危機(1946)
ぜんてい&一言あらすじ
巨匠イングマルの監督デビュー作。第二次大戦直後だが、スウェーデンは中立国。
ストックホルムから離れたスウェーデンの田舎町。ここに暮らすとある娘は質素ながらも仲の良い母やお手伝いさん、いい感じの男とともに平和に暮らしていた。が、この娘の本当の親は都会の成金ババアだった。ババアは突然この村にやってきて、引き取っていってしまった。都会で物質的に豊かになることが本当の幸せなのだろうか?という話。
感想
ベルイマン大好きというひいきを入れても、お話自体は凡庸かと思う。特に後半は娘が口を閉ざしてしまうのと、19世紀的な男(注1)が登場することで前半に比べストックホルムに引き取られた後の流れがうやむやで、腑に落ちない。
決定的に悪いのは演出。脚本にコメディ要素がないにもかかわらず終始気の抜けたBGMやモブたちのコミカルな立ち回りは、この映画の論点をますます煙に巻いてしまっている。
ただし歴史的にいってチャップリンにしても30年代のフレンチコメディにしても根源にはつらい社会背景があるので、べつにこのミスマッチ自体が失策なのではなく、ただ明らかにその融合には失敗しているということだ。(ドイツにも連合国にもいい顔をして"中立"を守った戦後スウェーデンに、どんな"つらい"社会背景があったかは知らないが。)
だけどそれでも良い。ベルイマンがこの映画を撮って、また次も撮ろうと思ったおかげでたくさんの素晴らしい作品が作られたので。この映画をみて批判するのは、アインシュタインの子供のころの計算ノートを観て未熟だというようなものだ。
一応無理やりのちの時代のベルイマンとの共通点を探してみると、屋外の会話シーンはかなりベルイマンぽいと思う。ピクニック的というか、あまりにもわざとらしく草の上に座って男女が話すシーンのこと。
(注1)19世紀的な男とは、感情の赴くままに素直に人を愛したり、呪ったりする男のこと。直情的・刹那的。勝手に定義した。現代的な社会ではこういう男は未発達・非社会的とされ相手にされないが、昔の小説とか読むと、「放っておけない」扱いをされて、かなり強引に人間関係を構築している。というか昔の小説だと、今と違って簡単に人と縁を切らない。(そこが好き)
ストーリーメモ
ロケか?田舎町。ナレーションがある。喜劇タッチ。この街に預けられた娘を、都会に住む母が引き取りに来るという話らしい。当時は貧しかったから預けたとのこと。いけ好かない成金ババア。
育ての母と言い合いになる。ここで映される窓際の美しさはベルイマンぽいと思う。こだわりあんのかな~
育ての母としては、下宿人の獣医と娘は付き合っているのでさっさと結婚させる作戦。
ババアはパトロンのおっさんと舞踏会に行く。こんな田舎でも舞踏会がある。娘は娘で、獣医と舞踏会に来ている。パトロンジジイは乱痴気騒ぎを起こし、娘と二人で抜けだす。獣医はどうでもいいらしい。
川辺で語らう。ベルイマンは草の上で男女を語らせたがる。
獣医が現れ、取り返す。
娘は母と出会い、すぐに都会行きを決める。つーかパトロンのおっさんはパトロンではなくババアの甥だった。キスすんな紛らわしい。
娘がいなくなると、獣医は街を去った。お手伝いおばさん(いたんだ)は双子を生んだ。育ての母(母1)、生みの母(母2)にする。
母1は病んだ。死が近い。娘に会いに行くことにした。
この話、めっちゃドストエフスキーっぽい。貧困と結びつけば。
あと詩的リアリズムっぽくもある。
だが、決定的に社会派ではない。それはイングマルらしい。
うおー都会の映像が差し込まれる。すごい。ただそのあとはセット。
母2はサロンで大成功している。甥はヘラっている。娘は問題を抱えているらしいが、細かくは聞き出せず。連れ帰ることもできなかった。
田舎に帰ると、獣医が戻ってきていた。母1は精力が沸いている。どうにか娘を幸せにしてやりたい。
メンヘラ甥は殺人を犯したが、娘と愛し合っている。。なぜ?と思ったが、80年後の日本より80年前のロシアのほうが文化的には近いわけで、ドストエフスキーっぽいのも納得かな。
甥は本当は殺人をしていないし、甥でもないとのこと。急にミステリー。母2は老いて孤独になるのが怖くて男と娘を囲おうとした。元甥は自殺した。
田舎に帰る娘。
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