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【聖書の解釈について】旧約聖書・キリスト教の研究-09/#145


旧約聖書の読み方

「わたしは誓って言う。…神である主の御告げ。…わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」(エゼキエル書33:11)
しかし、神様は正しいお方ですので、悪を裁かねければなりません。神様はさらに言います。「あなたの神、主に対して、このようにしてはならない。彼ら、主が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、その神々に行い、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために、火で焼くことさえしたのである。」(申命記12:31)
神が嫌うことは、彼らが異邦人だからではなく、また彼らが拝んでいた神々ではなく、彼らの拝み方(自分の子どもを生贄にする残酷な儀式)です。
カナン人の儀式は次のようなものを含んでいました。
1. 自分の子どもを生贄にする
2. 近親相姦
3. 獣姦
4. 同性愛
5. 儀式売春
これらの国々に神様・イスラエルが何をするかという箇所を見てみましょう。
1. 彼らを消し去ろう(出エジプト23:23)
2. 民のすべてをかき乱し(出エジプト23:27)
3. 敵があなたに背を見せるようにしよう(出エジプト23:27)
4. あなたの前から追い払おう(出エジプト23:28)
5. 国々を打ち(詩篇135:10)
6. 追い出した(民数記21:32)
7. あなたがたの前から追い払い(民数記33:52)
8. あなたの前から追い払われる(申命記6:19)
9. 彼らを根絶やしにされる(申命記9:3)
10. 彼らを征服される(申命記9:3)
11. 彼らをただちに追い払って、滅ぼす(申命記9:3)
12. 彼らをあなたに渡し(申命記7:2)
13. あなたの前から滅ぼされる(申命記7:20)
14. 彼らの王たちをあなたの手に渡される(申命記7:24)
15. 彼らの名を天の下から消し去ろう(申命記7:24)
どうして「追い出す」と「滅ぼす」は同じ箇所に出てくるのでしょうか。その答えは裁きの目的にあります。神様は人々を皆滅ぼすことにしたのではなく、ある悪の文化を滅ぼしたかったのです。国は滅びましたが、その国民はただ追い出されました。
事実をまとめましょう。
1. イスラエルはカナン人を追い出すように命じられました。
2. 自ら出なかったカナン人を殺すように命じられました。
3. カナン人を遠いところまで追いかけて、全員を殺すという命令が1度もありませんでした。
4. もしカナン人が移住したら、イスラエルはカナン人と平和の結びをすることができました。
5. 主な目的はイスラエルの文化が周りの惨酷な文化に影響されないことでした。その方法はカナン人をそこから追い出すことでした(申命記20:18)。
神様は不正なお方ではないので、イスラエルはまったく同じ基準に従わなければなりませんでした。実際、イスラエルがカナン人と同じ罪を犯したとき、同じ罰がイスラエル人たちにも与えられました。
ユダがカナン人と同じ儀式をした時――子どもの生贄など(イザヤ書57:5;Ⅱ列王記17:17)、儀式的な売春(エレミヤ書13:27)、儀式的な同性愛売春(Ⅰ列王記15:12;22:46;Ⅱ列王記23:7)、そして社会的暴力の散乱(エゼキエル書45:9;イザヤ書59:6-10)――神様はユダ人をその土地から追放する裁きをくだしました。神様はバビロニア人を送り込みました。預言者はユダ人が殺されないよう、神様に従ってその土地を出て行くように告げました。
「あなたは、この民に言え。主はこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。この町にとどまる者は、剣とききんと疫病によって死ぬが、出て、あなたがたを囲んでいるカルデヤ人にくだる者は、生きて、そのいのちは彼の分捕り物となる。なぜならわたしは、幸いのためにではなく、わざわいのためにこの町から顔をそむけるからである。……主の御告げ。……この町は、バビロンの王の手に渡され、彼はこれを火で焼くであろう。』」(エレミヤ書21:8-10)

学者の解釈

最古の時代から、神のもうけた初子はサケル *sacer*、すなわち特別な運命のために最初に選び抜かれた者たちと考えられた。初めに生まれた息子は神の姿を写し、神になり、神に捧げられた。厳しい旱魃のときに、神々をなだめるために、エジプトで大量に初子が生贄にされたことが、ユダヤ人の律法学者によって旧約聖書に記録されていた。律法学者は、自分たちのヤハウェがエジプトの子どもたちの殺戮に責任があったことを主張するために、伝説に手を加えた(『出エジプト記』12:29)。
エジプトの神のように、ヤハウェは聖職者たちに言った。「すべてのういご、すなわちすべて初めに胎を開いたものを、人であれ、獣であれ、みな、わたしのために聖別しなければならない。それはわたしのものである」(『出エジプト記』13:2)。代わりに仔ヒツジを捧げて、子どもを贖うことを聖職者が許可し始めるまでは、最初に生まれた子たちはヤハウェの祭壇に捧げられた(『出エジプト記』13:15)。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/first.html

