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居心地のいい世界に縛られること。
居心地がよい世界とはどんなところだろうか。
自分が理解できる世界で、不安のない、考えなくてもよい世界。
私達ヒトは動物である以上、「理解できないもの」「認知できないもの」に対して恐怖や不安を感じてしまう。
それは進化の上では欠かせない能力の1つであり、そうして自分の身にせまるリスクを遠ざけることは、生き延びる確率をあげることにつながった。
なので、そうした「不安なもの」「理解できないもの」を拒否し、遠ざけてしまうのは生物学上仕方がないことのように思える。
いじめを肯定しているわけでは決してないが、ちゃんと生物学的視点で考えることはその本質を捉えるのに大切であると思う。
そして、同時にそうした「不安」を乗り越えてきた人たちも多数いることも事実であり、祖先はそうやって自分のテリトリーを広げ、多様性のある社会を作り上げていった。
情報が少なかった時代は多様性といってもまだ目の届く範囲、理解の範疇だったことだろう。
しかし、現代においては、日々わからないもの、理解に苦しむものが溢れ続けており、常に「不安」がついてまわっている。
人がSNSで何かを発信すれば、自分の思ってもみなかった反応が多数きて驚くことも珍しくはない。
まさに「言いたいことも言えない世の中じゃ、ポイズン」状態である。
そうなれば当然、自分が安心していることができる、心が休まる場所やコミュニティに入り浸ることになる。
そうして、人はいつの間にかその世界に縛られ、抜け出すことが難しくなる。
哲学者スピノザはそのことを「自由」が奪われていると述べた。
ときにそれは「ぬるま湯」とも表現されたりもする。
見せかけの居心地の良さは人の思考を奪い、感覚を麻痺させる。
痛み
熱
冷たさ
ぬくもり
距離感
好き
嫌い
・・・
これはけっして比喩ではない。
人の身体はすぐに適応する。
厳しい環境に身をおけば感覚は研ぎ澄まされていく。
そうなれば「有り難い」と思うことも増えるだろう。
人の暖かさや温もりになれ当たり前になってしまえば、その有り難さも感じづらくなっていくだろう。
こうした「居心地のよい世界」から抜け出し、思考も身体も自由にするための鍵は「アート」にあるのだと最近すごく思うようになった。
アートは人の感覚の表現であり、感覚に直接働きかけるものであると思う。
この人はこうやって世界を見ているのか
この人はこれをこうやって表現するのか
わかるものもあればさっぱりわからないものもあり。
なんか心地よい感じのするものもあれば、何か不安にさせるものもあったり。
最近はやけに美術館に行ったり街中に点在する芸術作品をみたりしている。
音楽も音一つ一つを大事に聴いてみたり、以前よりしっかり歌詞も読むようになった。
自分の知らない世界があっちこっちにある。
私はワクワクするんだけどな。
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