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【最後の晩餐・磔刑・復活】新約聖書・キリスト教の研究-20/#159-161


イエス受難の物語は、聖書の中でも最も劇的で象徴的な部分だ。彼がエルサレムに入城し、十字架にかけられるまでの出来事は、キリスト教の中心に据えられたストーリーであるにもかかわらず、細部が見落とされ、誤解されることが多い。
まず、エルサレム入城の場面。イエスがロバに乗ってエルサレムに入る光景は「受難週」の幕開けを告げるもので、群衆が「ホサナ」と叫びながら迎える様子が記されている。これは一見、歓迎の行進のように見えるが、歴史的・文化的な文脈を考えると少し複雑だ。当時、ローマの支配下にあったユダヤ人たちは、メシアの到来を熱望していた。つまり、彼らが期待していたのは政治的な救世主、ローマを倒す指導者だったということがポイントだ。しかし、イエスがそのようなメシア像とは違う、平和の使者として現れたことに後の失望や誤解が繋がる。
次に注目すべきは、神殿での出来事だ。イエスは神殿に入り、商人たちを追い払う。このシーンは「神の家を商売の場にした」という宗教的な怒りを示すものだが、実はこの行動が宗教指導者たちとの衝突を決定的にした。彼らにとって、イエスは神殿の権威を揺るがす存在となった。これが後に、イエスが宗教的・政治的に危険な人物とみなされる一因になる。
さらに、最後の晩餐も重要だ。この場面では、イエスがパンを割き、ワインを分けることで「新しい契約」を象徴するが、このとき彼は弟子たちの裏切りについても暗示する。とりわけ、ユダの裏切りは、ストーリー全体に緊張感をもたらす。ユダが受けた銀貨30枚は、当時の奴隷一人分の価値に相当し、これがイエスを売る値段として描かれているのは非常に象徴的だ。金銭的な裏切りが神の息子に対するものであるという、冷酷なリアリズムがここにはある。
そして、裁判と死刑判決のプロセス。イエスはローマ総督ピラトの前に引き出されるが、ここで問題になるのは、彼が本当に法的な意味で罪を犯していたのかという点だ。ピラト自身は、イエスに有罪の証拠を見つけられなかったため、「群衆の声」に従い処刑を命じた。ここで注目すべきは、宗教的な罪(神への冒涜)と政治的な罪(反乱者)の境界線が曖昧になっていることだ。ユダヤ教の指導者たちは、ローマの権力を利用してイエスを排除しようとし、ピラトは大衆の圧力に屈する形で十字架刑を宣告した。つまり、この物語は単なる「宗教的な出来事」ではなく、宗教と政治が絡み合う複雑な力関係の中で展開されている。
このように、イエスの受難にはいくつかの問題が浮かび上がる。まず、群衆の期待とイエスのメシア像との乖離が、裏切りや誤解を生んだこと。次に、宗教指導者たちが抱く権威の脅威という点。そして、最後に、政治と宗教が交差する場所で、無実であるにもかかわらず処刑が行われるという矛盾。この物語が持つ普遍性は、歴史的な具体性に根ざしつつも、現代における権力や正義に対する問いを投げかける。
イエスの受難を理解するためには、単なる神学的な解釈を超えて、当時の社会的・政治的背景を考慮することが重要だ。実は、これが歴史的に見逃されがちな部分である。裁判の不条理、裏切りの象徴性、そして神聖と政治が交錯するドラマの本質を見つめると、この物語が単なる聖書のクライマックス以上のものだと感じられるはずだ。

イエスの入城から判決までの一般的ストーリー 

ユダはなぜ裏切ったのか?

イエスは、モーセの出エジプトを祝う過越祭を過ごすため、エルサレムに入城した。
現在も裏切り者の代名詞としての汚名を受けるユダであるが、実はこのユダ、もともと弟子のなかでも優れて理性的で、ペトロと並ぶリーダー格の存在だったとの見方もある。
そんな彼がなぜ裏切ったのか。一説として考えられているのが、イエスへの失望である。ユダは師が自分や皆が求めるメシア、つまりユダヤをローマの支配から解放し、ダビデ・ソロモンの時代の繁栄をもたらす人物ではないと悟ったというのだ。

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イエスの逮捕の過程

過越祭が近づいた頃、イエスは12人の使徒とともに夕食につく。これが有名な「最後の晩餐」である。
晩餐を終えたイエスは弟子たちを連れて、エルサレム城外のオリーブ山にあるゲッセマネという庭園に移動した。イエスは祈りを捧げた。その表情は、じきに訪れる出来事を予期するかのような悲しみと苦悩に満ちていた。
やがて、ユダが反イエスの人々とともにやって来た。ユダはイエスに近寄り口づけをした。この友愛の印が、敵にイエスを知らせる合図となる。
イエスを捕らえた人々は大祭司カイアファの家に連行した。ユダヤ教徒の議会、サンヘドリンの全議員が集まり裁判を行なうためだ。しかし、審議は最初からイエスを有罪にする意図を持っていた。カイアファを含む宗教家たちは、民衆の人気を集めていたイエスの存在に嫉妬していたのだ。

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カイアファ(カヤパ)を含む宗教指導者たちは、民衆の間で人気を集めていたイエスに嫉妬していたというが、それだけではなく、彼らは暴動や革命を恐れていた。イエスの影響力がこれ以上大きくなり、全ユダヤ人がイエスの名を知るようになると、暴動や革命が現実のものとなる可能性が高まる。そうなれば、ローマ帝国の属領であるエルサレムは破壊され、宗教指導者たちが持っている権限や権利もすべて失われてしまうことになる。つまり、彼らが恐れていたのは、自らの地位や権力の喪失であった。
もちろん、嫉妬が全くなかったわけではないが、むしろ暴動の発生を恐れていた。民衆がイエスをキリストと信じ、暴動に発展すれような懸念を抱くくらい当時の政治がいかに腐敗していたかということだ。

ユダヤ長老議会「サンへドリン」が恐れたこと

裁判では複数の証拠の提示が定められていたが、イエスの裁判では、イエスは破壊者であるなど、虚偽の証言が相次いだ。しかし、いずれの証言も一致せず有罪の確認を得ない。
業を煮やしたカイアファはついに自らが尋問を始めた。イエスは、それまで無言で耐えていたが、「お前は神の子キリストか」との問いに「そのとおり」と答えた。自らの発言によって、自分をキリストと承認した形になったのである。カイアファは憤怒し、「瀆言とくげんを聞いた以上、不敬罪は明らかで承認は不要だ」と叫び、議員たちに同意を求めた。こうしてイエスは満場一致で死刑とされた。
しかし、サンヘドリンには死刑を執行する権利はない。イエスはローマから派遣されたユダヤ属州総督ポンテオ・ピラトに引き渡される。罪状は、自らユダヤ王と称したという政治的反逆罪。不敬罪よりも確実に有罪となると考えたからだ。

