく変えます。
私ごときのレベルではありますが、今までその上司ほど仕事ができる人に出会ったことがなくて、最初衝撃を受けました。
世の中こんなに優秀な人がいるんだ。。
その上司を見て、それまでいかに定時に帰るかしか考えていない人間でしたが、この上司みたいに仕事できる人間になろう。そのために努力するぞと決めました。
上司は教育係として本当にいろんなことを教えてくれたし、何より仕事の仕方を背中でおしえてくれました。
営業の仕事だったので、Youtubeでも営業の勉強ってできるのかな?と調べたところ、最近は「ビジネス系Youtuber」という方が沢山いらっしゃって、
「宋世羅の羅針盤チャンネル」さん、「ブラックな企業 トゥモローゲート」さんとかをよく仕事の行き帰りの電車で拝見していました。
コーチングとの出会い
Youtubeでビジネス系を見ていたら、おすすめに「mindset 李さん」の動画が出てきました。これが私とmindsetさんの出会いです。
当時は、いかに分かりやすく説明するか。言語化能力。みたいなところに悩んでいて、李さんがその説明力とは、というのを説明している動画があって、(この人はすごい。。。)と衝撃を受けました。
そこから定期アップされている動画を観たりしていて、ふとその会社である「mindset」というのをgoogleで調べました。
するとコーチングの講座が東京でやっているというのを知り、これは行かねば!!!と、夫に相談して申し込みました。
なぜ行かねば!!!となったのかというと、
復職して1年ほど経ち、仕事はできるようになってきたのですが
外で仕事を頑張って帰ってきて、家事と育児がまっていて
もう体力も限界だし、仕事で愛想よくして、家に帰ると夫にめっちゃ冷たい自分に、嫌気がさしたりしていました。
そんなときにmindsetのHPで「want to」(自分が権威に止められてもやる、好きで夢中になること)の存在を知り、
私も自分のwant toを見つけて、人生変えるぞ!!と思い立って、その東京のワークショップへ、京都から新幹線で行きました。
そこからmindsetの方と知り合ったり、コミュニティに参加させていただいて、2024年4月から、"Mindset Coaching School 10期生"として、いまプロコーチになるべく日々奮闘しています!
数か月前にmindsetのワークショップに行ったときは、まさか自分が80万円(私にとっては大金)を払ってプロコーチ養成スクールに入るなんて、思いもよりませんでした。
(お金ないしむり。。)
(半年間のスクールだけど、講義が金晩or土日って、子どもがいて受けられるわけない。。)
と思ってました。本気でできるはずない、と思っていました。
でもmindsetの方とお話しさせていただいて、本当は入りたい。という気持ちがあって、じゃあどうしたらできるのか? "できる"から考えるように変えました。
夫に伝えるのもだいぶ緊張しましたが、リモートならいいよと承諾してくれて、今も講義を受けながら勉強させていただいています。
1歳半の娘がいながらも、夫や義理の両親、自分の両親も全員すぐ近くに住んでいて、すぐ助けてくれる。やりたいことをやらせてもらってる。
私は本当に恵まれた環境にいさせていただいています。
mindsetスクールに入ってから、職場と家庭しかなかった自分の小さなコミュニティから、コーチングスクールというサードプレイスが加わっただけで、今までの自分の世界が破壊されるレベルで、世界が広がりました。
スクールも前半戦が終わり、いよいよプロコーチになるべく、後半戦の実践が始まります。
消費する人生ではなく、自分の人生。自分で決めた目指すべきことがあって、それに一歩一歩近づくよう毎日を生きれる幸せを感じています。
一旦ここまでで、安田彩世の自分史とさせていただきますが、また追加エピソードや、今の状況など、書くことが出てきたら、随時更新させていただきます!!
こんな長い長い文章を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました✨