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【クムラン教団・パレスチナのエッセネ派/洗礼・磔刑】新約聖書・キリスト教の研究-15/#151


《パレスチナのエッセネ派》のイエス

イエスが洗礼を受けた背景には、クムラン宗団やエッセネ派の思想が重要な役割を果たしていた。聖書の表面的な解釈だけでは見えない深い歴史的背景が浮かび上がる。
エッセネ派は紀元前2世紀から1世紀にかけて存在したユダヤ教の一派だが、他の主流派(パリサイ派やサドカイ派)とは一線を画していた。特に、彼らは厳格な律法の遵守や精神的な修行を重視し、共同生活を送っていた。このエッセネ派の影響を受けたクムラン宗団は、ユダヤ教の神秘的・修行的な側面をさらに強調し、荒野での禁欲生活や、浄化儀礼としての「洗礼」を大事にしていた。
イエスの生涯におけるヨハネからの洗礼は、彼の公の伝道活動の始まりを示す象徴的な出来事だが、その前にイエスがどこでどのように修行していたかについては謎が多いが、ある説によればイエスはエジプトに滞在し、そこで神秘的な教えや古代の知恵を学んだ後、パレスチナに戻り、クムラン宗団に関わるようになった可能性がある。この宗団はデッドシー・スクロール(死海文書)で知られており、聖書の理解を深めるための貴重な資料を提供している。
クムラン宗団での生活では、浄化の儀式として水を使う洗礼は日常的なものだった。この儀式はただの肉体的な清めではなく、精神的な再生や魂の浄化を意味していた。つまり、ヨハネがイエスに洗礼を授けたというのは、単なる「浄め」ではなく、新たな使命と神との特別な関係を象徴する儀式だったと考えられる。イエスがヨハネから洗礼を受けることによって、彼は宗教的な指導者としての道を本格的に歩み始めた。この出来事を通して、聖書には記されていないイエスの「修行時代」や、エッセネ派の思想の影響が浮かび上がってくる。

クムラン宗団=パレスチナのエッセネ派

エッセネ派について考えるとき、どうしても単一の「エッセネ派」というグループとして捉えがちだが、実は非常に多様な集団が存在していた。しかし、少なくともパレスチナにおいては、彼らは「クムラン教団」として一つにまとまっていた。クムラン教団自体は紀元前2世紀のマカベア戦争の頃に遡ることができる。この時代はユダヤの独立闘争が繰り広げられ、クムランの人々にとって特に重要な時期だったと推測される。
文献が少ないため、具体的な事実を突き止めるのは難しいが、断片的な情報や歴史的背景を元に推測すると、エッセネ派はメシア(救世主)を待ち望む集団だった。だが、彼らが期待していたメシア像は、キリスト教徒が抱く「霊的な救い主」とは異なっていた。エッセネ派のメシアは、ユダヤの王としてイスラエルの独立を勝ち取る英雄的な存在であり、彼らはその人物を自分たちの中から見出そうとしていたのだ。
この視点で聖書や外典(カトリックが正式な聖書に含めなかった文書)を読むと、いくつかの一致点や整合性が見えてくる。例えば、イエスがヨハネに洗礼を受けた場面があるが、これは非常に象徴的な出来事である。実は、このヨハネこそ、クムラン教団、すなわちエッセネ派のリーダーであった。
彼が果たした役割を理解することが、聖書の記述を深く理解する鍵になる。クムラン教団やエッセネ派の背景を知らなければ、聖書の初期の記述が曖昧に見えてしまうのはこのためだ。
興味深いことに、ヨハネが洗礼を行う姿勢や活動は、クムラン教団の厳格な生活規律や儀式に影響を受けている。彼らの共同生活や、律法を厳密に守る習慣、そして純粋な生活を追求する姿勢は、後にキリスト教に多大な影響を与えた。