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「イエスは破壊者であるなど、虚偽の証言が相次いだ」とあるが、実際、弟子たちはイエスが革命を起こしてユダヤの王になると信じていた。シモンやユダのような熱心党員が弟子の中に複数いたことからも、彼らは本気でそう考え、エルサレムに入場してきた。そして、神殿で商人の屋台をひっくり返して暴れたのだから、「破壊者」という評価も間違っていると言えない。
ただし、問題はそれで死罪にできるかどうかである。最終的には、イエスが自分をキリストと名乗ったことが不敬罪に問われ、サンヘドリンには死刑を執行する権限がなかったため、ローマ総督ポンテオ・ピラトに引き渡された。イエスは「自らユダヤの王だと名乗った」として、政治犯、具体的には政治的反逆罪で十字架にかけられたのだ。
当時の刑法では、十字架刑は主に政治犯に適用されるものであった。イエスも革命を起こそうとした罪、暴動を起こそうとした罪、ローマやエルサレムの治安を悪化させようとした罪で処刑された形だ。
ヨハネの福音書18:31には、ユダヤの指導者たちが「我々には人を死刑にする権限がない」と述べ、サンヘドリンには独自に死刑を執行する権利がなかったことが示されている。そのため、イエスのような宗教的罪であっても、ローマの支配者の許可がなければ死刑を執行できなかった。
しかし、これは常に厳密に守られていたわけではなく、例外もあった。例えば、使徒行伝7章のステファノの殉教では、サンヘドリンが独自に石打ち刑を執行している。ローマの許可がなくても、特定の状況では群衆や宗教指導者が独自に死刑を行うこともあった

つまり、彼らはイエスを殺すことができたはずだがそうしなかった理由は、洗礼者ヨハネが多くの人々から預言者として認められていた存在であったことにある。イエスはそのヨハネから洗礼を受けている人物であり、人々がまだ完全には知らなかったとしても、彼を自らの手で処刑することは非常に大きなリスクを伴っていた。
ローマによって処刑されることで、自分たちの立場や権利は守られ、自ら手を下さないことで危険を避けられる。したがって、彼らがローマに処刑を任せるという政治的判断を下したのは自然なことだ。
もし石打ちの刑にしてしまった場合、リスクが大きすぎたのだろう。ローマによる政治犯としての処刑であれば、自分たちは完全に安全で、権利や利権も保持できる。政治家として考えれば、そうした判断は当然のことだと思われる。

彼はまず、エルサレムに滞在していたガリラヤの統括者ヘロデにイエスの身柄を委ねた。しかし、ヘロデもイエスの罪を認めることはなく、再びピラトのもとへ戻してくる。
困ったピラトは、民衆に判断を仰ぐことにした。時は過越祭の直前で、この時期には囚人が一人恩赦され、その人物は民衆が決めることになっていたのだ。
確固たる反逆者バラバと無実の罪を着せられたイエス。だが、カイアファらに扇動された民衆が恩赦の対象にしたのはバラバだった。その声に圧倒されたピラトは、責任は自分にはなく民衆にあるとした上で、イエスにローマの政治犯の刑罰、磔刑の判決を下したのだった。

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おそらく、この民衆は最初からサンヘドリンによってお金で雇われ、手配された者たちだろう。一般の人々はほとんど参加していなかったのではないか。その理由として、まずイエスが逮捕されたタイミングで一般の民衆がそれを知ることは難しかったからだ。
イエスは逮捕されるとすぐに裁判にかけられ、明け方にはピラトの元に送られ、裁判が行われて死刑が決まった。噂が広まり、民衆が押し寄せてくる時間があるとは考えにくい。
これは非常に短い時間で進んだ出来事だ。だからこそ、民衆が集まり「バラバを赦せ」と叫び始めたのは、初めからサンヘドリンが動員をかけた者たちだったということになる。つまり、最初から手はずが整っていた。サンヘドリンは最初からイエスを処刑するつもりだったと考えたほうが自然だ。
この一連の出来事は、計画通りに進んだ逮捕劇であり、裁判劇だったということだ。重要なのは、イエスが政治犯として処刑されたという点だ。

「最後の晩餐」以降のイエスの足取り

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真実のストーリー検証

イエスはユダヤ教徒ではなくミトラ教徒だった

キリスト教の初期の発展についての標準的な見方は、イエスがユダヤ教を信奉していたという基本的な前提に立脚しており、それゆえ福音書に見方によっては興味をそそられる点が多くあっても、それらは自動的に除外されてきた。イエスのユダヤ性――いわずもがなく人種と宗教の両面から――という仮説について詳しく調べてみると、ただちに常識に反することが見いだされる。(イエスは人種的にはユダヤ人でも、ユダヤ教徒ではなかったらしい。)
一般的にいえば、イエスの伝道はユダヤ文化の枠内――1世紀のユダヤ地方――でなされたもので、彼にしたがった弟子たちもほとんどがユダヤ人であった。彼の直近の弟子たちや福音書記者たちも、イエスをユダヤ人と信じていたと思われる。
一見したところ、イエスがユダヤ人であったと信じるだけの十分な根拠があるように思える。彼はアブラハムやモーセなど旧約聖書の人物を頻繁に引き合いに出しており、ユダヤの律法の観点で何度もパリサイ人と議論しているが、もし彼がユダヤ人でなかったのならば、このように異常なほど執着していた理由を説明することはできない。
しかし、ほとんどの学者は、これらの部分がイエスの純粋の言葉である可能性はきわめて低いという点で一致している。モートン・スミスによれば、
パリサイ人に対する福音書のほとんどの言及は、福音書が編纂された最後の年代にあたる70年代から90年代にかけてのものと証明することができる。

マグダラとヨハネのミステリー

イエスが語ったとされる言葉の多くは、後世の人々によって付け加えられたものであり、実際にイエスが言ったものではないという考えがある。イエスの時代、サドカイ派が主導権を握っていたが、パリサイ派はあまり力を持っていなかった。その後、70年にヘロデの神殿が破壊され、原始エルサレム教会は徐々に消滅していく。このような状況下で、サドカイ派に代わってパリサイ派が台頭してくることになる。
サドカイ派は神殿を拠り所として信仰や祭祀を行っており、それが彼らの権力の源泉だった。しかし、神殿が破壊されたことで、サドカイ派はその存在意義を失ってしまう。その結果、代わりに勢力を伸ばしてきたのがパリサイ派である。当時、パリサイ派と原始エルサレム教会は対立関係にあり、パウロなどが登場しても、パリサイ派との関係は次第に険悪になっていく。このような状況の中で、パリサイ派の人々が福音書において激しく批判されるようになった。この見解は多くの学者が支持しており、福音書に記されたイエスとパリサイ派の論争も、後世に加えられたものである。つまり、聖書というのは政治的な意図を含んだ虚構や幻想に満ちたものであり、そのように理解するのが適切だ。

