統一教会は完全自力信仰:実体は宗教法人の体をなす政治結社【セイスケくんのエッセイ】
統一教会の信仰は、自力信仰の極地ともいえる。
一般的な宗教のイメージでは、信仰とは自己を神に委ね、自己中心的な欲望や思いを手放すことだ。しかし、統一教会においては、逆に強い自我がなければ救いを得ることができない仕組みになっている。それは信者たちの言動からも明らかだ。
たとえば、高額な献金が問題視された際の反応を見てみると、「活動や教団運営にお金がかかるのは当たり前だし、祈っているだけでは地上天国は実現しない」と、極めて現実的な答えが返ってくる。
このように、統一教会の信仰は極めて外的であり、信者は心の内に天国を築くことよりも、金銭の力で地上天国を築こうとしているように見える。
さらに、統一教会は政治的活動とも密接に結びついており、特に「勝共連合」の活動を通じて、共産主義の打破を目指している。これにより、統一教会は宗教団体というよりも、むしろ政治団体と呼ぶ方が適切かもしれない。その実体は、宗教法人という形をとった政治結社なのである。
では、なぜこれほどまでに外的で、自力に依存した信仰が強調されるのだろうか。その理由は、統一教会の教理にある。
「神は95%、人間の自由意志は5%」というこの教理によれば、人間の自由意志による堕落は神の力では解決できない。ゆえに、人間自身が努力し、堕落の道を逆行して復帰することが求められる。
この5%の「自由意志」の部分こそが、人間が努力を100%注ぎ込まなければならない領域であり、ここに神は干渉できないのだ。したがって、信者たちは徹底的な自力信仰に従うしかない。
この「人間の責任分担5%」という教理のもと、統一教会信者たちは自らの努力で救いを得ることを目指している。
現在、統一教会が宗教法人の地位を剥奪される危機に瀕している中で、信者たちが「宗教弾圧だ」「信仰の自由を認めろ」と声高に抗議する姿勢は、この自力信仰の表れであると言える。
他の宗教、特に他力本願の信仰を持つ者たちであれば、こうした状況も「神の思し召し」として受け入れ、静かに祈りに専念するかもしれない。
他力本願の代表例として、浄土宗や浄土真宗が挙げられる。
これらの宗派では、阿弥陀仏の力に全てを委ね、自らの計らいを捨てることが救いへの道とされる。
浄土真宗における妙好人と呼ばれる信仰者たちは、その生き様で他力信仰を体現している。彼らは、自分の力で救いを得ようとするのではなく、阿弥陀仏の慈悲に全てを託し、静かに祈りの中で救いを待つ。
このように、統一教会の自力信仰と他力本願の信仰の違いは明確だ。前者は信者自身の努力と行動を通じて救いを得ることを強調し、後者は全てを神仏に委ね、その慈悲に身を任せることを重視する。この対比を通じて、宗教の多様なあり方と、それぞれの信仰における救いの形を理解することができよう。
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