旱魃が当時発生していて、雨を降らせてほしいと願ったエジプトの王が、国民全員に初子を神々への生贄として捧げるよう命令を出したという話だ。人々は、中央に火を置き、その火の中に初子を投げ入れた。この儀式はエジプト全土で行われたものだという。
旱魃を避けるために行われたものであり、イスラエルの民はこの儀式には加わらなかった。そのため、イスラエルの民の長子、つまり初子は助かったということだ。
また、このような生贄の儀式については、ヤーウェが行ったものとされている。しかし実際には、エジプトが悪魔崇拝に染まっていたため、エジプトの神々に対する生贄の儀式を国中で行った、というのが事実である。だから、学者たちはこのように解釈しているのだ。

アブラハムの信仰

アブラハムは旧約聖書に登場する人物であり、シュメールの都市ウルで生まれたと考えられている。『創世記』11章31節によれば、アブラハムの父テラは、息子のアブラム(後のアブラハム)、孫のロト、アブラムの妻サライを連れてカナンの地を目指し、カルデアのウルを出発する。しかし、彼らはハランに到達し、そこで暮らすことになった。ウルでアブラムが誕生したとされるが、これについては疑問が残る部分もある。
疑問の一つは、アブラム(アブラハム)がウルにいた頃、どの神を信仰していたのかという点である。ウルの守護神である月神シンを信仰していたのか、それとも後に信仰するヤハウェ(ヤーウェ)を既に信じていたのか、はっきりとした記録はない。少なくとも、彼の父親や親戚たちはヤハウェを信仰していなかった可能性が高いとされている。『ヨシュア記』24章2節には、アブラハムの父テラやその祖先が他の神々に仕えていたと明記されている。
この「他の神々」とは、シュメールやバビロニアの神々、特に月神シンを指すと考えられる。もしアブラハムの父テラがこれらの神々を信仰していたとすれば、アブラハムがどのような経緯でヤハウェ信仰に転向したのかは謎である。聖書にはその詳細が記されておらず、明確な答えは与えられていない。ひょっとしたらアブラハムは父テラの信仰を受け継いでいたかもしれないが、これもまた確かな証拠はなく、詳細は不明のままである。

アブラハムは当時の信仰体系に忠実な人物だったと考えられるため、彼も一般的な慣習に従って初子を生贄に捧げた可能性があるという見方がある。したがって、イサクが生贄にされかけたエピソードは有名だが、実はイサクが初子ではなく、アブラハムには既に別の初子がいた可能性が指摘されている。アブラハムが初子を生贄にしたとすれば、その子はサラの子であるかどうかは定かではないが、既に生まれて捧げられていたかもしれないという仮説が浮かび上がる。

また、アブラハムは非常に信仰深い人物であり、彼の信仰の根底には、過去世でエノクと繋がりがあったのではないかという推測もある。エノクが彼に語りかけてきたことが、アブラハムの信仰の核となっていた可能性が示唆されている。しかし、後のユダヤ教の教義や記述において、アブラハムが初子を火で焼く儀式を行ったという事実は記されていない。代わりに、イサクが生贄にされかけた際、羊が代わりに犠牲になったという物語が伝わっている。

これは、後にユダヤ教の教義を編纂した人々が、アブラハムが火で子供を焼いたというような行為を含めたくなかったため、別の形に置き換えられたという見方ができる。つまり、アブラハムも当時の宗教的慣習に従っていたが、後世の人々がそれを異なる形で再解釈し、記述を改変した可能性が高いということだ。

さらに、『出エジプト記』12章29節に記された解釈についても、悪魔崇拝や国王が国民にそれを強要した出来事が、後にヤハウェと天使たちの行為として記録されたという指摘がある。この点からも、ユダヤ教の経典は、当時の人々が信じたいと思った内容に基づいて書かれているという主張が成り立つ。アブラハムが初子を火で焼いたという事実を否定するために、代わりに羊が贖われるという神話が創られたと考えられる。

メタトロン:一般人の素直な解釈

メタトロンは神と人間を直接つなぐ存在であり、預言者エノクの生まれ変わりであるとされている。マルコム・ゴドウィンの著書「天使の世界」では、メタトロンについての逸話が紹介されており、彼の中にはサタンも内在しているとされている。
『出エジプト記』にはメタトロンに触れたくだりがあり、「視よ、われ天の使いを使わして、汝に先立たせ、途にて汝を守らせ、汝をわが備えしところへ導かん」と記されている。この箇所は、イスラエルの民を荒野で導いた神の天使に言及したものであり、一部ではそれが神自身であるとする解釈もある。「炎の柱」として現れ、「その顔は太陽よりも燦然と輝けり」という記述もあるが、これは神そのものというより、小YHWHとしての役割を果たすメタトロンに他ならない。
もし『出エジプト記』を読んだ者がいるなら、この小YHWHが怒りと妬みにみなぎる、執念深い異常な殺人鬼であることをはっきりと目の当たりにすることができる。自ら選んだ人々に恐ろしい残虐行為を命じるので、知性を持った読者なら誰でも、光の神の手というよりも激烈な悪の手を目にすることができるだろう。
メタトロンはデミウルゴス、万物の創造主と呼ばれることもある。グノーシス派の文書では、これは闇の支配者サタンに他ならない。
すべてを考え合わせれば、メタトロンはまさしく異様かつ不快な存在である。とりわけ気味悪い寓話では、血に飢えた天使であって、自分に背く人間を嬉々として何百人も串刺しにして、荒野で苦悶のうちに死なせるのである。