ユダヤ神殿でのイエスの狼藉

神殿での狼藉が意味するもの

新約聖書でもっとも有名な場面のひとつとして、神殿の両替商を見たイエスが、正義感に憤って商人たちの机をひっくり返したというものがある。 このイエスの行動は、神聖な場所が金融取引で汚される戦慄感によると説明されるのが普通であるが、これはきわめて西洋的で現代的な見方である。エルサレム神殿に捧げる動物を買うために両替するのは、腐敗でも悪弊でもなく、この場所での礼拝に欠かせない要因であった。
これは「エルサレム神殿の存在そのものに対する攻撃……この神殿が表わすもののすべてに対する象徴的な拒絶」である。

マグダラとヨハネのミステリー

イエスが神殿で行った行為は、当時の礼拝そのものを否定したものだ。祭司たちにとっては、モーセの律法に基づいて犠牲の儀式を行うのが当然のことだった。犠牲として鳩や羊をどこから手に入れるかを考えると、便利さを求めるなら近場でお金で買うしかない。イエスがそれを「汚れている」としてひっくり返したことは、正当化が難しい行為である。
クリスチャンならイエスを正義の人物として捉え、その行為を英雄的だと感じるかもしれない。
しかし、視点を変えてみたらイエスの行為はどう映るだろう。聖書も読んだこともない、キリスト教も知らない人が、そんな宮清め事件に遭遇したらどう感じるだろうか。例えば、日本の神道で神主が儀式を行い、雅楽を奏でながら神事を進め、賽銭箱が設置されていて、巫女がそこでおみくじを販売しているような状況を想像する。その伝統は何千年も続いており、誰もそれを異常だとは思っていない。
そこに、イエスのような人物が現れて、怒り狂い、巫女が売っている土産物をひっくり返し、賽銭箱を倒して暴れたらどう思うだろうか? もし彼が「これらをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない」と叫びながら暴れたら、多くの人は彼を気違いだと思うだろう。

イエスの罪状:1. 器物損壊罪 2. 住居侵入罪 3. 威力業務妨害罪 4. 軽犯罪法違反 5. 暴行罪 6. 公然わいせつ罪 7. 名誉毀損罪 8. 侮辱罪

禁じられた魔術を行ったイエス

ユダヤ人の聖なる書物『タルムード』には、ガリラヤ生まれやナザレ出身のイエスは登場しないが、エジプト出身のイエスについて独断的に述べている。そのうえもっとも注目すべきなのは、『タルムード』がイエスの逮捕の理由が「魔術」の罪であり、彼がエジプト魔術の伝授者であると疑問の余地なく述べていることである。
福音書自体にもイエスが当時、広く魔術師とみなされていた徴候がある。ヨハネ福音書でピラトにイエスを引き渡すとき、人びとはイエスを「悪い行いをする人」と言っている。ローマ法では、これは「呪術師」に用いる言葉であった。
『タルムード』自体は、イエスが若年時代をエジプトですごし、そこで魔術を修得したと明確に述べているのである。
この点についてはほかのラビ文書も同様に明白であり、イエスは「魔術を実践し、イスラエルを誤った道に迷わせた」と述べている。
当時のユダヤ人のイエスに対する見方は、明らかにエジプト魔術の熟達者であった。彼らの視点でイエスの犯した罪とは、ユダヤの土地に「異教の思想と異教の神々」を持ち込もうとしたことであった。

マグダラとヨハネのミステリー
タルムード内でイエスが「魔術」の罪で逮捕されたと明確に述べている箇所は確認されていません。
以下の点を考慮する必要があります。
🟡歴史的背景: タルムードが成立した時期(紀元3世紀から5世紀)と
新約聖書におけるイエスの活動時期(紀元1世紀)には時間的な隔たりがあります。
そのため、タルムードがイエスに関する直接的な記述を持つことは歴史的に疑問視されます。
🟡非正統的文献: 一部の後世のユダヤ教徒による批判的なテキスト(例えば、「Toledot Yeshu」)では、
イエスが魔術師や異端者として描かれることがありますが、これらは正統的なタルムードの一部ではありません。

バラバ

「バラバ」という名を聞いて思い浮かぶのは、イエスとともに磔刑にかけられるはずだったが、突如として解放された男だ。『マタイの福音書』第27章15節では、ユダヤ人たちの選択によりイエスではなくバラバが解放される場面が描かれている。だが、このバラバとは何者なのか?彼は単なる悪党か、それとも当時の政治的・社会的な背景を持った象徴的な存在だったのか?
聖書そのものにはバラバに関する詳細な情報はほとんどなく、彼は「有名な囚人」としてのみ記されている。この「有名な囚人」という言葉の中に、彼の人間性や社会的な意味が凝縮されている。さらに彼が何をしたのか、どうして囚われていたのかが明示されていないため、様々な解釈や憶測が生まれている。彼が反ローマの革命家であったとか、盗賊の頭であったとか、あるいはイエスのような救世主的な期待を一部の人々から寄せられていたという説まである。

15 さて、祭のたびごとに、総督は群衆が願い出る囚人ひとりを、ゆるしてやる慣例になっていた。
16 ときに、バラバという評判の囚人がいた。
17 それで、彼らが集まったとき、ピラトは言った、「おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか。バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか」。
18 彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていたからである。
19 また、ピラトが裁判の席についていたとき、その妻が人を彼のもとにつかわして、「あの義人には関係しないでください。わたしはきょう夢で、あの人のためにさんざん苦しみましたから」と言わせた。
20 しかし、祭司長、長老たちは、バラバをゆるして、イエスを殺してもらうようにと、群衆を説き伏せた。
21 総督は彼らにむかって言った、「ふたりのうち、どちらをゆるしてほしいのか」。彼らは「バラバの方を」と言った。
22 ピラトは言った、「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」。彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言った。
23 しかし、ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると彼らはいっそう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。
24 ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。
25 すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。
26 そこで、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。

マタイによる福音書 第27章

裁きにかけられた2人のイエス

(p166–169)
彼の名はロンギヌスといった。彼は19年間、軍団の将校をしており、歩兵隊から歩兵隊をうつり、少しずつ昇級してきたのだ。彼の兵士たちはガリア人だった。ロンギヌス自身はローマ市民だった。
ロンギヌスはさけんだ、「しかし歩兵隊をとどめるには、たった1人のユダヤ人が投降すればいいのだ。人々の英雄、バラバよ——おまえは人々の安全と引き換えに自分の首をまもることをえらんだのだ」
彼はほんとうにそう考えていた。人の命より自分たちの主義のほうが神聖だと考える熱心党員たちに、うんざりしていた。
「バラバよ」ロンギヌスは言った。「記録のために本名を言うのだ。報告書を書くから。それがすめば、わたしたちは永遠に縁がなくなる」
ひざをつき、縛られて頭を地面につけたバラバは本当の苦痛に、顔をゆがめた。「イェホシュア」と彼は言った。「ヤハウェは救済」と、完全なヘブライ語で。
ロンギヌスは書字板に記録をとっている兵士のほうをむいた。彼は逮捕の正式な時間、日付、場所を口述した。それから逮捕した者の名を、自分の言語で言いなおした。
「イエスス・バラバス」ロンギヌスは言った。「囚人の名前はイエス」

