●短編小説●車輪は東へ。
「…明日の朝にはさ、もうお別れなんだね。」
いつもより小さい声で、足元を見ながらつぶやいたその声に、俺はどう答えればよかったんだろう。
「離れたくない。」
そんな女々しいこと、言えるわけない。
「絶対に戻ってくるから、待っててな。」
そんな無責任なことも、言えるわけない。
結局のところ、いつも通りぶっきらぼうに「うん。」と答えることしかできなかった。
いつもと違う、暗い笑顔が頭から離れない。瞼に焼き付く、という表現は、こんな時のためにあるんだろう。明かりを落とした部屋の中、いつもと同じベッドでひとり目を閉じるたびに、あの顔が浮かんできた。
『ピピピピピ…。』
最後の朝は、いつも通りの電子音からはじまった。目は覚めているのに、なぜだか頭がすっきりしない。どこか現実感のないような、ふわふわした感覚だ。
もしかしたら、今日この町を離れるというのは、夢か何かなんじゃないか。今日もあいつと、他愛のない話ができるんじゃないか。そんなおかしな妄想は、荷物をぎゅうぎゅうに詰めたキャリーケースと、遠い街の名前が書かれたチケットに打ち砕かれる。
「ふぅ。」
動き出そうとしない体をベッドから引き離すために、短くひとつ息を吐いた。しっかりしろ。今日の夜からは、一人で生きていくんだぞ。自分にそう言い聞かせながら、身支度を始める。それでも、まばたきをするたびに思い出すのは、あの暗い笑顔だった。
「じゃ、行ってきます。向こう着いたら連絡するから。」
いつもより一時間ほど早く、家を出る。空は雲一つなく晴れているのに、まだ少し薄暗い。もうすぐ春だというのに、山に囲まれたこの辺りでは早朝の空気はまだ冷たく、しんと静まりかえった町が余計に寒さを感じさせる。
今日からしばらく、この道を歩くこともないんだな。そう思うと、らしくはないがちょっと感傷的な気分になる。家の前から駅方面へと向かう味気ない道路も、いつもよりゆっくりと歩きたくなってしまう。
この角を曲がれば、あとは駅まで一本道だ。こうして見渡してみると、本当に何もない町だと実感する。こんな時間では、やっとコンビニが開店したくらい。二十四時間営業の店なんてのは、存在自体が都市伝説みたいなものだ。たいたいこんな辺鄙な町で…。
「よっ。」
角を曲がった先で、聞きなじみのある声に顔を上げると、莉子が立っていた。
「莉子…。なにしてんだよ。」
「え、それひどくない?見送りにきてやったっていうのに!」
「別にいいし。っていうか寒いだろ。鼻真っ赤だぞ。」
「ホント寒かったんだから!もっと早く来てよ!」
「いや、待ってるの知らんし。」
「…知ってたら、もっと早く来てくれた?」
「…来ない。」
「来ないんかい!そこはさ、お前に会えるなら何時でもとかさぁ…!」
そう言って笑う莉子は、いつもと同じ様子だった。昨日の表情は、俺の勘違いだったのかもしれない。というか勘違いだろう。どんな時でも元気で騒がしいコイツが、あんなに暗い顔をするわけがない。それも、俺と離れることくらいで。
莉子も俺と離れたくないと思ってくれているのか…というのは、俺の思い違いだったわけだ。そう思うと、昨夜それが頭から離れなくなっていたことが、途端に恥ずかしくなってきた。
「なに?元気なくない?もしかして寝不足?あっ、私と離れるのが寂しくて、寝れなかったんでしょ!」
「うるせえ。」
ふいに図星をつかれた時、とっさに出てくる言葉はいつも同じだ。
「あっ、図星でしょ!耕介って分かりやすすぎ!都合が悪いとすぐ『うるせぇ』って言うんだから。」
そして、それは莉子にバレている。バレているのは分かっているが、いつもバレていることを知らないふりをする。そうでもしないと、恥ずかしくて耐えられなくなってしまう。
「そんなことねーし。昨日はぐっすり寝た。」
「えー、絶対ウソだ!」
「ウソじゃねーし。」
目を合わせないようにして、誤魔化すのがやっとだった。どうやったって莉子には敵わない。小さいときからいつもそうだった。遊ぶ時も、ケンカした時も、いつでも莉子のペースだった。
「…私はさ、結構寝不足だよ?」
「えっ。」
「なんてね!今のどう?可愛かったでしょ?」
「…うるせぇ。」
「あ!また図星!」
「…。」
正直、すごく可愛かったし、不覚にもドキッとしてしまった。それと同時に、自分に言い聞かす。落ち着け、こいつはこんな奴だ。
「あれ、そのキーホルダー…。」
莉子が視線を向けた先には、ショルダーバッグのファスナーにぶら下がる、星形のキーホルダーがあった。
まずい。このキーホルダーは、小学六年生の時に、ひょんなことから莉子とおそろいで買ったものだ。旅行用のショルダーバッグに付けていたのを、忘れていた。これじゃまるで、俺が莉子との思い出の品を、わざわざ持って来たみたいじゃないか。
「ああ、このバッグ、昔から使ってるから。だから…。」
とっさに口をついて出た言い訳が不自然にならないように、言葉を継ごうと考えを巡らせる。莉子とおそろいなのが嬉しくて、ずっとこのバッグに付けていたのがバレたら、またイジられてしまう。
「なんだっけ、それ。どっかで見覚えあるんだけど…。」
「えっ。」