カトリック教義の源「クムラン宗団」

ヨセフスの記述によれば、清められた者たちは静かに食堂に集まり、パン焼き係が順番にパンとぶどう酒を配り、料理係が各人に小鉢を配った。そして、祭司が祈りを捧げた後、食事が始まり、食事の終わりにも再び祭司が祈りを唱え、神を賛美したとある。これを考えると、クムランの食事は聖餐と呼んでもよさそうだ。ただし、クムランには祭壇も神殿もなく、エルサレムの特権階級が執り行う動物の犠牲を伴う儀式には批判的だった。彼らにとって、動物の犠牲よりも祈りと礼拝による霊的な捧げものの方が重要だったらしい。パリサイ派よりもさらに厳格な祭儀観を持ち、物質的な神殿より内面的な信仰を重んじていたようだ。

神殿での犠牲の捧げ方やその重要性に関しては、サドカイ派が中心的な役割を担っていたと言える。サドカイ派は神殿との結びつきが強く、特に上流階級や貴族層とも繋がっているため、いわゆるエリート集団だった。
聖餐というのは、通常キリスト教において「最後の晩餐」を再現する儀式である。これはキリスト教の儀式であるが、元をたどると「最後の晩餐」自体がエッセネ派の儀式に由来していることがわかる。実際、キリスト教が独自に生み出した儀式というものは存在せず、すべてエッセネ派やエジプトなど外部から取り入れたものである。キリスト教徒はこの事実を嫌うが、事実としてオリジナルな要素はほとんどない。
しかしながら、カトリック教会はすべてのキリスト教の儀式がオリジナルであると主張する点に問題がある。これが虚構だという主張だ。エッセネ派というのは、実際にはミトラ教の一部である。ミトラ教はさらに大きな概念で、その一部がエッセネ派なのだ。つまり、聖餐の儀式、いわゆる最後の晩餐の儀式は、実はミトラ教の神話から来ている。
ローマカトリック教会にとっては、完全にオリジナルでなければならないというプレッシャーがあり、ミトラ教こそが最大の敵だった。なぜなら、ほとんどの儀式や概念をミトラ教から取り入れていたからである。このため、ミトラ教への弾圧が非常に激しかった。

クムランの重要な祭儀の一つが、聖なる水による「きよめ」である。彼らはエルサレムを汚れた祭儀を行う所と嫌悪し、そこで行われる神殿祭儀は古い契約とみなし、自分達は「新しい契約」(恩恵と悔い改めの契約と呼んでいたようだ)に入るものと考え、入会者は新しい契約に入る為に水の洗礼を必要としていた
ヨセフスの『古代ユダヤ誌』ではエッセネ派を悪霊祓いをするものあるいは医師とみなしたようで、「ウェスパシアヌスの面前で、悪霊にとりつかれた者を解き放った」エレアザロスという人物の治療法や悪霊祓いの方法について言及している。更に按手による病の癒しについて、彼らが所持していた外典創世記にも書かれてますが、そのような行為を行っていたと想像されます。
クムラン宗団では、光と闇の子との戦い、正義の子と偽りの子との戦い、サドクの子とベリアル(サタン)の子との戦いという二元論的な終末思想を持っていた。そのため、来るべき世(サタンとの聖戦に勝って、メシアの宴に与る世が来る)を信じていた。しかし、霊魂と肉体との二元論的価値判断から導かれた考えにより、肉体の復活は信じず、霊魂の不滅の信仰を持っていた。

サドクとは、ソロモン王時代の大祭司ツァドク(ザドク)のことであり、ユダヤ教において大祭司の地位はサドクの家系から出されるのが伝統とされていた。やがてこの役職が世襲制になった際、一部の者たちは反発し、ハスモン朝から離反する。この分裂の時期に、エッセネ派、サドカイ派、パリサイ派といった宗派が生まれた。
特に、ツァドク家の末裔でなければならないという主張を掲げた集団がサドカイ派である。サドカイ派は神殿を中心に活動し、貴族層と結びついて権力の中心に位置する祭司階級の代表となった。
一方、パリサイ派は厳格に律法を守ることを重視する集団で、正統派のユダヤ教徒として律法遵守を強く主張する分派として現れた。
エッセネ派から見ると、サドカイ派もパリサイ派も表面的に律法を守っているに過ぎず、どちらも汚れていると見なしていた。エッセネ派は厳粛な祈りと瞑想にその生涯を捧げる道を選んだ宗派である。