小説「聖書」新約篇

イエス逮捕前の出来事

(p184)
ユダはトマスに言った。
「過越祭にはどれだけの人がエルサレムに行くと思うか」
トマスは言った、
「それがどうした。どうして知りたいのか」 ユ
ダは言った、
「わたしは知っている。どれくらいの人数か、すでに知っている」
「ではどうしてわたしにきくのか」
ユダは自分の思いを口にせずにいられなかった。
「12万5千人だ。それに町の人口をくわえれば、どうなるか。18万人だ」
「それがどうしたのか、ユダよ」
「つまりトマス、ローマの軍団が百あつまっても、その力にはかなわないのだ」

小説「聖書」新約篇

ユダの興奮が伝わってくる。ユダはもちろんトマスも同様だが、エルサレムに入場し、人々の興奮を煽り立て、イエスこそが救世主だということを確信させようとしていた。ユダは熱心党員で、もともと過激派に属している。熱心党員というのはローマからの独立を目指している者たちであり、革命を通じてローマから独立しようとしていた。だから、こうした会話があっても不思議ではないし、エルサレム入場の前に2人が非常に興奮していたというのも理解できる。

イエスを懸念するユダヤ長老たちの会議

(p191-192)
〈アリマタヤのヨセフ〉
切り石の部屋に議員たちがそろうと、大祭司は、異常な状況のもとでふたたび会議を召集した理由をのべた。
「ナザレのイエス、このナザレのイエスは人々の想像をかきたてている。何万人もが、自分たちは彼にしたがう者だと言っている。」
「もしこのまま彼を放置すれば、国じゅうが彼のあとを追いかけるようになるだろう」
「そしてもし今年の過越祭に彼があらわれれば、彼は暴動で町を破壊しかねない」
「そうだ、そして何が起こるか。当然ローマ人がやってきて、われわれの神聖な場所もわれわれの国もほろぼすだろう」
カイアファは言った。「1人の男が人々のために死に、国民全体がほろびないようにするのが得策だ」
ほかの者たちがさまざまな意見を出しているときに、その男はうしろによりかかってだまっていた。彼は純粋に神の国をもとめていた。彼の名はアリマタヤのヨセフといい、ナザレのイエスへのあこがれが、心のなかで強く動くのを感じていた。
人々のために1人の男が死ぬのは「得策」だとカイアファが言ったとき、ヨセフは十分にその意味を理解し――たぶん、カイアファ自身が意味した以上のことを理解していた。
(p193-197)
ある安息日の朝、イエスは「行こう」と言った。
シモン・ペトロは言った、「主よ、どこへ行くのでしょうか」
イエスは言った、「エルサレムだ。過越祭へ」

小説「聖書」新約篇

独立を目指す行動を起こせば、軍隊が来て神殿が破壊されることは目に見えていた。支配者たちは、ローマに従属し、その利益を享受していた。特に当時のサンヘドリンのユダヤ人たちは、今の日本の政治家がアメリカに従うように、ローマの言いなりになっていた存在であり、裕福な生活と権力を保つためにその状況を受け入れていた。彼らにとって、自分たちの地位と名誉を守るために、1人の男(イエス)が犠牲になる方が得策だという判断に至るのは、政治的に当然のことだった。そこで問題となるのは、イエスにどう罪を着せ、どうやって捕まえ処刑するかということだ。結局、彼らは「1人の人間が死んだ方が国が生き残る」と考えた。
しかし、アリマタヤのヨセフに関して「ナザレのイエスへの憧れが心の中で強く動いていた」とされるが、実際にはそれは違う。
彼はむしろ、ナザレのイエス以上に、イエスの役割や運命を理解していた。なぜなら、アリマタヤのヨセフはエッセネ派の大祭司であり、イエスが知らないことまで知っていたからだ。彼はメルキゼデク(マイトレーヤ)からの通信を受け取っており、これから起こることをすべて把握していた。つまり、イエスが受ける試練やその意味をすべて理解していたということだ。
会議の中で、イエスを処刑することが決定された。イエスは魔術を使っており、ユダヤ律法を犯していたため、石打ちの刑にするのは簡単だった。イエスが「自分はユダヤ王でありキリストだ」と言っている証言を引き出せば、それを冒涜罪として彼を石打ちにできた。しかし、彼を捕まえることでイエスを信じている者たちの反発を招く恐れがあったため、ローマ人に捕まえさせ、政治犯として処理する方が都合が良かったのだ。
このような計画を提案した人物が、アリマタヤのヨセフだった。これは彼の知恵であり、またメルキゼデク(マイトレーヤ)の計画でもあった。最初からイエスは十字架にかかる運命であり、石打ちの刑では計画が破綻してしまうため、十字架刑を選ぶことが重要だったのだ。

ユダの裏切りの真相

イエスはロバからおりた。
商品をならべた台、犠牲の動物の販売、両替など、神殿境内でおこなわれている商いのほうへむかっていた。
ユダはよろこびにふるえた。はじまったのだ。これはメシアだ。地上に火をなげるイエス。師が両替商の金を鋳道になげつけるのをみよ。彼がその台をくつがえすのを。
そして、熱心党員のように非難の言葉をさけびながら、羊や雄牛やハトを売る者たちを神殿から追いだすのを。
「これらといっしょに立ち去れ。出てゆくのだ。[わたしの家は祈りの家となるべきだ]と書かれている。それなのにあなたがたはそれを泥棒の巣にしてしまった。出ていけ」
それらのことが起きたのは週の1日め、過越祭まえの日曜日のことだった。
(p203-206)
弟子たちとイエスはベタニアのラザロのところへ行って食事をした。
するとラザロのもう一人の姉のマリアが部屋に入ってきて、非常に高価な、純粋なナルドの香油を入れた大理石の壺をもってイエスのところへ歩みよった。彼女は壺を割り、ゆっくりと流れる油を主の足にぬった。そしてそれを自分の長い髪でぬぐった。
ユダは言った、「主よ、この香油を300デナリで売り、その金を彼らにあたえるべきではないでしょうか」
「彼女はわたしの埋葬の準備のために、体に油をぬってくれたのだ。貧しい者はいつもあなたがたとともにいる。しかしわたしはいつもあなたがたといっしょにいるわけではない。」
ユダはうなずくこともできなかった。屈辱のために息がとまりそうだった。
水曜日の夜明けまでに、ユダは決心していた。もう混乱をうけいれないことにしたのだ。彼にはイエスがわからなかった。近ごろ師が話すことが理解できなかった。
彼が死ぬ週の5日め、木曜日のことだった。
夕方になると、イエスは10人の弟子たちと上の部屋へ入った。テーブルはきれいにととのえられていた。すでに指定の食事はこびこまれ、部屋をゆたかな香りでみたしていた。
部屋は質素なものだった。エッセネ派の家には装飾品はほとんどなかった。

