自然は脈動する: ヴィクトル・シャウベルガーの驚くべき洞察【本要約・ガイド】
シャウベルガーの水の魔術と神秘体験
シャウベルガーは水の知性につながる神秘体験を通じて水の魔術を追求しました。
シャウベルガーは水の魔術師として知られ、水の知性とのつながりを神秘体験を通じて探求しました。
彼は森林官として働きながら、水の流れに関する斬新なアイデアを実践しました。
シャウベルガーは水流の特性を理解し、木材を効率的に運搬するための水路を設計しました。
彼の水路設計は欧州で注目され、経済的成功を収めました。
神秘体験により、水の知性とのつながりを感じたシャウベルガーは、水の動きと変化に深い洞察を得ました。
シャウベルガーとシュタイナーは霊的な視点から水の役割を考え、異なるアプローチを持ちながらも似たような世界観を持ちました。
シャウベルガーは若い頃から森の中で過ごし、水の動きを研究する基盤を築きました。
彼は水路を通じて木材を運搬する革新的な方法を見つけ、成功を収めました。
シャウベルガーは神秘体験により、水の知性とのコミュニケーションを経験し、水の運動についての洞察を深めました。
彼のアプローチはシュタイナーとは異なり、水の精霊との対話を通じて水の本質を理解しようとしました。
水の魔術師として、シャウベルガーの貢献は水の重要性と意識に対する新たな視点を提供しました。
第一次大戦後のオーストリア。深い森の国で、木材は国の富であった。その木材が国の経済復興のカギだと知り、国は懸賞金をかけて大会を開催した。その目的は、丸太を水路で、傷つけずに早く運ぶ方法を見つけることだった。
そんな中、ヴィクトルという青年がいた。彼は日々川を観察するのが好きだった。川の中の魚の動き、岩の隆起、水の渦、すべてが彼の心に刻みつけられていた。彼はその観察から、水路の設計に生かすことを考えた。
彼のアイデアは、ウォータースライダーのような水路で、木材がラセン状に回転する溝をつけるものだった。その結果、木材が美しく流れる水路が完成し、彼は見事大金を手に入れた。その水路は、百年近く後の今も使用されている。
その後のヴィクトルは、水と森に魅せられ、その働きについて調査と研究を深めた。彼の理論は一風変わったもので、水と森の動き、特に渦巻きが生命や物質の発生に重要であるとした。
ヴィクトルは、水は生きた脈動するもので、森は生きた水を蓄える母体であると説いた。そして、自然界の動きを観察する中で、ラセンや渦巻きが重要な役割を果たしていると悟った。
彼のこの考えは、現代科学とは真逆の方向だった。現代の技術は物質を分解し、公害をもたらすもの。それに対し、ヴィクトルの自然の技術は、精妙なエネルギー作用をもたらすもので、ラセンの中心に収束して物質や生命を生み出すものだった。
彼はさらに、宇宙や人間もこのラセンの法則に従っていると説いた。太陽と地球、男と女、物質とエネルギー、すべてが渦巻きの力を使い、求心的に進化するものだとした。
その後も、彼はこの独特な理論を追求し続けた。彼の理論は誰にも真似できないもので、いまだに追従するものはいない。
ヴィクトルは、うずまきハカセとして知られ、その理論は今も多くの人々に影響を与えている。彼の理論は、自然界の秘密を解き明かし、人々に新しい視点を提供した。自然の中で現れる渦巻きやラセンは、現在の状況を進化させる唯一の方法であり、科学技術の方法を完全に反対にする必要があるものだった。
この革命的な考え方は、今も多くの人々に影響を与え、ヴィクトルの名を永遠に刻みつけたのだった。
自然界の深奥に潜む謎、螺旋の窓を開く旅が始まります。この旅の目的地は、複雑かつ不思議な世界。螺旋の力、その微細なエネルギー、そして人間の精神性と科学の交差点に立つ探求者たち。
シャウベルガーは、一見単なる幾何学的な形であるかのように見えるかもしれませんが、これらは異なる性質やレベル、微細なエネルギーを呼び込む「窓」であり、生命そのもののシンボルです。
螺旋は悪いエネルギーを取り除き、自らを浄化して精妙なエネルギーを導き入れる力を持つと言われています。この性質は、日本の神道での祓い清めと共通するものがあります。
螺旋は自然の進化、洗練、複雑化の手段でもあります。人間中心主義からケルト文化やアニミズム的な思想への回帰が、この概念を形成します。霊と科学が一つになり、すべてがつながっているという世界観を感じるのです。
