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悟りとか、ないから|どこまでも小さな自我で生きていく絶望と勇気
自我
またの名をエゴ
この自我というのは、まあ嫌われている
自我で生きていくことは、ひどく世俗的で、物質的で、それこそ罪であり、悪だと思われている具合である
基本的に、あらゆる人間の活動はこの小さな自我を克服する方向にある
いわゆる悟りというものも、結局はこの自我の消滅を指す
発達理論では、自己の中心性が減少していくことが発達の定義だとすると、何かで読んだ覚えがある
つまりは自我の減少こそが発達だということだ
ただ、私はここで、ある疑問が湧いてくる
「悟った」と語るその人は、一体誰なのか?
「自我」である
「エゴが弱まり、自分はちゃんと発達している」と思うその人は、一体誰なのか?
これももちろん「自我」である
そして私は思うのである
「悟った」と思うその自我は、むしろ最も膨らんだ自我ではないか、と
「自己の中心性が減少している」と思う自我は、むしろその中心性を増してはないか、と
悟りとは、自我の消滅である
であれば、悟ったのなら、「悟った」と語る個人そもそもが消えるはずである。なぜなら自我が消滅しているのだから
でも、そうはならない
必ず「私は悟った」という個人が存在し続ける
つまりはその個人は、自我である
そしてそう語る自我は、宇宙を飲み込むほど、膨れ上がっていると言える
なぜなら悟りとは、自我の消滅であり、であれば宇宙に溶け込むことを意味する
しかし、自我は残っている
ということはつまり、自我は、宇宙を飲み込むほど、膨れ上がってしまっているわけだ
つまり「私は悟った。もはや自我は存在しない」と語る自我は、むしろ最も膨れ上がった自我の姿だ
そして発達理論が言う、自我の減少が発達の定義であるなら、「悟った」と語る自我は最も幼稚な状態であると言える
つまり、スピリチュアル界隈でたまに見かける「私は悟ったの〜」とバッキバキの目で迷いなく語り始める自我は、最も幼稚な姿の一つだ
なぜなら「悟った」と語る自我は、あらゆるものを飲み込むほど巨大化し、そして強まっているからだ
これこそまさに、実に狡猾な自我の手口である
自我は、決して死なないし消えない
つまり、「悟り」は決して起こらない
「悟り」なんてものは、存在しない
自我は自らの努力で自らを殺したりしない
「悟りたい」と自我が望む
これは言い換えれば、「死にたい」と自我が望んでいるということだ
なぜなら「悟る」とは、「自我の死」を意味するから
一方で自我の機能は、あらゆるものを飲み込み、コントロールしようとし、全てを自らの道具とすることである
そんな自我が、自らで自らを殺すだろうか
そんなことは、決してあり得ない
つまり自我は「自らの死」である「悟り」すら、自らの餌にする
そういう背景から私は、「悟り」なんてものは存在していないと考える
少なくとも私は、自分で経験したことしか信じない
そして私は「悟った」と私が思うことを自ら経験したこともない(神秘体験はあるけど「自我が消滅した」と思うことはない。なぜならそれを体験する「私」は残り続けるからだ)
そしてたまにYouTubeで「悟りました」とか語る人がいるが、その人は明らかにその人の自我でものを語っているので、もはや自我の餌となっているように私には見える
むしろ「悟りました」と自我が語る時、この時はまさに自我のブレーキが壊れた時だと私は見る
なぜなら、自我が「自我は無くなりました」と言う時、それはもはや自我は自らを否定しようとする葛藤を失い、無限に肥大化していく
私はこれは、非常に危険な状態だと思う
自己否定を失った自我は、あまりに危険である
なぜなら、悟りというのを自らの道具としてしまうことを超えて、もはや「自我は消えた」と語り始める自我は、葛藤を失い自らで自らを疑うことができないからである
疑いがない状態を、私は「盲信」と呼ぶ
これは下手すれば狂気となり、人間であることをやめる瞬間とも言える
確かにそうだ
なぜなら自我とは、人間であることを意味する
動物は自我を持たない。だから葛藤も苦しみもない
自我を持つ人間だからこそ、葛藤と苦しみがある
そんな人間が「悟りました」、つまり「自我が消えました」と言う時、それはつまり「人間であることをやめました」という宣言でもあるのだから
私は思う
自分の経験から、思う
私も仏教なり、インド哲学を散々読み漁り、瞑想なり、色んなことをした
そしてそれを通して、様々な体験も得た
結果思うのは、
みんな自我のこと嫌いすぎだろ(私も含め)
ということである
そう、東洋思想は、自我大嫌いすぎるのだ
自我のことが嫌いで嫌いで仕方ない
それが東洋思想なのだ
苦しみの原因を全て自我のせいにする
失敗の原因を全て自我のせいにする
だから自我を超越し、自我が幻であることを見極めたら、苦しみが無くなることになっている
そうなったら輪廻は止まる
自我にまみれるこの世の苦しみに再誕生しなくなることになっている
それぐらい東洋思想は、自我大嫌いすぎるのだ
さて、先ほどの質問がここでも現れる
自我を嫌っているのは、一体誰か?