小説「聖書」新約篇

ユダが香油を売って貧しい人々に与えるべきだと抗議した際、イエスはマグダラのマリアを弁護した。この出来事は、ユダにとって屈辱的な瞬間であり、彼はその屈辱に耐えられず、イエスを裏切ることを決意する。この事件が起きた時、すでにユダはイエスに対する信頼を失いつつあり、イエスの言っていることが理解できなくなっていた。彼の中でイエスに対する疑念や不満が膨らみ、そこにこの屈辱的な出来事が加わり、裏切りの決意が固まった。ユダが屈辱を感じた理由には、まず自分の意見が退けられたことがある。イエスが完全にマリアを弁護したことに対する屈辱は、彼にとって非常に大きなものであった。しかし、さらに重要な点は、当時の12人の弟子たちにとってマグダラのマリアがどういう存在であったかということである。マリアは弟子たちの間ではイエスの愛人として知られており、彼女がイエスに対して持つ影響力の大きさは、弟子たちにとって大きな不満と嫉妬の源となっていた。『グノーシスの福音書』などによれば、弟子たちは自分たちが軽んじられる一方で、マリアの願いは決して拒まれないことに怒りを感じていたとされている。マリアのためならばイエスはどんなことでも行い、彼女が頼まなければ何もしなかったという描写もあるほどである。マグダラのマリアへの偏愛は、他の弟子たちにとって非常に嫉妬を引き起こす要因であった。ユダもその嫉妬に取り込まれ、最終的にイエスを裏切る決断を下した。

囚人バラバ=義人ヤコブ

イエスにとっては、なるべく多くの人間を集め、武装させ、ローマに対する大規模な反乱を起こすことが必要であった。
イエスには、都において己が力と決意を誇示し、イスラエルの王権を担うにふさわしい人物であることをアピールする必要があった。
そこで、彼こそが預言者たちの告げた王であり、異国の支配から民を救う者であることをエルサレムの人々に宣言する計画が、注意深く練られていた。彼が子驢馬に乗ってエルサレムに入城したのは、当時よく知られていた『ゼカリヤ書』(第9章9節)の預言にならってのことである。
このようにして、人々の注目を集めながらエルサレムの神殿に辿り着いたイエスは、商人たちのテーブルを蹴り倒し、これを合図に親衛隊は彼らを地面に薙ぎ倒した。人々は恐れて身を隠し、イエスは大声で商人らを罵倒した。そしてすばやくベタニヤ(エルサレムの東2マイルの街)へと退却した。だがこの事件をきっかけに、権力者たちはイエスを弾圧する決意を固める。
ヤコブは逮捕され、イエスの人相書きがあちこちに貼られた。このような事実は、教会の記録からは抹消されてしまっているが、歴史家フラビウス・ヨセフスはそのことを記録している。このヨセフスの記録もまた、長い間教会によって隠匿されていたが、そのスラヴ語訳が19世紀に発見された。
イエスはすぐにゲッセマネの園で逮捕された。(p229-231)

封印のイエス

われわれはこれまで「王のメシア」イエスと呼んできたが、それは彼の名前ではなく、「救世主」を意味する肩書きである。そしてヤコブのほうも同じく「救世主」――すなわち「イエス」と呼ばれていた。審理に掛けられたふたりは、ともにイエスと呼ばれていたのだ。ひとりは「ユダヤの王イエス」、そしてもうひとりは「神の子イエス」である。すなわちここでは、祭司的メシアであるヤコブのほうが、バラバ(神の子)である。(p236)
イエスが十字架上で死んだと信ずる人々がいる。一方で、そうではないと信ずる人々もいるというのはどういうわけなのか? 答えは単純である。両者はともに正しいのだ。マリアのふたりの息子たちが同時に裁判に掛けられた。いずれもメシアを自称しており、それゆえに「イエス」と呼ばれていた。ひとりは十字架上で死に、ひとりは生き延びた。死ななかった方が弟の、そして民衆に人気のあった方のヤコブなのである。(p243)

キリストの復活

「キリストの復活」を考えると、多くの人は映画や絵画などから壮大なシーンをイメージする。しかし、新約聖書の四つの福音書を読むと、それぞれ微妙に異なる描写があり、矛盾を感じることがある。たとえば、「マタイの福音書」では天使が墓前で復活を告げるが、「マルコ」や「ルカ」では天使の人数や状況が異なる。また、マタイ特有のエピソードとして、ローマ兵が墓を守り、後に「弟子たちが体を盗んだ」との噂を広めたことがある。復活を巡る議論では、歴史的イエスと神の子キリストの関係が焦点となる。イエスは人間として苦しみ死んだが、復活後の姿が「キリスト」としての新しい存在かどうかは、神学的な問いである。さらに、墓から消えたイエスの遺体についても様々な仮説がある。信仰者にとっては矛盾があっても復活の意義は変わらず、歴史的な解釈と共にその象徴的な意味が新たな解釈を生み続けている。

マタイの福音書:ピラトの裁定から磔刑まで

22 ピラトは言った、「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」。彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言った。
23 しかし、ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると彼らはいっそう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。
24 ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。
25 すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。
26 そこで、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。
27 それから総督の兵士たちは、イエスを官邸に連れて行って、全部隊をイエスのまわりに集めた。
28 そしてその上着をぬがせて、赤い外套を着せ、
29 また、いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ、右の手には葦の棒を持たせ、それからその前にひざまずき、嘲弄して、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。
30 また、イエスにつばきをかけ、葦の棒を取りあげてその頭をたたいた。
31 こうしてイエスを嘲弄したあげく、外套をはぎ取って元の上着を着せ、それから十字架につけるために引き出した。
32 彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に負わせた。
33 そして、ゴルゴダ、すなわち、されこうべの場、という所にきたとき、
34 彼らはにがみをまぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはそれをなめただけで、飲もうとされなかった。
35 彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、その着物を分け、
36 そこにすわってイエスの番をしていた。
37 そしてその頭の上の方に、「これはユダヤ人の王イエス」と書いた罪状書きをかかげた。
38 同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。

マタイの福音書 第27章

イエスが十字架につけられた際、兵士たちがくじ引きをして彼の着物を分け合った、という話は、イエスが身に着けていた衣服が非常に上等なものであったことを示唆している。この行為は、一般庶民の着物では行われないはずだ。つまり、イエスの着物は質の高いものであり、これは彼がある程度の地位を持っていた人物であったことを示している。キリスト教徒の間では、イエスが質素な生活をしていたというイメージがあるが、もし彼が非常に貧しい人物であったなら、着物をくじ引きで取り合うようなことは起きなかったはずだ。
また、イエスと共に十字架につけられた2人の強盗の話も興味深い。ルカによる福音書23章39-43では、十字架にかけられた犯罪人のうちの1人がイエスをあざ笑い、自分たちを救えと挑発するが、もう1人はそれをたしなめ、「我々は自分の罪の報いを受けているが、この方は何も悪いことをしていない」とイエスを擁護する。そしてその人物は、イエスに対して「あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、私を思い出してください」と懇願する。これに対して、イエスは「あなたは今日、私と一緒にパラダイスにいるだろう」と答えた。

39 そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって
40 言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。
41 祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、
42 「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。
43 彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。
44 一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった。