エノクと関連する議論において、エノクは旧約聖書やカバラにおいてメタトロン、すなわちユダヤ教の神秘思想におけるメタトロンと称される。メタトロンに関しては異なる見解も存在し、それについて検討する。

まず、メタトロンは神と人間を直接つなぐ存在であり、預言者エノクの転生であるとされている(マルコム・ゴドウィン『天使の世界』)。ゴドウィンによれば、メタトロンの中にはサタンも内在していると述べられている。

ここで言及される「サタン」は、七大天使の頂点であるサタナエルとしてのサタンではない点に注意が必要。ここでの「サタン」は一般的に「悪」の代名詞として使用されており、メタトロンの中に「悪」が内在しているという解釈である。

『出エジプト記』にはメタトロンに関する記述があり、「見よ、わたしは御使いをあなたの前に送り、道であなたを守り、あなたをわたしの備えた場所へ導かせる」(出エジプト記23:20)とされている。これはイスラエルの子らを荒野で導いた神の天使に関するものであり、神そのものと解釈する場合もある。すなわち、神の使いである天使、すなわちエノク(メタトロン)であるという解釈と、神自身であるという二つの解釈が存在する。

この箇所については、神の天使、すなわちメタトロン(エノク)であると解釈するのが適切であり、彼は炎の柱として現れ、その顔は太陽よりも三千倍も輝いていたとされる。これは神そのものというよりも、案内役としての役割を果たすメタトロンであると理解すべきである。

次に、あるウェブサイトのの見解を紹介する。その要点は以下の通りである。「もし『出エジプト記』を読むならば、このヤハウェが怒りと嫉妬に満ちた執念深い異常な殺人者であることをはっきりと理解できるだろう。自ら選んだ人々に恐ろしい残虐行為を命じるため、知性ある読者なら誰でも、光の神の手というよりも激烈な悪の手を目にすることになるだろう」。

メタトロンはデミウルゴス、すなわち万物の創造主と呼ばれることもある。グノーシス派の文書では、メタトロン、すなわちデミウルゴスは闇の支配者であるサタンに他ならないとされている。

実際、グノーシス派は旧約の神、すなわちメタトロンをサタンと同一視している。しかし、これはいくぶん誤解がある。サタナエル、すなわち七大天使の頂点であるサタナエルがサタンだが、彼とメタトロンは全く別の霊的存在であり、混同すべきではない。ただし、「悪」という意味での悪の支配者としてのサタンという意味合いで捉えられる場合もある。

グノーシス派はこのように解釈している。彼らは旧約の神をサタンと見なし、善の神は新約の神であると考える。つまり、新約の神が善の神であり、旧約の神はサタンであるというのがグノーシス派の見解である。それは旧約聖書を読めば誰でもわかることであり、「あれは悪であり、サタンである」というわけである。

しかし、このグノーシス派の捉え方は、これまでの説明からすると誤りであると考えられる。旧約の神であるメタトロンは、いわゆるハイアラーキーのキリスト、すなわち前代のキリストであり、光の側、神の側に属する存在である。彼はヤハウェの使いである。

現在では、それがマイトレーヤ・キリストとなっている。キリストは代替わりするため、そのような形で理解される。しかし、旧約を読むと先述のように、エノク(メタトロン)の中に「悪」が見えると感じられる。キリストと言いながら光の主と言いながら、それは悪ではないのか、と。つまり、「メタトロンの中にサタンが内在している、悪が内在しているのではないか」という解釈が生まれるのである。

総合的に考えると、メタトロンは異様で不快な存在であると言える。特に気味の悪い点としては、血に飢えた天使であり、自分に背く人間を何百人も串刺しにして、荒野で蜘蛛の巣の中に死なせるという話も存在する。そのような恐ろしい存在であるという捉え方があるのだ。

では、これをどのように考え、何が正しいのかという問題になる。
旧約聖書は神の行った御業を記したものであり、それが正しい読み方であるとされる。しかし、それはあくまでユダヤ教やキリスト教を正当化する側の見解である。一方、学者たちの見解は異なる。彼らはより冷静で客観的に分析している。また、先入観なしに素直に読む人々の見解もある。何も知らない純粋な状態で読むと、旧約の神は気味が悪く、「この神は嫌いだ」と感じるのが一般的である。

このように、得体の知れない不快感を覚え、異様で不快な存在であると感じるのは自然なことであり、それでも神の使いであると言われるのである。そうすると、「メタトロンの中にはサタンも内在している」という考え方は、非常に的を射た捉え方ではないだろうか。確かに、神の第一の天使、すなわちミカエルやガブリエルよりも偉大で強力な大天使でありながら、その中にサタンが内在しているという解釈は、極めて正確な見方であると言える。これが最も素直な読み方であると考えられる。

モルモン教=エノク教(メタトロン)

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