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【黒い聖母】新約聖書・キリスト教の研究-18/#156


黒い聖母の謎

黒い聖母」という謎めいた聖像は、ヨーロッパ各地に存在し、特にカトリック教会や正教会で重要な崇拝対象となっている。この黒い聖母像は、多くの場合、聖母マリアを表しており、その中でも「マグダラのマリア」と結びつけられることがある。これは、黒い聖母がしばしば受け取る「神秘的で秘教的」な象徴性によるものだ。マグダラのマリアも、歴史的に謎に包まれ、しばしばキリスト教の異端思想や異教的な信仰と絡められてきたためだ。
「黒い聖母」像の特徴的な黒さについては、いくつかの説明が存在する。最も単純なものは、時代の経過や環境によるものだという説で、燻煙や酸化の結果として黒ずんだ可能性がある。しかし、それ以上に象徴的な意味を見いだす研究者たちもいる。彼らは、「黒い」色が土や母性、そして豊穣と結びつくことから、古代の地母神信仰やエッセネ派のような秘教的なグループとの関連を強調する。特にエッセネ派は、初期キリスト教時代の神秘主義的なユダヤ教派で、禁欲主義や霊的な修行を重んじていた。彼らは、聖なる女性原理を崇拝し、地母神的な信仰を有していたとされ、黒い聖母像がこうした信仰の影響を受けているのではないかという仮説が出される。
また、エッセネ派の教えは「光と闇」の二元論を含んでおり、これは多くの黒い聖母像が持つ二重性、つまり聖性と謎めいた深遠さに通じる。黒い聖母の顔が暗く描かれていることは、この二元論的な視点から見ると、闇を象徴するのではなく、むしろ秘められた知恵や、深遠な霊的な真実を表していると解釈されることもある。
さて、ここで話題を「ダ・ヴィンチ・コード」に移そう。このベストセラー小説は、マグダラのマリアがキリストの妻であり、彼らの子孫を守る秘密結社が存在するという、衝撃的な理論を描いている。物語では、マグダラのマリアがキリストの血脈を持つ女性の象徴として扱われ、これを守るために、聖杯(キリストの血を受けた杯)が実は彼女自身であり、彼女の子孫を保護するための陰謀が繰り広げられている。しかし、これは歴史的な裏付けのないフィクションであり、キリスト教の正統教義とも異なる。
秘密結社の話に戻すと、フリーメイソンやテンプル騎士団といった組織が、こうしたキリストの子孫の保護をしているという陰謀論が根強く残っているが、実際にはそれを裏付ける証拠はない。フリーメイソンなどの秘密結社は、そもそも啓蒙主義や人道主義的な価値観に基づいており、宗教的な血筋を守るという目的を持つものではない。これらの組織は多くの場合、権力の集中を警戒し、個人の自由と倫理を重んじる思想の延長にあるものだ。
結局のところ、「黒い聖母」や「秘密結社が守るキリストの子孫」といった神秘的なテーマは、想像力を掻き立てるものの、それは主にフィクションや宗教的な象徴性によるもので、現実的な証拠に基づいているわけではない。しかし、それが私たちの精神的な世界を豊かにすることに異を唱える人は少ないだろう。人々は神秘の中に真実を探し続け、その過程で歴史と宗教の理解を深めようとするのだから。