シャウベルガーは、この世界を次元で分け、それぞれのエネルギーとして解釈しました。物質、感情、理性、時間と空間、直感と霊的な創造性が層状に重なります。そして最終的に、霊的なもの中心の社会へと進化する方向が示されました。
進化は自然な流れ、対立する力の調和から生じます。陽と陰、電気と磁気、重力と浮揚力など、対極が相互に作用することで新しい次元へと移行します。
太陽と地球、精子と卵子などが対比される「創造のダンス」。相互作用で吸引と反発を行き来し、新たなエネルギーと物質を創造するのです。
シャウベルガーは自然の力を解明し、永久に動き続ける機械の作成に成功しました。しかし、この技術は戦争と政治によって失われました。
自然の法則に従って生きる道が求められる今、新たな展開が待ち受けているのかもしれません。
UFOの原理
戦前のドイツ、冷戦が始まりつつある頃。欧州大陸を震撼させる新技術が、秘密裏に開発されていました。それは、人々の想像を超える、未来から来たかのような「空飛ぶ円盤」――すなわち、UFOの技術だったのです。
ナチス・ドイツは、科学と超自然の境界で密かにこの奇怪な技術を磨いていました。その背後には、三つの異なる流れが存在していました。
オーストリア人シャウベルガーと空軍の秘密計画
空軍による開発はオーストリア人・シャウベルガーを中心とし、「コアンダ効果」に基づくものでした。ジェット推進装置を応用して、一気に空中浮揚する構造。「空飛ぶ円盤」と呼ばれるこの機体は、反重力装置ではなかったものの、在来技術の延長線上でかなり独創的でした。目撃された円盤の多くがこのタイプだったとも言われています。
コアンダ効果の神秘
コアンダ効果は、流体が壁面に沿って流れる現象で、特定の角度から噴出される粘性流体が壁に引き寄せられる特性を持っています。この効果を円盤に応用し、垂直離着陸が可能な機体を作り上げました。米空軍もこの技術に注目し、実験していました。
ナチ親衛隊とアーリア人種の影響
もう一つの流れは、ナチ親衛隊によるもので、「反重力装置」の開発に成功したとされています。アトランティスなどから来たとされるアーリア人種の優越性を信じる団体が、この開発に深く関与していたのです。彼らはヒトラーに影響を与え、さらには彼と宇宙人型UFOの開発につながったと言われています。
この三つの流れは、UFO(反重力)の研究として、戦前のドイツの暗部に秘密裏に進められました。そのうち二つは、後のアメリカと同様の「電磁力→重力」の変換をベースとしたものでしたが、残る一つは全く異なる、独創的な研究でした。
(01:11) ナチスドイツはUFO技術を世界に先駆けて開発しました。円盤型の航空機や武器の開発も進められており、具体的な図面や実物が存在します。例えば、フォルテンのGO-229といった先進的なデザインや、円盤型の「メガディスク」と呼ばれる構造などが挙げられます。これらは当時のナチスの技術が現代の飛行技術に追いついていないという証拠であり、現代のヘリコプターは不安定で原始的だと言えます。
ナチスは円盤型飛行機を開発していましたが、これはただの飛行機であり、UFOとは言えません。ヴィクトル・シャウベルガーという人物によって開発されました。
リパルシンと呼ばれる飛び上がる模型などが画期的でした。ナチスの研究に基づきハンスカムラーがベル型の円盤を開発していたようです。
ハンスカムラーはアメリカに亡命し、友邦開発の中心人物として活動していたとされ、1991年まで生きたと言われています。ペンシルベニア州で起こったUFOの墜落事件や、ハンスカムラーが関与したプロジェクト。
水の魔術師、ヴィクトル・シャウベルガーの発見
内向きの回転、外向きの回転
右回転はエネルギーが入る(陽)、左回転はエネルギーが出る(陰)と聞いたことがあります。しかしながら私は、その考え方の他にもう一つの考え方があると思っており、それを重視しています。 それは「求心力」か「遠心力」かということです。言い換えれば、「内向きの回転」か「外向きの回転」であるかということです。
河川の右カーブと左カーブでは渦は逆の回転をしています。