「ん?」
覚えてないのかよ…。そりゃそうか。友だちの少ない俺と違って、友だちとおそろいのものを買うなんて、莉子にとっては特別でもなんでもないんだ。また一人で舞い上がってしまうところだった。
「あー、俺もいつ買ったか忘れたんだけどさ、なんだっけこれ?ここに付いてたのか。そっかそっか。」
「耕介も覚えてないの?」
「あー、うん。…なんか大切なものだったとは思うんだけど…。」
「そっか…ふふふ。あっ、ほら、急がなきゃ!電車来ちゃうよ!」
莉子はそう言うと、駅までのゆるやかな上り坂を、足早に駆け出した。
「まだ余裕あるだろ、時間…。待てよ!」
莉子の後を追う。古いショルダーバッグは大きく弾み、新品のキャリーケースは、車輪がガタガタと揺れていた。
「あっちまで何時間かかるんだっけ?」
人影もまばらな改札口で、莉子が口を開く。
「電車と特急と新幹線乗り継ぐから、待ち時間いれると6時間くらいかかる。」
「そっか。…遠いね。」
「…うん、遠い。え、何してんの?」
「入場券買ってる。」
「いや、わざわざ良いって。ここで。」
「まぁまぁ、いいからいいから。一回やってみたかったんだよ!」
莉子はなぜか嬉しそうに、入場券を買って、ポケットにしまった。
「すぐ使うだろ。」
「もー、耕介そういうところあるよ?一見意味のなさそうな行動にも、それぞれに意味があるのだよ!」
「わけ分からん…」
「…時々帰ってくるんでしょ?」
「どうかな。忙しかったらあんまり帰れないかも。」
「そっか…。」
「…。」
二人の間に、沈黙が流れた。人気のほとんどないホームでは、電車が数分間遅れることを知らせるアナウンスが、繰り返し流れている。
このままだと、あと少しで莉子と離れ離れだ。すぐに連絡がとれるといっても、四月から環境が変わるのはお互いさまで、次第に疎遠になってしまうかもしれない。それでいいのか、本当に後悔しないのか。このままでいいのか。十年以上、同じことをずっと考えてきた。
いつまでも中途半端なのは、嫌だ。鼓動が早く、体温が高くなるのを感じながら、言うことを聞かない口を、無理やり開いた。
「あ、あのさ、莉子。俺、ずっと…。」
「ダメだよ。」
「…。」
「今は、ダメ。我慢できなくなっちゃう。耕介の前で、泣きたくない。」
「莉子…。」
「今日はさ、最後まで私らしく笑顔でいるって決めたんだ。昨日はちょっと、さ。らしくなかったかなって。」
「お前、やっぱり昨日…。」
「ふふふ。だからね、また今度、聞かせてよ。耕介の気持ち。」
「でも…。」
「私もね、たぶん同じだから。耕介とさ、気持ち。だから大丈夫だよ。」
「…なんで…。」
「だって、耕介って分かりやすいんだもん。」
「…うるせぇ。」
「あ、また言った!」
「…うるせぇ…。」
「ふふふ…。だからさ、もっといい男になって、戻っておいでよ。」
そう言ってこちらを向いた莉子は、いつも通り、輝くような笑顔だった。
「…うん。がんばってくる。」
「がんばってね。あ、耕介さ、真顔だと怒ってるように見えるから気を付けなよ?そもそもが人見知りで無口なんだから、表情くらい柔らかくしとかないと、友だちできないよ?」
「…努力するよ。」
「大丈夫かな~?耕介が都会でうまく暮らしていけるか、私は心配だよ…。」
「お前は母ちゃんか。」
「だってさー、耕介って私がいないと何もできないじゃん。この間だってさ…。」
「俺、成長して帰ってくるから。」
「…うん、待ってるよ。お土産。」
「土産かよ。」
声を出していたずらに笑う莉子を見ながら、やっぱりこいつには敵わないな、と思った。俺の気持ちも、動揺も、決心も、すべてが見透かされていたみたいだ。
『プルルルルルル…二番乗り場に、電車が入ります。黄色い線の内側に…。』
「おっ、来たよ!なんか、ホントにあの曲みたいだね。」
「あの曲?」
「ほら、あれだよあれ!」
「分かんねぇよ!」
「っていうか早く乗らなきゃ!ほら!」
「お、おう。」
「じゃあね、耕介。」
「うん、元気でな、莉子。」
「連絡、してよね。」
「うん。」
「都会に染まらないようにね?」
「なんだよそれ。」
「…またね。」
「うん。またな。」
出発を告げるベルが、けたたましく鳴り響く。キャリーバッグを持ち上げ、電車に片足を踏み入れた。
その瞬間。
「耕介!」
突然の大声に驚いて振り返ると、莉子の顔がすぐそこにあった。
「えっ、えっ?」
「じゃあね!」
プシュッという音とともに扉が閉じ、こちらとあちらの世界を遮断する。
「今…くちびる…えっ?」
莉子はドア越しに、舌をべーっと出して笑っている。最後の最後まで、してやられてしまった。
いつもの笑顔はいつまでも、こっちが恥ずかしくなるくらいに大きく手を振っていた。
「ふぅ…あぶなかった…なんとか我慢…できた…。」
電車が見えなくなり、乗降客がいなくなったホームには、すすり泣く声だけが響いていた。
「約束だよ、必ず、いつの日かまた…。」
ポケットの中では、震える左手が、ボロボロになった星形のキーホルダーを握りしめていた。
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