マタイの福音書 第27章

一般的には大事件として捉えられ、多くの人が彼の処刑を嘆き悲しんだというイメージがある。しかし、実際の状況は異なっていたようだ。聖書によれば、通りかかった人々が頭を振りながら罵っていった……このことからも、磔刑は特別な出来事ではなく、周囲に大きな衝撃を与えるものではなかったことが分かる。当時の磔刑はそれほど珍しいものではなく、イエスと共に三人が処刑されていたが、多くの人が集まって嘆き悲しむような状況ではなかった。むしろ、磔刑の現場はあまり注目されず、処刑が行われていたというだけの普通の出来事だったと考えられる。
また、当時「自分こそがキリストであり、ユダヤの王である」と主張する者はイエス以外にも複数いた。イエスの後にも同様の人物が現れ、ローマに反抗して戦った者たちもいた。そのため、イエスの磔刑は特別なものではなく、「また誰かが処刑された」という程度の出来事だったのだ。

45 さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。
46 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
47 すると、そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「あれはエリヤを呼んでいるのだ」。
48 するとすぐ、彼らのうちのひとりが走り寄って、海綿を取り、それに酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
49 ほかの人々は言った、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」。
50 イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。

マタイの福音書 第27章

マタイの福音書:埋葬と遺体の消滅

51 すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、
52 また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った
53 そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた。
54 百卒長、および彼と一緒にイエスの番をしていた人々は、地震や、いろいろのできごとを見て非常に恐れ、「まことに、この人は神の子であった」と言った。
55 また、そこには遠くの方から見ている女たちも多くいた。彼らはイエスに仕えて、ガリラヤから従ってきた人たちであった。
56 その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、またゼベダイの子たちの母がいた。

マタイの福音書 第27章

アリマタヤのヨセフによる遺体の引き取り:新しい墓

57 夕方になってから、アリマタヤの金持で、ヨセフという名の人がきた。彼もまたイエスの弟子であった。
58 この人がピラトの所へ行って、イエスのからだの引取りかたを願った。そこで、ピラトはそれを渡すように命じた。
59 ヨセフは死体を受け取って、きれいな亜麻布に包み、
60 岩を掘って造った彼の新しい墓に納め、そして墓の入口に大きい石をころがしておいて、帰った。
61 マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓にむかってそこにすわっていた。

マタイの福音書 第27章

マタイにのみある墓の番人の記述

62 あくる日は準備の日の翌日であったが、その日に、祭司長、パリサイ人たちは、ピラトのもとに集まって言った、
63 「長官、あの偽り者がまだ生きていたとき、『三日の後に自分はよみがえる』と言ったのを、思い出しました。
64 ですから、三日目まで墓の番をするように、さしずをして下さい。そうしないと、弟子たちがきて彼を盗み出し、『イエスは死人の中から、よみがえった』と、民衆に言いふらすかも知れません。そうなると、みんなが前よりも、もっとひどくだまされることになりましょう」。
65 ピラトは彼らに言った、「番人がいるから、行ってできる限り、番をさせるがよい」。
66 そこで、彼らは行って石に封印をし、番人を置いて墓の番をさせた。

マタイの福音書 第27章

1 さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。
2 すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。
3 その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。
4 見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。
5 この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、
6 もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。

マタイの福音書 第28章

マタイの福音書:復活

7 そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。
8 そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
9 すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。
10 そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。

マタイの福音書 第28章


11 女たちが行っている間に、番人のうちのある人々が都に帰って、いっさいの出来事を祭司長たちに話した。
12 祭司長たちは長老たちと集まって協議をこらし、兵卒たちにたくさんの金を与えて言った、
13 「『弟子たちが夜中にきて、われわれの寝ている間に彼を盗んだ』と言え。
14 万一このことが総督の耳にはいっても、われわれが総督に説いて、あなたがたに迷惑が掛からないようにしよう」。
15 そこで、彼らは金を受け取って、教えられたとおりにした。そしてこの話は、今日に至るまでユダヤ人の間にひろまっている。

マタイの福音書 第28章

16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。
17 そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。
18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

マタイの福音書 第28章

キリスト教養子論とキリスト復活の真相

コーラン第4章「女人の章(アン・ニサー)」第157節は、イエス・キリストの処刑に関するイスラム教の教義を明確に示しており、特にキリスト教の十字架刑の概念に対して異を唱えている。この節は、イエスが実際には処刑されなかったとするイスラム教独自の見解を述べ、キリスト教との教義的な対立を鮮明にしている。

まず、この節は次のように述べている:

「かれらは、『わたしたちは、マルヤムの子、アッラーの使徒イーサーを殺した。』と言った。だが、かれらはかれを殺したのでもなく、十字架にかけたのでもない。かれに似せた人を殺しただけである。かれについて意見が分かれている者は、それに関して何の知識も持たない。ただ臆測に従っているに過ぎないのである。実際、かれらはかれを殺さなかったのである。」(コーラン4:157)

この節によると、イエス・キリスト(イーサー)を十字架にかけたとする者たちの主張は誤りであり、実際にはイエスは処刑されず、彼に似せられた他の人物が処刑されたとされる。この節に基づき、イスラム教徒はイエスが殺されたというキリスト教の教えを否定し、彼がアッラーによって天に昇ったと信じている。
このイスラム教の見解は、キリスト教の伝統的な教義と著しく対立する。キリスト教では、イエスが人類の罪を贖うために十字架上で死に、三日後に復活したという教えが中心的な教義として位置づけられている。新約聖書では、イエスの十字架上の死と復活が信仰の基盤であり、この出来事が神の計画の一環として重要視される。例えば、ヨハネの福音書には次のように記されている:

「さてイエスは、ぶどう酒を受けられると、『成し遂げられた』と言われた。そして頭を垂れて霊をお渡しになった。」(ヨハネ19:30)

この記述からもわかるように、キリスト教においては、イエスの死は神の救済計画の成就として位置づけられている。一方、イスラム教では預言者イエスが不当に殺されることはあり得ないとされ、彼が死を迎えることなくアッラーの元へ引き上げられたとする(コーラン3:55)。イスラム教の預言者観に基づき、神に選ばれた預言者がその使命を断たれることはないという信念が強調されている。つまり、イスラム教ではイエスは預言者の一人であり、キリスト教での「神の子」という考え方は受け入れられていない。
さらに、この節は、イエスの処刑について「臆測に従っている」という表現を用いており、イエスの死に関する確たる知識を持たない者たちの間で誤解が広がったことを示唆している。この点について、イスラム教の学者たちは、イエスの処刑が誤解されることで、後の宗教的対立が生じたと考えている。イスラム教においては、預言者たちがアッラーの使徒として正しい道を指し示し、その使命を全うした後、神の元に戻ると信じられている。
結論として、コーラン第4章157節は、キリスト教とイスラム教の間でのイエスに対する認識の根本的な相違を強調している。この節を通じて、イスラム教は独自の預言者観を貫き、イエスが処刑されたというキリスト教の教義を否定し、彼がアッラーによって天に昇ったとする。これにより、イスラム教はイエスを預言者としての位置に留めつつも、キリスト教の教義との対立を明確に示している。

眞相はかうだ!

