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無我の舞、武の一閃【ショート・ショート】

これは、江戸時代の芝居小屋で語り継がれている話だ。

猿若町の芝居小屋で、芳沢あやめが得意の踊りを披露していた。観客は皆、息をのんで舞台に見入っていた。緊張が張り詰める中、突然、客席の一人の侍が「エイッ」と声をあげ、鉄扇をあやめに向けて投げつけた。瞬間、観客の目は驚きと恐怖に染まるが、あやめはその鉄扇をひらりとかわし、裾にかすった鉄扇は舞台上に落ちた。彼女はそれを驚くこともなく、踏みつけるようにして難なく踊り続けたのである。観客はその場の気迫に圧倒され、改めて天下の名人と讃えた。

舞台を退いたあやめは、すぐに男衆を呼び寄せ、鉄扇を投げつけた侍を近くの芝居茶屋へ招かせた。二人が向き合うと、あやめが問うた。「今日の私の踊りの隙を見つけられましたね。実はあの踊り、幾度も稽古を重ねたものの、一箇所だけどう振り付ければよいか迷いが残っていたのです。その部分にさしかかった時、あなたが投げた鉄扇が私に届いた。もしかして踊りをされる方なのですか?」

侍は静かに頭を振り、「いえ、武芸一筋の身で踊りは一切知らぬ。たまたま芝居見物に来たところ、師匠の踊りに一瞬も隙のない姿を感じ、まるで剣の勝負を挑まれているような錯覚に襲われました。どうしても打ち込む隙を見つけられずにいるうち、ほんの僅かに揺らぎが見えた気がして、思わず戦いのごとく鉄扇を投げてしまったのです。名人であるあやめ殿でなければ、思わぬ事態になっていたでしょう。まことに失礼をお許しください」と詫びた。

あやめは微笑み、侍に感謝の意を伝えたという。彼女が舞台に立つとき、ただただ芸道一筋で無我夢中に、最善を尽くしていただけであった。自身が天下の名人だというような驕りもなかったからこそ、あの危険な鉄扇をかわし、軽やかに踏みつけることができたのだろう。

後に語り草となったこの逸話は、武と芸が相対しつつも、一つの真理で繋がっていたことを示すものとして語り継がれている。

豆知識:鉄扇


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