ヤスナ・グラの聖母
山形県鶴岡市鶴岡カトリック教会天主堂の黒い聖母像

デリヴランドの黒い聖母像

デリヴランドの黒い聖母の歴史
聖母像の起源と伝説
デリヴランドの黒い聖母像の起源は、7世紀にまで遡るとされています。この聖母像が最初に祀られたのは、フランス北西部ノルマンディー地方に位置するドゥーヴル・ラ・デリヴランドの聖地でした。伝説によると、この像は奇跡的に発見されたものであり、その発見にまつわる物語が、長い間人々の間で語り継がれてきました。
特に有名なのは、1030年または1130年頃に、羊が土の中からこの像を掘り出したという伝説です。この奇跡的な発見によって、デリヴランドの黒い聖母像は崇拝の対象となり、多くの巡礼者がこの地を訪れるようになりました。聖母像は、特に「死産した赤子の蘇生」や「海での難破者の救助」など、多くの奇跡を起こしたとされ、デリヴランドは「救難の聖母」が祀られる聖地として名高い場所となりました。
また、ノルマンディー地方の歴史的背景や、近隣地域におけるドルイド教の影響も、この聖母像の崇敬に関与していると考えられています。デリヴランドの地名自体も、ケルト語源の「川の果ての地」を意味し、古くから神聖視されてきた場所でした。このような伝説や宗教的背景が重なり、黒い聖母像はデリヴランドの町の象徴として崇められました。
中世における聖母像の破壊と再生
デリヴランドの黒い聖母像は、16世紀の宗教改革期に、プロテスタントによる破壊の標的となりました。1561年、フランスで起こったカトリックとプロテスタントの対立(いわゆる宗教戦争)の最中、デリヴランドの聖堂はプロテスタントの集団によって襲撃され、当時祀られていた中世の黒い聖母像は破壊されました。この時、聖堂の他の像や聖遺物も破壊され、多くの歴史的記録も失われました。
その後、カトリック教会の改革運動が進む中で、黒い聖母像は再生されることになりました。1580年、デリヴランド教会の彫刻家ピエール・ル・ジャルダンによって新たに石彫像が製作され、破壊された中世の黒い聖母像に代わるものとして聖堂に納められました。この新しい像は、中世のロマネスク様式の「荘厳の聖母」から、ノルマンディー・ゴシック様式へと変化しており、立像の形態を取っています。
この再生された聖母像は、ロマネスク様式の厳格さを保ちながらも、ゴシック時代特有の自然主義的な姿勢を持ち、幼子イエスを抱く姿が特徴的です。イエスは、聖母のマントを掴みながら聖母の肩に手を回しており、聖母は前を見据えた厳粛な表情をしているという、力強い彫刻です。この像は、その後デリヴランドの聖堂に安置され、再び巡礼者たちの崇敬を集める存在となりました。
デリヴランドの黒い聖母像の再生は、カトリック教会の宗教的象徴としての重要性を再確認するものであり、フランス国内外の多くの人々に崇敬される存在へと成長していきました。この時期から、聖母像に豪華な衣装を着せる習慣が始まり、その姿はさらに荘厳なものとなりました。
こうしてデリヴランドの黒い聖母像は、破壊の危機を乗り越え、ノルマンディー地方の信仰の中心として再び確立され、現在まで信仰の対象として続いています。

黒い聖母像の象徴的意味

黒い聖母像は、通常の聖母マリア像とは異なる褐色や黒色の肌を持ち、その色彩が信仰の中で特別な象徴性を持っています。この象徴性は、聖書やキリスト教の伝統だけでなく、古代から続く異教の要素とも関わっていると考えられます。

  • 黒色の意味: 黒い聖母像における黒色は、しばしば「謙虚さ」や「苦難」、さらには「再生」を象徴するとされています。特に、聖書の『雅歌』第1章5節にある「私は黒い、けれども美しい」という言葉(Nigra sum sed formosa)が、その解釈に大きく影響しています。このフレーズは、黒い聖母像の黒色が日焼けや苦難を象徴しながらも、聖母マリアの美しさや純潔さを保っていることを示すものとして解釈されてきました。

  • 苦難と再生: 黒い聖母像は、多くの場合、困難や苦難の中で信仰を保ち続ける信者たちの象徴ともされています。黒い肌の聖母は、暗闇の中にあっても神の恩寵を与える存在であり、再生や復活の象徴とも見なされています。このような象徴的意味合いが、黒い聖母像が特に災害や病気、危機の際に祈願の対象となる理由とされています。

古代の女神像との関連

黒い聖母像は、キリスト教における聖母マリア像として位置づけられるだけでなく、そのルーツがさらに古代の女神崇拝にまで遡ると考えられています。特に、古代エジプトやローマ、ケルトの宗教的な大地母神信仰との関連性がしばしば指摘されています。

  • エジプトのイシス像との関連: 黒い聖母像は、しばしば古代エジプトの女神イシスとの関連が指摘されています。イシスは、豊穣と母性を象徴する女神であり、幼い息子ホルスを抱いている姿で表現されることが多く、これは聖母マリアと幼子イエスの姿と重なります。特に、イシスがホルスを膝に抱えている図像は、後のキリスト教における「荘厳の聖母像」(玉座に座り幼子を抱く姿)のプロトタイプと見なされています。

    • イシス信仰は、ローマ帝国時代にフランスやスペイン、イタリアにも広がり、パリやル・ピュイなどの地ではイシスを信仰する神殿が建てられていました。このような背景から、古代のイシス像が後にキリスト教に吸収され、黒い聖母像として再解釈された可能性が指摘されています。

