「読書家」是非

 習慣的に読書をする人や、多数の著作を読んだ経験のある人を「読書家」と呼んだりする。中には自ら「読書家」たらんと、読書に明け暮れる人もいる。ところが、私の率直な感想を述べてしまうと「読書家」と呼称されるのは、みっともない事だと思う。これは私が本を読む理由と関係している。

 本は、自分の考えている事と照合してみるためのものである。自分が掴んでいる問題を、先人も同じように掴んでいたかどうか、または、違う形式で掴んでいたどうか。その問題をどのように深め、問題の根を明らかにし、問題が解消されるよう歩みが進められたか。自分の問題に対する見落としはどこにあるか。著者の問題に対する見落としはどこにあるか。大体、以上のような観点から本を読む。対して、こうした観点の欠如した、闇雲な、ひたすら数を熟そうとする読書を濫読と呼ぶ。

 残念ながら、現在の「読書家」の状況は濫読派が多数を占め、書物を通して自己との対話を試みるような精読派は末席にくだっている。尤も、これら何れかの派閥に属するように読書に「務める」のもまた、本質を捉え損ねるためお勧めしない。ただ濫読型の読書家が増殖し、彼らのレビューが必要以上に溢れてしまうのは、望ましい事ではない。彼らの思索を欠いた、著作にただしがみつき、何か名言じみた美辞麗句を述べようとする一言居士的態度は、知性の誤用、或いは教養人気取りの虚栄心を蔓延させるばかりである。

 上述の如き「読書家」は、本こそ多量に読んでいるが、思索や独自の考慮の跡が無い。こうなると、誇れる内容は読書量のみとなる。学者や批評家、評論家、専門家は多量の著作を読んでいるけれども、態々読書家とは呼ばれない。読書は通過点であり、ただ必要に迫られ、読まざるを得ないから読んでいるだけの事で、彼らはその事についていちいち矜持を語らない。ここに、「読書家」とその他の専門知を生業とする人々との決定的な違いがある。私が「読書家」をみっともないと感じるのは、まさにその点である。実情に促して「好事家」と名乗れば良いものを、あくまでも知的な顔を振り翳したいという浅ましい根性のために「読書家」と名乗る。その屋号から厚顔無恥の精神が滲み出ているではないか。

 当然、一冊の本によって抱える問題が一切解決するといった事はあり得ない。むしろ、謎は深まっていき、焦点は容易に絞られず、事態は茫洋としてくる。再びひとりで考え、思索の歩を進める。進めたかと思うと遭難し、立ち戻り、本を読む事で覆されもする。学術書は焦点が明確な状態から書き始められている点において、詩や小説よりも問題を考える人にとって有力である。一方、詩や小説でなければ浮かび上がらない「謎」もある。著者がそうした問題を把捉し、提起する前提で書かれたかは重要ではない。著者の計り知れぬところで、読者自身と著作の間に問題が共有される事に読書の本質があるように思われる。著者の意図を汲み取るように読む方法(現代文的読解)だけに固執してはならない。現代文的読解は基礎であり、そこから読者は自身の問題と共に「読み」のスタイルを形成してゆけばよい。

 自身の根底に問題を感じない人たちに、読書は不要である。これから読書をしようという諸氏にあっては「読書家」のように徒にページを捲り、物語や知識を覚えるだけのために本に触れて自己陶酔に耽るより、散歩がてら植物園へでも出かけるのを強く勧めておく。


いいなと思ったら応援しよう!