マリ文書:アブラハムの影を追う、古代メソポタミアの真実
マリ王国は、その出土品の様式から、シュメール文化の影響を受けつつも独自の伝統を保っていたとされる。しかし、独自性も見られる部分がある。その一つがアムル人の農耕神ダゴン信仰であり、マリの広大なダゴン神殿は一大宗教センターであったと考えられる。もう一つは「夢占い」で、粘土板の記録から、地方の行政官が夢や幻視、予言について王に報告していたことが確認できる。予言者は神懸かりの状態で予言を語り、それが行政官や王に重んじられていた様子がうかがえる。これには、後のユダヤ教の預言者にも共通点が見られる。
マリの図書館にあった粘土板に記されたマリ中央政府と地方行政官との往復書簡には、「ペレグ」「セルグ」「ナホル」「テラ」「ハラン」という地名が登場する。これらは、創世記11章18-26に記されたアブラハムの先祖の名前と一致する。このことから、アブラハムの先祖の名前がマリ時代の北西メソポタミア、特にパダン・アラムと呼ばれる地域の町々の地名から取られた可能性が考えられる。創世記によれば、ナホルはアブラハムの息子イサクの妻リベカを迎えに行った町でもある。
また、マリの砂漠の警備隊長ハンヌムからの報告書には、「昨夜、マリを離れてズルバンにいたところ、ベニヤミン人が狼煙で合図を送っていた」との記述がある。この記述から、ベニヤミン人が既にこの時代に存在していたことがわかる。聖書では後の時代にベニヤミンがヤコブと妻ラケルの息子として記されるが、マリ文章によれば、ベニヤミンの本来の意味は「右手の子ら」、すなわち南の子らという地域を指す言葉であった。このベニヤミン人はマリ王国においてしばしばトラブルの元となり、ある時代には「ベニヤミン人時代」とまで呼ばれるほどの存在感を持っていた。
マリ王国は、アモリ人を中心とした農業と交易が盛んな国家で、25の神々を祭り、長い間平和を保っていた。しかし、国境に住むセム族の遊牧民の侵入もあり、軍隊組織が整備されていた。これにより、世界最初の徴兵制度が存在していたことがわかる。ただし、ベニヤミン人に対しては人口調査が行われず、彼らは反抗的な種族と見なされていた。しかし、マリ最後の王ジムリ・リルの時代に、ベニヤミン族は敗北させられたことが粘土板に記されている。
アブラハムの一族がどうなったかは不明であるが、聖書の年代では紀元前1900年頃にカナンへ向かったとされる。ただし、考古学的資料では、これがもっと後の時代とされる説もある。例えば、紀元前1500年代頃のミタンニ王国のヌジ遺跡から出土したホリ人の法律と、創世記の記述に驚くべき一致点が見られる。これらの例から、種族の移動に伴い、各地の風俗や法律、宗教的要素、行政形態が取り込まれていったことが想像される。
アブラハムの一族がどうなったかについては、考古学的な証拠は少なく、確かなことはわからない。聖書に基づく年代推定では、アブラハムの一族は紀元前1900年頃にカナンに向かい移動したとされているが、他の研究者はこれをもっと後の時代に位置付けている。例えば、紀元前1500年代のミタンニ王国のホリ人のヌジ遺跡から発見された文書に見られる法律や慣習が、聖書の創世記に記された内容と驚くほど一致していることがある。このような一致点は、単なる偶然とは考えにくく、アブラハムの時代とヌジのホリ人の法律や社会制度が共通の背景を持っていた可能性を示唆している。
さらに、マリ王国やその周辺地域での考古学的発見は、古代の人々が頻繁に移動し、その過程で異なる文化や宗教、法律が影響し合い、統合されていったことを示している。これは、聖書に記された内容が、特定の地域や時代のみに基づいているわけではなく、広範な文化的交流や変遷を反映している可能性を示している。例えば、マリ王国の宗教儀礼や神殿の構造は、シュメール文化の影響を受けつつも、独自の要素を取り入れていた。こうした文化的な影響の混交は、後の時代に至るまで続き、やがてはイスラエルやユダヤ教の発展にも影響を与えた可能性がある。
また、マリ王国が存在した時代は、メソポタミア全体が多様な文化や民族の交差点となっており、それぞれの文化が互いに影響を及ぼし合っていた時期であった。マリ王国は、その地理的な位置と交易路の中心地としての役割から、他の地域との文化的な交流が活発であった。こうした交流の中で、マリ王国の宗教や行政、法律が他の文化と融合し、新たな社会構造が形成されていったと考えられる。このような背景を考慮すると、アブラハムの一族やその後のイスラエルの歴史も、単一の民族や文化に由来するものではなく、多様な文化的影響を受けて形成されたものである可能性が高い。
このように、マリ王国やその周辺地域の歴史を通じて、古代の中東における文化的な交流や融合の過程が見えてくる。これにより、聖書の記述やアブラハムの一族の歴史を理解する上での新たな視点が得られると同時に、古代の世界がいかに複雑で、多様な要素が絡み合っていたかを再認識することができる。