  • ケルトの大地母神信仰: ケルト文化においては、大地を象徴する母なる女神が崇拝されており、その像はしばしば黒い肌を持つものとして描かれていました。これは、豊穣や再生を司る大地の暗黒面を象徴するものと考えられます。ケルトのドルイド教では、自然の神々への信仰が盛んであり、黒い聖母像はこのような古代信仰との融合の産物である可能性があるとされています。

    • 特に、フランスのシャルトル大聖堂の「地下の聖母」像が、古代ケルトのドルイド教の大地母神と結びつけられているという伝承が残っています。この伝承では、ドルイドの聖域に安置されていた大地母神が後にキリスト教に吸収され、聖母マリアとして崇敬されるようになったとされています。

  • その他の異教的起源: 黒い聖母像が古代の大地母神信仰や異教的な神々との関連性を持つという考えは、多くの学者によって議論されてきました。例えば、古代ローマの豊穣の神々や、ギリシャのデメテル、東方のアルテミスといった女神像も、黒い聖母像の源流の一部と見なされることがあります。これらの女神像も、生命の再生や豊穣を象徴しており、その象徴がキリスト教に取り込まれた可能性があります。

結論:黒い聖母像は、単なるキリスト教の聖母マリアの像にとどまらず、古代から続く異教の女神崇拝と密接に関連しており、その象徴性は多岐にわたります。黒色は苦難と再生を示し、また大地や豊穣の象徴ともなっており、古代エジプトやケルトの大地母神信仰の影響が色濃く残っていると考えられます。これらの象徴性が、黒い聖母像が特別な信仰対象としての位置を占め続けている理由です。

私たちはマルセイユでもう一つの奇妙な発見をした。「黒い聖母」である。
この宗教的な像は通常の聖母子とまさに同じであるが、なぜか「黒い肌」をしている。黒い聖母はローマ教会にあまり気に入られず、少なくとも疑いの眼でみられていたことを忘れてはならない。
黒い処女ともいわれる黒い聖母像は、それが置かれている土地で崇敬を集めていた。黒い聖母はポーランドやイギリスも含めてヨーロッパのあらゆる場所でみられるが、もっとも集中しているのがフランスの、とくに南部である。これらの像には、いまも膨大な数の熱烈な信者がいるのは明らかであるが、それもその土地にかぎられたものであり、カトリック教会は決して正式の認可や支持を与えていない。

マグダラとヨハネのミステリー
サイヤンによる「1550年頃のフランスにおける黒い 聖母の所在地」

イアン・ベッグは『黒い聖母崇拝の博物誌』のなかで、
1952年12月28日のアメリカ科学振興学会で黒い聖母についての発表がはじまると、聴衆のなかの聖職者や修道女らは退席し……明白な敵意が感じられた。
彼はさらに続けて、現代のほとんどの聖職者には、目に見える敵意だけではなく、これについての興味も知識もないばかりか、調査が必要とも感じていないと書いている。
これらの像が黒いのは、かつての異教の母神崇拝がそのままキリスト教にすげ替えられたことを示している。これらの像に対する崇拝はとても禁止できないぐらい熱烈だったので、おそらくローマ教会としても、ただ無視を決め込むほかなかったのだろう。そのうえ崇拝を禁止などすれば――まさに今日みられるように――逆に注目を集めるだけである。

マグダラとヨハネのミステリー

女神としてのマグダラのマリア

イシス信仰

初期キリスト教徒は、聖母マリアを表わすのにイシスの図像を借用した。たとえば聖母マリアには、「海の星ステラ・マリス」や「天の女王」などのイシスの呼称が用いられた。三日月の上に立ち、髪の毛や頭の周りに星の描かれた伝統的なイシスの図像も、そのまま聖処女マリアに適用された。なかでももっとも驚くべき類似は母子像である。マリアと幼子イエスの像はキリスト教独自の図像と思われているが、実際には、この聖母子の概念はイシス崇拝にみられるものにほかならない。
今日、キリスト教徒は処女懐胎を信仰箇条かつ史実として受け入れることを求められているが、イシスの信奉者や異教徒たちは、このような概念的矛盾につまずくことはなかった。
イシスは処女としても母としても崇拝されたのであって、処女かつ母親としてではなかった。イシスの信奉者は、処女懐胎を露骨に嘲笑い、神々には奇跡が可能なことを認めても、崇拝者の疑惑をほったらかしにはしなかった。

マグダラとヨハネのミステリー

タロットカード:女教皇(女祭司長)

