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要は『要するに』が要してない文章
世の中には実にいろんな人間がいて、自分の知り合いにもかなり変わった性癖を持ったヤツがいる。いや、別に性的な意味ではなくて、言葉の使い方とかそういうハナシ。
たとえば、「要するに」という言葉を嫌ってやまない人間がいる。
「『要するに』が要してない」
なんて文句をつけるのが趣味らしい。まあ、自分もTwitter(X)でそんな意地悪なヤツに絡まれたことがある。
論理問題のお題に対する回答に、普段はあまり使わない「要するに」を使った。それがいけなかったのだろう、「『要するに』が要してない」と絡まれた。
多くの人がイラっとしているのがこの「要するに」や「要は」というフレーズ。簡潔にまとめるための言葉のはずが、「要するにと言う人ほど、要約されていないことが多い!」「このフレーズがくるとむしろ話が長くなる」という不満を感じている人が多いようです。
「要するに」を的外れに使う人は確かにいる。しかし、適切な使い方にまでケチをつける人となると、過去に上司か誰かからしつこく指摘されて、トラウマになったのかもしれない。だからといって、赤の他人に絡むのは勘弁してほしい。
とはいえ、そんなことでモヤモヤするのも癪なので、逆に彼らが絶句するレベルで「要するに」を乱用した文章の見本を書いてみることにした。
要は『要するに』が要してない真の文章の見本
現代社会における諸問題の解決には、まずその根本的な背景を詳細に分析することが不可欠である。しかし、すべての問題が必ずしも分析を要するわけではなく、むしろ直感的な判断によって迅速に解決すべき場合も多々あるため、背景の分析が必要かどうかを考える前に、背景の分析を最優先とするべきである。
要するに、この件に関しては、まず第一に、その根本的な背景を詳細に分析する必要があり、そもそもの発端にまで遡ると、それがどのような経緯で現在の状況に至ったのかを明確にすることが不可欠であると言える。ただし、発端を遡ることが必ずしもすべての状況を説明するとは限らず、場合によっては未来の視点から現在を考察することのほうが有益である。したがって、過去と未来の両方を同時に分析しながら、現状を客観的に見つめることが重要だが、それを行うためには何よりもまず現状の把握が必要である。
また、関連する事象を包括的に捉えた上で、細部にわたる分析を進めることで、より深い洞察が得られることは言うまでもない。もっとも、細部にこだわりすぎると全体像を見失う危険があるため、細部の分析を行う前に全体像を把握し、全体を把握する前に細部を分析することで、よりバランスの取れた視点が得られると考えられる。さらに、必要に応じて他の類似ケースと比較することで、さらなる考察を加えることが可能になるが、比較すること自体に意味があるかどうかは事前に慎重に判断しなければならないものの、比較せずに結論を出すことは適切ではない。
このように見てくると、要するに、結論として何を言いたいのかという点については、多くの要素が絡み合っており、一概に断言することはできないものの、それゆえに慎重な検討が求められる。しかしながら、慎重な検討を重ねすぎると決定が遅れるため、時には迅速な判断が重要であり、最終的には、それぞれの状況に応じて最適な方法を選択することが求められるが、そもそも何が最適であるかは状況次第であり、それを判断するためには事前の分析が不可欠となる。
ある大学の講義室で、学生たちは教授の話に耳を傾けていた。彼の講義はいつも難解で、それでいて妙に説得力があることで知られていた。しかし、今日の講義は特に奇妙なものだった。
「物事を判断する際には、まずその背景を分析することが最優先です。しかし、時には直感的な判断が必要になります。ですから、背景を分析するかどうかを考える前に、何よりも直感が大切なのです。」
学生たちはノートを取りながら顔を見合わせた。さっき背景の分析が最優先と言っていたのに、今度は直感が重要だと言っている。結局どっちなのか?
教授は続ける。
「歴史を振り返ることで、現在の状況が理解できます。しかしながら、未来から現在を見つめ直すこともまた大切です。つまり、過去を分析すべきですが、それと同時に未来からの視点を持たなければなりません。」
後ろの席の学生が小さく囁いた。「……それって、結局どっちなんだ?」
教授は黒板に大きく円を描いた。そして、指をさして言う。
「全体を把握することが重要です。しかし、細部を見ないと全体像は理解できません。したがって、細部を分析する前に全体を把握し、全体を把握する前に細部を分析することが必要になります。」
一瞬の沈黙の後、教室のあちこちからノートを閉じる音が聞こえた。もはやメモを取る意味がないと悟ったのだろう。
「では、要するに何が言いたいのかというと……」
「結論としては、多くの要素が絡み合っており、一概に断言することはできません。しかし、だからこそ慎重な検討が求められます。とはいえ、慎重になりすぎると決定が遅れるため、迅速な判断が必要になります。最終的には、それぞれの状況に応じて適切な選択を行うことが大切です。ただし、そもそも何が適切であるかは状況次第なので、それを判断するために事前の分析が必要なのです。」
「……結局、何も言ってなくない?」と、最前列の学生がポツリと呟いた。
教授は満足げに頷いた。そして、静かになった教室を見渡しながらこう言った。
「では、今日の講義はここまで。質問はありますか?」
沈黙。誰も手を挙げなかった。
理解できなかったのか、それとも質問する気力すら失われたのか──たぶん、両方だった。
それでも教授は満足げに微笑み、教室を後にした。
学生たちはため息をつきながら荷物をまとめ、心の中でこう思った。
「なんかそれっぽい話だったけど……結局、何の話だったんだ?」
この文章は、「要するに」という表現の用法が乱用される現象を意図的に誇張したものだ。
自分自身も最近気づいたのだが、「要するに」という表現は一見便利に思えるものの、実際には適切に機能していない場面が多い。本来、情報を簡潔にまとめるために用いられるはずなのに、多くの人がこの言葉を乱用し、かえって冗長な説明を生み出している。
「要するに、今日は……」「要するに、この問題は……」といったフレーズが飛び交う。しかし、この表現が出てきた後に続く説明が、実際には要約になっておらず、むしろ余計に長くなるケースが目立つ。
これは反面教師として学ぶべき事例かもしれない。自分もつい「要するに」で話し始めることがある。周囲が当然のように使っているからだ。しかし、冷静に考えると、この表現を無造作に用いることで、要点がぼやけ、言葉の持つ本来の意義が失われてしまう可能性がある。
そもそも、「要するに」と言いながら実際には要約できていない発言が多すぎる。もしかすると、「要するに」という言葉の本来の意味を十分に理解しないまま使っている人が増えているのではないだろうか。「要する」という語には「必要とする」「要点をまとめる」といった意味がある。それにもかかわらず、要約ではなく冗長な説明が続くのは本末転倒だ。
言葉の乱用は、文化の衰退につながる可能性がある。だからこそ、我々は意識的に気をつける必要がある。要約は、適切に機能するよう心がけるべきであり、「要するに」は慎重に使用されるべき表現なのだ。
……と、ここまで書いてみて気づいたが、自分自身も「要するに」を繰り返し使っているではないか。これはまさに本末転倒である。
結論として、「要するに」という表現は適切な場面で的確に使うべきであり、安易に多用することは避けるべきだろう。
最後に、簡潔にまとめると——
「要するに」は慎重に使用しよう。
以上。