義の教師:アサフ

彼らはまた、預言者の書を大変重要視して注解書(ペシャリーム、ペシェル)を記している。たとえばハバクク書、イザヤ書、ミカ書、ナホム書、ホセア書などが含まれる。特に、ハバクク書に記された「義の教師」は、その力が神から授けられた者であり、この教師がクムラン宗団の創設者とされている。

いくつかの死海写本が公にされたが、その意味については学者の間で多くの論争が続いている。この件についてベンジャミン・クレーム氏は_

暗黒の息子たちをいつの日か滅ぼす突き通されたメシア『義の教師』について、「突き通されたメシア」はイエス・キリスト(イエス覚者)を示し、「義の教師」はマイトレーヤを指しています。
死海写本の中でエッセネ派によって言及されている「義の教師」はバプテスマのヨハネだったという学者がいますが、「義の教師」はイエスをオーバーシャドウしていたマイトレーヤです。

イエスにマイトレーヤが憑依・合体していた。ベンジャミン・クレームは「憑依」という言葉を避け、「オーバーシャドウ(overshadow)」という表現を用いているが、実質的には憑依と同義である。当時のクムラン教団においては、「マイトレーヤ」と呼称することはなく、「メルキゼデク」として知られていたため、正確にはメルキゼデクと表現するのが適切である。また、クムラン教団の教義においては、メルキゼデクは「義の教師」として位置付けられていた。

確かに、クムラン宗団はマイトレーヤ(メルキゼデク)の霊導によって設立された集団であり、その見方も全くの誤りではない。しかし、学術的な視点から見ると、「義の教師」という表現をマイトレーヤに直接結びつけるのは適切ではない。本来の「義の教師」とは、マイトレーヤからの霊導を受けてクムラン宗団を築き上げた、当時の人間の指導者を指すべきだ。つまり、霊的な導きの下で実際にクムラン宗団を率いた歴史上の人物こそ、「義の教師」と呼ばれるべき存在である。

パレスチナのエッセネ派の創設者として「アサフ」という名が伝えられており、代々「義の教師」を名乗る人物がこのアサフという名前を受け継いできた可能性がある。いわば、シオン修道会で歴代の最高指導者が「ヨハネ○世」という名前を名乗っているのと同様に、クムラン宗団においても「義の教師」は代々アサフを名乗ってきたかもしれないということだ。

つまり、「義の教師」とは最初は創設者アサフの名前だったが、次第に代々受け継がれる役職名として使われていった。初代がアサフで、その後2代目、3代目の義の教師が続く。そして、イエスの時代にクムラン教団を指導していた義の教師は「洗礼者ヨハネ」だったと考えられている。つまり、当時の最高指導者は洗礼者ヨハネであり、彼がその時代の義の教師だったということだ。

一部の学者たちが「義の教師」が洗礼者ヨハネを指すと主張するのは、ある意味では正しい。ただし、それが絶対的な解釈ではなく、初代の総長を指す場合もある。結局のところ、義の教師とは代々のクムラン教団の総長を意味し、たまたまその時代の義の教師が洗礼者ヨハネであった、というのが正しい理解だろう。

ヨハネによる洗礼

図説 地図とあらすじでわかる!聖書

ヨハネの洗礼を受けたイエスは、神に導かれてヨルダン川から、悪魔の住処とされているユダの荒野へ向かった。イエスはそこで40日間の断食に入る。
洗礼を受け、試練に打ち勝ったことで神の子として公的活動を行なう準備が整った。神聖な力をみなぎらせて荒野を出たイエスは、ヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退いた。
イエスの評判はまずその地方一帯に広まることになる。
それまでイエスは各地の礼拝堂で教えを説き、尊敬を集めていたが、生まれ故郷のナザレでは受け入れられなかった。
イエスはガリラヤ湖畔の町カファルナウムに移り、「時は満ち、神の国は近づいています。悔い改めなさい」と教えを説いた。