カードに描かれているのは、静かに佇む女性で、水色のガウンを身にまとっている。その胸元にはギリシャ十字が象徴的に描かれており、頭には三日月を冠にした女神イシスをモチーフにしたものをかぶっている。
足元にも三日月が置かれていることから、女教皇(女祭司長)はイシスと同一視されることもあるようだ。彼女は書物を持っており、その一部はガウンに隠れているが、「TORA」という文字が確認できる。
女教皇の左右には白と黒の柱が立っている。白い柱には「J」、黒い柱には「B」の文字が刻まれており、これはヤキンとボアスというソロモン神殿の柱に由来している。これらの柱には、さまざまな解釈があり、「ヤキン」は「確立」や「神の愛」、正のエネルギーを象徴し、「ボアス」は「力」や「神の試練」、負のエネルギーを表すとされる。この2つを組み合わせることで、安定や調和が生まれるという。
柱の上部にはザクロのガクが王冠のようにデザインされており、ザクロは「権威」「豊穣」「希望」「不死」などを象徴する果実として重要な意味を持つ。2本の柱の間には、ザクロが刺繍されたベールが垂れ下がっており、その奥には知識の泉が広がっている。女教皇はその泉を守護する存在なのだ。
このカードは神秘的で、月のシンボルが占星術的にも関連していることがわかる。女性性を強く表すカードであり、イシスが象徴するような女性の神秘と深い繋がりがある。「女教皇」はユング心理学でいう「アニマ」、つまり男性の内なる理想の女性像を表し、次に続く「女帝」は「グレートマザー」、母なる存在の象徴として位置付けられる。これによって、それぞれの違いがより明確になるだろう。
「愚者」が野心や欲望を抱き「魔術師」となるように、何かを成し遂げるためには「魔術師」のエネルギーが必要だが、その欲望が暴走すれば破滅を招く。その点で、女教皇は知性と理性を持ってその欲望をコントロールし、バランスを保つ役割を果たすのだ。

© Pamela Matthews 2011

女祭司長が油を注ぐことで男性をメシアにし、すなわち不死の存在にするという役割がある。これは豊穣、多産、そして不老不死といったテーマに関わるものであり、女祭司長の重要な役割だ。しかし、この儀式は明らかに異教の影響を受けており、エジプトの宗教、特にイシス信仰の要素が強い。つまり、エッセネ派の宗教はエジプト秘教の影響を受けているわけで、この考えはタロットカードにも描かれている。
だからこそ、カトリック教会はタロットカードを徹底的に排除しようとした。なぜなら、それらが異教の教えを含んでいるからだ。タロットカードに描かれた深い象徴が失われた結果生まれたのが、現代のトランプだ。
ユング心理学では「アニマ」、つまり男性の内なる理想の女性像として解釈される。このアニマの概念は錬金術とも繋がりがある。また、中世の騎士道物語では、必ず美しい婦人が登場し、騎士がその婦人に対して忠誠を誓う。それは愛であり、性愛を伴うもの。こうした異教の背景を理解しながらアーサー王の物語を読むと、その意味がより鮮明に理解できる。だが、これらの異教的な要素を知らなければ、その深い意味を捉えるのは難しい。

父権的なカトリック教会が世の中に登場したとき、最初に必要と考えたのは異教の女神崇拝の根絶であった。しかし人びとの女神に対する思慕は頑強で、ローマ教会の教父たちも脅威を感じた。処女マリアは、肉体的にも感情的にも精神的にもあらゆる面で現実の女性とまったく接点がなく、女性嫌悪者が自分たちの都合上、その場任せで創り上げたものなので、イシスの恣意的な修正版としての存在価値しかなかったのである。
マグダラのマリア崇拝には、ローマ教会から蔑まれた黒い聖母と同じく、本当ははるか古代に遡るもっと完全な女性概念が隠されているのではないだろうか。
マグダラのマリア崇拝と黒い聖母崇拝の関係は、もはや否定できるものではない。イアン・ベッグによれば、少なくとも50にも上るマグダラ崇拝の中心地に、黒い処女の祠がみられるという。フランスの黒い聖母の存在地は、地図上ではリヨン、ヴィシー、クレルモン=フェラン地域にほぼ集中しており、その中心がモン・デ・ラ・マドレーヌの丘陵地帯である。黒い聖母は、マグダラ伝説と関係の深いプロヴァンスとピレネー山脈の東部にも数多く存在する。したがって、このふたつの崇拝の関係は明らかである。