エルサレムにある聖墳墓教会の敷地内には、ゴルゴダの丘と、イエスが埋葬されたとされるアリマタヤのヨセフの墓が存在する。ゴルゴダの丘は、イエスが磔刑に処された場所であり、アリマタヤのヨセフが所有する土地であったことが記録されている。これに基づくと、ゴルゴダの丘自体もヨセフの所有地であった可能性が高い。イエスはこの丘で磔にされ、その後、同じ敷地内のヨセフの墓に埋葬された。さらに、ピラトにイエスの遺体を引き渡すよう頼んだ際、遺体は速やかにヨセフに引き渡された。この状況から、何らかの計画があったのではないかという疑いが生じるのは自然である。
通常、磔刑で死ぬまでには三日程度かかるとされているが、イエスはわずか6時間で死亡している。しかも、過越祭が近づいていたにもかかわらず、その日に処刑が行われている。このことからも、処刑が意図的に早められた可能性が考えられる。
ここで注目すべき点は、アリマタヤのヨセフが事前に新しい墓を用意していたことである。ヨセフは岩を掘ってこの墓を作っており、その準備はかなり前から進められていたと考えられる。イエスが裁判にかけられ、磔刑が決定してからでは、墓の準備が間に合わないからだ。したがって、ヨセフはイエスの死を事前に知っていた可能性が高い。
さらに、ヨセフはエッセネ派の大祭司であり、霊的存在であるマイトレーヤやメルキゼデクと通信できる人物であったとされている。そのため、当時の人々の中で、これらの霊的存在と繋がっていたのはアリマタヤのヨセフとマグダラのマリアだけだった。しかし、マグダラのマリアは真実を知らされておらず、ヨセフだけがすべての計画を知っていた。イエスが磔刑にかけられ、3日後に復活するという計画もヨセフには知らされていたが、イエス自身はそれを知らなかったとされている。

イエスはローマ帝国に対する革命を起こそうとしていたが、ヨセフはそれを理解していた。そして、イエスが磔刑に処されることは、計画の一環であった。そのため、ヨセフはイエスを捕えるように手配し、石打ちの刑ではなく十字架刑で処刑されるよう、カヤパ大祭司に進言したと考えられる。
ヨセフは事前に墓を掘り、イエスの死後、仲間たちとともにその墓にイエスを埋葬した。イエスが磔刑に処されたとき、マイトレーヤはイエスの体内に宿っていたとされるため、イエスの死は霊的な意味を持っていた。イエスの遺体はアリマタヤのヨセフの墓に埋葬され、マグダラのマリアをはじめとする女性たちがその様子を目撃している。そして、大きな石で墓は封じられた。
過越祭があったため、マリアたちは家に帰り、墓には番人がいなかった。その夜、誰もいない中でアリマタヤのヨセフとその仲間たちが墓に来て、石をどけてイエスの遺体を別の場所に移動させた。イエスは肉体として復活することはなかったため、遺体はそのまま残っていた。彼らは誰にも気づかれないように、イエスの遺体を運び出したのである。
その後、数日が経ってマグダラのマリアが墓を訪れると、墓は空であり、中には亜麻布だけが残っていた。マリアはその時、天使を目撃し、天使から「イエスは復活した」と告げられる。彼女にしか見えなかったこの天使は、マイトレーヤの霊的存在だった可能性が高い。その後、彼女は弟子たちに知らせに行く途中で、復活したマイトレーヤに出会い、声をかけられる。こうして、イエスの物語が終わり、キリスト教の物語が始まる。

イエスの死体はどこにあるか

キリストの墓が存在する可能性
キリストの遺骸を祭る墓があるかもしれないと主張する人たちも居る。 他の宗教の場合と異り、キリスト教においては、キリストの遺骸は失われたのではなく、信仰上存在しないということをまず踏まえなければならない。
まったくキリスト教を信じない人は、イエス・キリストが人であったのならば、その遺骸は存在するだろうと考えるかもしれない。 しかし、それを祭る墓があるためには、イエス・キリストその人を信奉する人たちの存在を仮定しなければならない。
その墓があるためには、イエス・キリストを信奉するが、その肉体が天に上げられたのではないと信じる人が居なければならない。 これは正統的なキリスト教からすれば異端となる。 グノーシス主義的なもののひとつ、エビオン派の養子的キリスト論を、分かりやすい例として挙げる。 彼らによれば人間イエスと神性キリストを区別する。 人間イエスはナザレのヨセフマリアの間に産まれた子であって、彼が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたときに聖霊が降り、神の子イエス・キリストとなった。 また、十字架につけられるときにキリストの神性はイエスから離れた。十字架上で死んだのは人間イエスであって、キリストではない。
この考えに立てばキリストは一足先に天に昇っているから、人間イエスの遺骸は地上に残されているはずである。 しかしこの思想では、キリストが去ったあとの人間イエスの遺骸を信奉する意味も無くなるので、墓が存在する理由には多少無理がある。

https://web.archive.org/web/20120713083856/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E5%A2%93

エビオン派の「キリスト教養子論」

養子的キリスト論(Adoptionism)は、初期キリスト教において一部のグループが支持した神学的見解で、イエス・キリストが生まれたときは普通の人間であり、後に神によって「養子」として選ばれ、神の子となったとする考えである。この説は、2世紀から3世紀にかけて特に東地中海地域で展開され、一部のグループ、特にエビオン派(Ebionites)との関連が強い。
エビオン派は、初期キリスト教のユダヤ的背景を強く持つ一派で、イエスを単なる偉大な預言者や教師として位置付ける一方で、彼が神としての本質を持っていたわけではなく、後にその功績によって神に採用されたと信じていた。彼らは、イエスの神性を生得的なものではなく、特定の時点で授けられたものと解釈し、これが養子的キリスト論と合致している。特にイエスの洗礼の際、神によって神性が与えられたとする見方が重要である。
この考え方は、正統派キリスト教の見解、特に「二性一体説」(イエスが神性と人性を生まれながらにして持っているとする説)と対立した。ニケーア公会議(325年)では、イエスが最初から完全な神であるとする見解が正式に採用され、養子的キリスト論やそれに関連するエビオン派の思想は異端とされた。
エビオン派や養子的キリスト論は、初期キリスト教におけるイエスの神性をめぐる重要な議論を反映しており、後にキリスト教神学の発展においても影響を与えたが、正統派教義が確立されるにつれて歴史の中で消滅していった。

