ケリー・ライカート監督『ミークス・カットオフ』を観て感じたこと
2021年7月、毎年夏の暑さを思い出すこの時期に、イメージフォーラムでケリー・ライカート特集が行われている。私はもう既に3本観ていて、彼女の独特な作家性には慣れてきていた。
おかげで少し冷静にこの4本目の映画を考えることができたので、感想を書き残しておく。
あらすじは備忘のため最後に載せておく。
注意
ネタバレしているので、まだ見ていない方は注意のこと。
今回の特集で観た4本はどれも素晴らしかった。そのうえでの感想であり、この作品への批判では断じてない。
砂漠の真ん中には、東京の真ん中より狭い空
西部劇は伝統的にその映像の美しさが一つの売りだった。ジョン・フォードの時代はもちろんのこと、マカロニ・ウエスタンでもそうだし、西部劇への反抗という側面を持つ『イージー・ライダー』でさえ、たくさんの美しいアメリカの景色を見せてくれた。
ところがこの映画はどうだろう。せっかくの広大な大地と青空は4:3(スタンダードサイズ)のフレーム(注1)で切り取られ、地平線はどのカットでも半分より上をうろうろしている。例外的にそうでないときは、馬に乗った案内人のミークが高圧的にこちらを見下すときである。
どの西部劇より狭い空の下、この映画は常に窒息しそうなほどの閉塞感で押し込められているのだ。
もう一度『イージー・ライダー』を例に出すと、あの作品では夜ごと焚火を囲む男たちの感傷的な会話がひとつのカギになっている。対照的に、この映画に大麻でぶっ飛ぶ夜は来ないし、焚火は話相手の顔も照らせない。せいぜいインディアンの襲来に怯える夜があるだけである。
こういったこの映画を包む息苦しさは現代のアメリカへ向け用意されたものと考えることができるが、それが男性社会に感じる抑圧なのか、どこへ向かうかわからない政権のことなのか。どちらのものでもあるのか。
(注1)このサイズを劇場で見ると、ほとんど正方形の印象である。いかに現代人が16:9に慣れているか。。
女性賛美を慎重に避けることのむずかしさ
この映画のタイトルは直訳すると『ミークの近道』となるが(注2)、ミークは迷っているのである。男としてのプライドがそれを認めないだけで(注3)。
ミークだけではない。男たちはみな頼りなく、正しく一行を導くことができないままであるが、ここにひとりの夫人(注4)が対比される。
彼女はインディアンに対し暴力的な方法でなく貸しを作ることで関係を築き、水場への案内をさせようとする。食べ物も分け与える。
短気なミークがインディアンを撃ち殺すのを阻止したのも、彼女である。
これを観る人は誰でも(私も)、伝統的西部劇に描かれる男女の役割がまるで逆転したように思える。ああ、男性の粗暴さは、問題の解決に役立たない。これからアメリカを率いるのは女性なのだ(注5)、と。
しかしこの映画には、この仮説への反証をいくつか読み取ることができる。
例えばほかの女性である。とくにひとりの女性は途中からインディアンの襲撃にひどく怯え、それこそヒステリックに叫ぶ伝統的な女性像を象徴している。
あるいは例の夫人にしたって、夜になれば夫に対し不安定な面を見せる。昼間は表向き冷静にしているようでも、それは無理しているだけのことであって、本当は彼女も怖いに違いない。
極めつけは印象的なラストである。彼女の意見によってインディアンを信用してついていくことになったが、それが正解だったなんていう描写は全くない。ミークの言う通り初めに殺すのが正解かもしれないのだ。
このように、フェミニスト映画の優等生として女性への賛美を印象付けているように見えてその実、案外そうでもないのである。
(注2)あってますか?
(注3)最後には認めることになるが。
(注4)登場人物の名前を覚えるのが本当に苦手。大好きな映画を語ろうとしても主人公の名前すらまともに出てこず、「本当に好きなの?」と言われることも多い。
(注5)あるいはインディアン?または少年と考えることもできる。少年が金を発見するのはこの映画で数少ない希望が見えるシーンであり、子供たちに何らかの希望を見出そうとしているように見えなくもない。インディアン・女性・男性・こどもみんなで頑張ろうということかもしれない。
まとめ
ケリー・ライカート特集、本当に素晴らしかった。本当に素晴らしいけど、もう見たくない映画ばかりだった。それはつまり、目をそらしたくなる現代日本人としての私の泣き所を、遠いアメリカから暴かれた感覚だった。
あと個人的体験として大学院生時代砂漠で研究をしていたが、砂漠の日暮れは本当に怖い。水分を含まない空気は比熱が極端に小さく、日が陰った瞬間一気に寒くなる。気づかずフィールドで作業していて丘の影が伸びてくると、その影から逃げるように走って車へ戻ったことを思い出した。ほかにも私は経験がないが、オフロードのぬかるみにはまって車が動かなくなり数十キロ歩いて助けを呼んだ人もいた。べつにオチはないが、砂漠の映画を観るたびにトラウマのように思い出す。
あらすじ
(とはいっても物語と言うほどの展開は存在しない。起承転結の承が間延びしたように延々と紡がれていき、いよいよ転じるかというところで突如こと切れる。)
1845年、西部開拓を目指す二世帯とその案内人(ミーク)の御一行は、砂漠の真ん中でいよいよ迷っていた。水は底を尽きかけ、飼っている鳥はもう死んだ。
そこへ一人のインディアンとの邂逅。水場までの案内をさせることに決めるが、言葉が全く通じない。時折呪文のような、祈りのような、あるいは何か訴えるような言葉を発するが、一行は全く理解できずに怯える。
ミークはどれだけインディアンが野蛮で恐ろしい人種かを熱弁し、だれも積極的に関わろうとはしないのだが、ひとりの夫人だけはなんとか関係を構築しようとする。
当てがあるのかもわからず二日ほど歩くと、インディアンはある丘の手前で立ち止まり、またしても何やら言葉を発する。
もうこれに賭けるしかないと踏んだ白人たちは丘へ向かうが、牛車と水がめを壊してしまう。ミークはいよいよ煮えを切らしインディアンに銃口を向けるが、例の夫人は逆にミークに対し銃を突きつける。
その場は一応丸く収まり、またしてもインディアンに着いていく。もう水はない。一人の男が倒れる。限界は近い。着いていったところで水場へ案内される保証なんてないが、彼らはもう着いていくしかないのだ。(終)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?