マグダラとヨハネのミステリー

イシス崇拝と黒い聖母

イシスは「創造主」とみなされ、エジプトの聖書では、「初めに、すべてのなかで最も古くからの存在であるイシスがあった」と書かれている。彼女は「すべてのものが彼女から生まれる」女神であり、伝統的な祈祷文には、「……あなたはすべての善きものの創造者です」とある。
イシス崇拝の影響は、正典福音書にも明らかに見いだすことができる。イエスのもっとも有名な言葉のひとつ、「重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ福音書11:28)がその一例である。この文は、イシスの言葉――一言半句のちがいなく――から取り込まれたものである。この言葉はイシスに捧げられたデンデラ神殿の扉の上にいまも残っている。

マグダラとヨハネのミステリー

初期キリスト教が保持していた秘儀

イエスの運動は、秘儀的な内部集団と公教的な外部集団で構成されていた。皮肉なことにほとんどの弟子たちや福音書がもとにした情報源は、イエスが自分の言葉の真の意味や計画をわざと隠していた外部集団のものであった。
グノーシス派の福音書と呼ばれる膨大な作品群から浮かび上がるごく初期のキリスト教は、決してユダヤ教の分派ではなかったのである。グノーシス派の福音書が示しているのは、エジプトの秘儀宗派である。
新約聖書の福音書がイエスにしたがったユダヤ人によって書かれたことは否定できないが、その著者たちが、イエスが何を体現しているのかほとんど理解していない者と、自分たちの文化的・宗教的な背景からイエスを理解しようとした者だけだったのは皮肉といわざるを得ない。一方、グノーシス派の福音書は、彼らの宗教の起源だけではなく、イエス自身の背景や信仰にいたるまで、より真正な描像を示していると思われる。

マグダラとヨハネのミステリー

秘密結社が守るキリストの子孫

マグダラのマリアと洗礼者ヨハネは夫婦の関係

彼らがエジプトで体現したのは錬金術である。エジプトの秘教とは錬金術のことを指している。そして、これをもっと簡単に言うと、聖婚儀礼である。この2人はその儀式を完成させていたのだ。実を言うと、これはエッセネ派の最高の秘儀に当たる。

その儀式では、祭司の王に女性が与えられ、その女性は準備された神殿娼婦、つまり聖娼である。彼らは聖婚儀礼を行い、錬金術を通じて意識を変成させることにより、超人、すなわち神に等しい存在になる。この儀式を完成させることで、彼らはキリストとなる。だから、錬金術と言えばもっと簡単に言うと、これは聖婚儀礼と「性の錬金術」だ。これがエジプトの秘教の最高の奥義である。

彼らがそれを体現していた。マグダラのマリアは実は洗礼者ヨハネの子供を身ごもっていた。この2人の間に子供が生まれ、その血統は現代まで続いている。これが非常に重要な部分だ。

しかし、多くの人はフィリポの福音書にある、イエスとマグダラのマリアが非常に親密であったという記述をもとに、マリアがイエスの子供を産んだと誤解している。これは完全な間違いであり、イエスとマグダラのマリアの間に肉体関係はなかった。確かに2人は非常に親密で、周りからは恋人のように見られていたが、マグダラのマリアはイエスの中にいるメルキゼデクに恋をしていただけであり、肉体的な関係はなかった。そして当然、子供も生まれていない。

しかし、マグダラのマリアは実際に子供を産んでおり、その子孫は現代に続いている。洗礼者ヨハネもイエスもダビデ王の子孫であるため、その血筋は非常に重要だ。そして、洗礼者ヨハネの子孫をダビデの血筋と結びつけ、世界を統治する王になるという野望を持つ集団が存在する。それがシオン修道会だ。多くの人々がこの点を理解していない。

このことを理解すれば、テンプル騎士団がなぜ唾を吐きかけたり、冒涜的な行動をしながらも洗礼者ヨハネとマグダラのマリアを崇拝するのか、その意味がわかるはずだ。十字架は基本的にはイエスの象徴だが、テンプル騎士団はその十字架に対して唾を吐きかけ、踏みにじる行為を行っていた。彼らはイエスを崇拝していなかった。テンプル騎士団はヨハネを真のキリストと見なし、その子孫を守っていたのだ。

この物語は中世の聖杯物語にも書かれている。テンプル騎士団は王家の子孫を守っているという形で表現されており、マグダラのマリアがキリストの子孫を産んだとされている。しかし、多くの人がここで勘違いをして、イエスの子孫だと思い込んでいる。だが、そうではなく、その子供はヨハネの子孫であり、彼こそがキリストであり、祭司のメシアなのである。これが理解できると、すべての謎が一気に解ける。

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