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イエスの伝道活動、そして磔刑

イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」。そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
(マタイによる福音書 4:12-22)
イザヤは、異邦人の地になったガリラヤではあるが、後に平和をもたらすメシアが現れると予言しましたが、この予言は南ユダの滅亡で絶たれてしまいます。しかし、後にイザヤグループ(弟子たち)により繰り返し終末的メシアの登場が予言されますが、実現しないままイエスの時代を迎えました。エルサレム原始共同体やマタイ共同体では、このメシアこそがイエスであると信じて福音書に書いたと思われます。
元々福音書によれば、「悔い改め」の言葉を使ったのは洗礼者ヨハネになってます。
洗礼者ヨハネの言葉とされるものは、「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。(マタイ3章11)」です。
神学者の多くは、この言葉が本来洗礼者ヨハネの言葉なのかどうか疑問視していますが、「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、」の文章は非常にエッセネ派的考えであることや、洗礼者ヨハネの禁欲的かつ威厳的な神の国思想からすれば、洗礼者ヨハネに帰する文言と思えますし(ただし、洗礼者ヨハネ共同体もエッセネ派と同じく、洗礼を水と霊によるものであると考えていたと思いますが)、以降の太字の文言はイエス死後のエルサレム共同体の考えではないでしょうか(聖霊と言う言葉は旧約にはありません)。

イエスの実像を探る

「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けている……」はヨハネの言葉だが、以降の言葉はヨハネをイエスより格下にするため、後にキリスト教の教父が考えて付け加えた言葉。

祭祀のメシアと王のメシア

「義の教師」には二人の存在がある。ひとりは「王のメシア」、もうひとりは「祭祀のメシア」だ。洗礼者ヨハネは「祭祀のメシア」であり、一方、当時「王のメシア」は空位のままだった。しかし、その空位を埋めるべき器として選ばれたのがイエスだ。イエスは「王のメシア」の最大の候補者として送られてきた。だからこそ、彼こそが「来るべき方」だったのだ。そうして人々は、彼を待ち望んでいた。

では、祭祀のメシアであるヨハネと王のメシアであるイエス、どちらの位が高いかと言うと、実は祭祀のメシアの方が上位だ。そのため、ヨハネは自分がイエスよりも低い存在だとは考えていなかった。イエスは、ユダヤを独立させるべき王として来た人物であり、彼がその役割を果たすことを人々は待ち続けていたのだ。

エッセネ派の視点では、イエスの使命は失敗したように見える。彼は独立を果たせず、磔にされてしまった。しかし、復活し、神の福音を告げる存在へと転じた。その結果、彼こそが真のキリストであったという信仰が、エルサレム共同体を支える柱となったのだ。

エルサレム共同体は、神の国が近い、天の王国が迫っているというメッセージをイエスが告げたことで、あと少しでユダヤが独立すると信じていた。しかし、独立戦争は何度も失敗し、最終的には70年目にユダヤは壊滅的な打撃を受け、その後も130年目頃に完全に離散させられることとなる。それでも、エルサレム共同体はイエスが福音を授けに来たと信じ、その後の独立を確信していた。彼らは、イエス自身もユダヤの王になると信じていたと考えていたのだ。

イエスは磔刑になることを知らなかった

実際のところ、イエス自身も最期まで、自分がユダヤの王として独立を成し遂げると思っていた。しかし、彼は捕らえられ、磔にされる運命にあった。その後、復活して昇天するという計画は、彼自身には知らされていなかった。もしそれを知っていたならば、恐怖におののき、その使命を果たせなかったかもしれない。

弟子たちもまた、イエスが「3日後に蘇る」と言ったことを理解していなかった。復活が起きて初めて、彼らはその意味を悟った。マグダラのマリアも含め、誰もその時点ではイエスの言葉を理解していなかった。さらに、実際にはイエス自身も自分の運命を完全に理解していなかった。

これが、現代のカトリック教徒が理解していない点であり、実は全ては「マイトレーヤ」による計画通りだった。イエスと12人の弟子たち、エッセネ派の人々もその計画には気づいておらず、事態が急展開してしまった。エルサレム共同体を率いたのは、イエスの弟であるヤコブだが、彼も兄が磔にされ、死んでしまったことで、教団の存続意義が問われる状況に陥った。

そこで、イエスがキリストであるとし続けることで教団を立て直す必要があった。彼は救世主であり、同時に人であった。この教義の下、エッセネ派の教えを踏襲しつつ、神の福音を述べ伝えるという使命が加えられていったのだ。イエスの死という事件を経て、神の福音を広めることが彼らの教義の中心に据えられた。

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