キリストの墓はどこにある

有力な南フランス説
フランスの作家、ジェラール・ド・セードは、南フランスの小さな村レンヌ=ル=シャトーに謎の財宝の秘密が隠されているとする一連の著作を発表した。 『アルカディアの牧人たち』と題するニコラ・プッサンの有名な絵がある。 この絵に描かれた風景と墓石にそっくりなものが、レンヌ=ル=シャトーの近くに存在した。 1970年代セードの著作以降、この地は財宝目当ての人間が引きも切らなかった。 中にはダイナマイトを持ち込むぶっそうな者もいたので、けっきょくこの墓石は持ち主が取り壊してしまった。
英国のテレビ作家ヘンリー・リンカーンらは、これを追って、BBCのテレビ番組で放映したほか、『レンヌ=ル=シャトーの謎』を著した。 墓石の碑文には「ET IN ARCADIA EGO」とある。 この碑文はプッサンに先行して1621-1623年のグェルチーノの絵にもあり、「われアルカディアにもあり」とか、いろいろに解釈されている。 リンカーンらは、これはアナグラムであり、「I TEGO ARCANA DEI」(立ち去れ! 私は神の秘密を隠した)と読めるとした。 「神の秘密」としてリンカーンらは、イエスの血脈を想定し、シオン修道会がそれを守っているとするのだが、イエスの墓がある可能性も示した。
リチャード・アンドルーズとポール・シェレンバーガーもこれを追って、問題の絵はイエスの墓の位置を示しているとして、近くの山中にその位置を推定した。
この地域は古くキリスト教の異端カタリ派の拠点であったという歴史を持っている。 カタリ派は13世紀前半にアルビジョア十字軍によって壊滅させられているが、彼らがその秘密を残したのではないかというものである。

https://web.archive.org/web/20120713083856/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E5%A2%93

アリマタヤのヨセフがイエスの遺体を運び出した理由は、キリストの復活という物語を成立させるためである。彼は、イエスの亡骸を別の場所に移したとされているが、その移動先がどこであったのかが問題となる。
アリマタヤのヨセフは、マグダラのマリアと共に南フランスに渡ったという説がある。船で南フランスへ到達した後、マグダラのマリアはそこで布教活動を行い、彼女が暮らしていた洞窟も紹介されている。このことから、イエスの遺体が南フランスへ運ばれ、そこで埋葬されたのではないかと考えられている。

レンヌ=ル=シャトーの謎とキリストの墓

レンヌ=ル=シャトー(Rennes-le-Château)は、フランス南西部のラングドック地方に位置する小さな村でありながら、近代において特異な歴史と神秘的な伝説で国際的な注目を浴びるようになった。この村の名前が広く知られるようになった背景には、19世紀後半に司祭ベランジェ・ソニエール(Bérenger Saunière)が関わっている。彼の謎めいた行動、特に教会修復中に発見されたとされる秘密や、その後の巨額の資産取得が、村の歴史を一変させた。レンヌ=ル=シャトーとその謎めいた歴史に焦点を当てるとともに、同地が「キリストの墓」に関連しているという主張や、その裏にある歴史的背景について考察する。

レンヌ=ル=シャトーの歴史的背景
レンヌ=ル=シャトーは、古くからその地域に根ざした小さな村であったが、19世紀末の司祭ベランジェ・ソニエールの登場により、世界的な注目を集めることになった。1885年にソニエールはこの村の教会に司祭として赴任したが、その当時の教会は老朽化が進み、経済的にも困窮していた。しかし、彼が1891年から教会の大規模な修復を始めた際、突如として巨額の資金を手に入れることとなる。ソニエールがどのようにしてこの資金を得たのかについては不明であり、これが後の数々の謎と陰謀論の根幹となった。
ソニエールは修復作業中に教会の地下室や古文書を発見したとされ、その後、彼が発見したものが歴史的に重要なものであったという説が広まるようになった。特に、彼の発見がキリスト教に関わる重大な秘密、もしくは莫大な財宝に関連している可能性があるとする説が注目される。

キリストの墓とレンヌ=ル=シャトー
レンヌ=ル=シャトーが注目される理由の一つに、「キリストの墓」がこの地に隠されている可能性が挙げられる。これは、19世紀以降のオカルトや秘教的な理論と関連しており、特に20世紀後半には、キリストの系譜やマグダラのマリアとの関係を巡る議論が巻き起こる中で、レンヌ=ル=シャトーが象徴的な場所として位置付けられるようになった。これらの理論は、例えばダン・ブラウンのベストセラー小説『ダ・ヴィンチ・コード』などの大衆文化においても影響を与えた。一部の歴史学者や陰謀論者は、ソニエールが発見した文書や遺物が、キリスト教の正統な教義に挑戦するようなものであり、それがカトリック教会の抑圧された秘密であった可能性を指摘している。また、特にマグダラのマリアとの関係において、キリストの墓や系譜が現実のものであり、それがレンヌ=ル=シャトー周辺に関連しているとする理論も根強く存在している。

陰謀論と秘教的なグループの影響
レンヌ=ル=シャトーとその伝説を支える陰謀論には、フリーメイソンやカタリ派などの秘教的グループの影響が見られる。特にカタリ派は12世紀から13世紀にかけて南フランスで活動していたキリスト教異端派であり、彼らもまたキリスト教の伝統的な教義に挑戦する独自の信仰体系を持っていた。これに関連して、レンヌ=ル=シャトー周辺にはカタリ派が隠した財宝や、彼らが保持していたとされるキリスト教の秘密が隠されているという説も展開されている。また、フリーメイソンやその他の秘教的なグループがこの地域で活動していたという歴史的な事実も、これらの陰謀論に信憑性を与えている。これにより、レンヌ=ル=シャトーは単なる村以上の象徴的な場所として、オカルトや歴史的ロマンに興味を持つ人々の関心を集め続けている。

現代におけるレンヌ=ル=シャトーの意味
現代においても、レンヌ=ル=シャトーは観光名所として人気が高く、世界中から歴史マニアやオカルト愛好者が訪れている。村にはソニエールが手掛けた教会や、彼が建てた豪華な建物が残っており、これらの施設にはキリスト教的なシンボルだけでなく、解読が難しい暗号や象徴が散りばめられている。これらのモチーフは、村を取り巻く謎をさらに深め、訪れる者にさらなる興味と探求心を抱かせている。
さらに、レンヌ=ル=シャトーがキリストの墓や彼に関わる秘密の隠し場所であるという説が広まり続ける中で、村は歴史的考察とオカルト的探求が交差するユニークな場所としての地位を確立している。このような現象は、現代における歴史の解釈や、宗教的・神秘的な伝説がどのように再構築されるかを示している。

結論
レンヌ=ル=シャトーは、その小さな村の規模を超えた象徴的な場所となっており、ベランジェ・ソニエールの謎めいた行動と彼にまつわる財産が、様々な陰謀論や秘宝伝説を生み出した。この村がキリストの墓や彼に関わる秘密の隠し場所であるという説は、確証はないものの、多くの人々の興味を引き続けている。レンヌ=ル=シャトーの伝説は、宗教的歴史、オカルト的探求、そして秘教的なグループの活動が交錯する場所として、今後もさまざまな形で語り継がれていくだろう。

参考文献

  • Baigent, Michael, et al. Holy Blood, Holy Grail. New York: Dell, 1983.

  • Lincoln, Henry. Key to the Sacred Pattern: The Untold Story of Rennes-le-Château. Element Books Ltd, 1997.

  • Brown, Dan. The Da Vinci Code. Doubleday, 2003.

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