自我を超越したがっているのは、一体誰か?
悟りたがっているのは、一体誰か?
自我
自我!!
ZIGA!!!!
そう、自我なのである
どこまでいっても、何を抜けようとしても、何を超越しようとしても、そこにあるのは・・・
また言いましょうか?
自我!
自我!!
ZIGA!!!!(これ、気に入った)
そう、私たちは、所詮、自我なのである
どこまでいっても、所詮、自我なのである
どれだけ発達しようが、どれだけ超越しようが、どれだけ哲学しようが、どれだけ瞑想しようが、全ては自我の餌なのである
自我、自我、自我!
「そんなことない!私は最近、自我の薄れを感じる。それによって不思議な体験も起きた」
はい、それを体験したのは誰ですか?それを語るのは誰ですか?
自我!!!
自我だ!!!
ZIGAなんだ!!!
さて、私はなんでこんなに、自我自我、叫んでるのでしょうか
絶望して欲しいからだ
ことごとく、どこまでいっても、自分は小さく、しょうもない、自我なのだ
そのことに心底絶望してほしい
道徳を語ろうが、神聖を語ろうが、真理を語ろうが、悟りを語ろうが、自我なのだ、所詮
どこまでいっても、全てを餌にして、自分の都合いいようにあらゆるものを道具にして、利用する
なぜなら、それが自我なのだから
そのことに、絶望して欲しい
共に絶望しよう。自我フレンドとして
自分がどこまでいっても自我でしかないという現実に、絶望しよう
自我である勇気を持とう
自我として絶望する勇気を持とう
これは本当にしんどい
それがしんどいから、自我を抜けようと自我が暴れているのに、自我には決して自我を抜けることができないという現実を直視し、それを受け入れるのは、あまりにしんどい
これはまさに、地獄である
しかし、自我ができるのは、この絶望までなのだ
そう、自我の仕事は、ここまで
あらゆるものを利用し、餌にし、膨れ上がる
そしてその現実を思い知って、絶望する
自我ができるのはここまで
自我の仕事は、実存的危機を起こして、終わりなのだ
では、その先に、何があるのか
これはもう、何を語ろうと嘘になる
経験して欲しい
自我の絶望の先に何が待っているのか
それは、キルケゴールが「飛躍」と呼んだもの、エックハルトが「突破」と呼んだもの、私が「委ね」と呼ぶもの
それが起こる
それは、起こるのだ
決して、自我が起こすのではない
それは自らで起こるのだ
それを起こそうとするなら、それはもはやまた自我の餌だ
なぜなら、それを起こしたいと望むのは誰か?(ZIGAだ!!!)
自我は決して自らで自らを委ねない
自我の作用はむしろ、委ねを拒むことなのだから
だから私は、自我の機能はあらゆるものを道具にすることと、その現実を思い知って絶望することだと言った
自我は決して自らで自らを手放さない、委ねない
だから委ねは、起こすのではなく、起こるのだ
いつ起こるのか?
それは自我が自己否定によって絶望し切ったときだ
それが西田が絶対矛盾的自己同一という形で、自我という相対の自己否定と、絶対の自己否定を結びつけた逆対応が意味することだ(今度解説します)
ではその委ねは誰が起こすのか?
自我以外の、何かだ
少なくともその何かは、自我で考えるしかない私たち自我には、思考では掴みきれない
それが何なのかを自我で把握してから体験しようとする人は、決してそれを体験しない
なぜならそれは、自我で把握することは不可能だからだ
自我は結局、それをわかった気にしてまた自分の餌にしてしまう
だからまず、経験するしかない
何よりもまず信じ、そして経験するしかない
それが何なのかはわからない。にも関わらず、そこに向かう
その勇気が、必要とされているのだ
そのために自我がやれることは、どこまでもあらゆるものを利用してしまう自我の本性に気づくこと。そしてその現実をひたすら直視し、心底絶望すること
絶望する勇気を持つこと
「悟り」を目指す自我は、結局のところ絶望するのが怖いのだ
だから「悟り」を目指す。「悟り」を絶望から逃避するための餌に変えて
この自我の狡猾さに気づこう。そしてそれを直視しよう
我々(自我)に我々自身を救う力はない
このことにちゃんと絶望しよう
悟りとか、ないのだから