一方、通常の水力発電システムは「軸性→放射性」(遠心性※外向きの回転:拡散/機械:騒々しい)で、パイプ内に水を流し水流・水圧で歯車を回して発電します。外向きのためエネルギーが奪われるので、シャウベルガー理論ではあまり効率が良いとは言えません。非建設的な力においては回転半径は拡大し、圧力と摩擦を増大させるタイプの加速を生じ、遠心的加速では同じ速度を維持したり、さらに加速するのにいっそう多くの力が必要となるからです。(遠心的加速)。
「あらゆる生命は動きである。自然界の動きに直線はなく、らせん形、あるいはらせん状の渦巻きの形をとる。らせん形は混沌から秩序を発生させる流体エネルギーの本来の姿である。気体、さらに電界の渦巻やドーナッツ状の形をとる。筋肉、組織、血液、骨その他の多くの有機生命体の形も渦巻き型である」
神秘のナチュラリストと呼ばれた、ヴィクトル・シャウベルガーは、水に関しても全く新しい視点から研究を行いました。
ヴィクトルは、現代文明が崩壊しつつある原因の一つは “生命をもたらす存在” としての水を軽視し、損なってきたことにあると考えたのです。彼は、人類の危険な技術は、エネルギーや脈動する能力を失い、実質的に “生命を失った” 貧困な水を生み出すものであると確信しました。
このような死んだ水は十分な栄養を生み出すことが出来ず、そんな水の退行的エネルギーのために、進行性の疾患や知能の低下、社会の混乱が生じていると彼は考えました。
また、ヴィクトルは、「放射性→軸性」(求心性※内向きの回転:集中/自然:静か)と「軸性→放射性」(遠心性※外向きの回転:拡散/機械:騒々しい)の動きという二種類のらせん、渦巻運動を区別しました。
「動き」がもっとも重要
「動き」についての洞察は、ヴィクトルの発見の中でも最も重要なものだろう。水は水からの性質の命じるままに、らせん形や渦巻き状になって活発に流れると、建設的な情報を運ぶのに必要な構造を生み出す。これがマイクロクラスターであり、水塊が触れるあらゆるものからたえずエネルギーを受け取り、変換する、振動するエネルギー中枢である。
水はらせん状に渦巻くように転がり回ることが出来てはじめて活力とエネルギーを維持出来ることを知っていた。
本書より抜粋
序章
「私にはもはや自分の心がない。自分の考えすらない。ここまでいろいろやってきたが、私にはもはや何も残されていない。私には未来がないの」
これはオーストリアのであるヴィクトル・シャウベルガーの言葉である。彼は、エネルギーレベルで自然がどのように作用しているかを私たちがまったく知らないがために地球環境の神聖性が奪われていることを示すために、一生を捧げたエコ・テクノロジー(自然と調和する技術)の先駆者だった。彼は、人類は、自然を意のままにしようとするのではなく、謙虚な心で自然を探求し、学ぶことから始めるべきであるという信条をもっていたが、これは世の中には受け入れられにくいものだった。私たちがエネルギーを生産し、消費する方法は、人類の将来を危機に追いやってしまっている。ヴィクトルがめざしたのは、非効率で汚染を生み出す中央主権的なエネルギー資源と動力源に頼らざるを得ない状態から人々を解放することであった。
ヴィクトルは悪夢のような厳しい追及に疲れ切り、テキサスから故郷へ戻る飛行機の中で息子のヴァルターに悩みを伝えていた。自ら開発していた新エネルギー、浮揚力、燃料不要の飛行法が可能であることを実証する装置の秘密を引き出そうと詰問されていたのだ。その五日後の一九五八年九月二五日、彼はオーストリアのリンツで失意のうちに生涯を閉じる。父子は、ヴィクトルの謎めいた研究(第章を参照)の秘密を渡すよう彼を説得するために、おそらくCIAと原子力発電関係者がからんだアメリカの「コンソーシアム」(共同事業体)が立案した、野心的だが問題のある計画に携わっていた。一九四四年に、ヴィクトルは命を脅かされながら、第三帝国のために「空飛ぶ円盤」計画を進めることを強いられていた。この兵器の開発が二年早く開始されていたなら、戦況はドイツ軍優位になっていた可能性もある。
ヴィクトルは、オーストリアの未開のアルプスで森林監視員として働いていたときに、流れの速い渓流の水を詳しく観察して着想を得た。持ち前の鋭い観察力によって独学で技術者となり、やがて、自然が使う内破(implosion、爆縮)的作用、つまり求心的動きを通じて従来の発電機の一二七倍ものエネルギーを引き出す方法をつかむ。一九三七年には、音速の約四倍、一二九〇メートル/秒の推力を生じる内破エンジンを開発していた。一九四一年、ドイツ空軍大将エルンスト・ウーデットから、ドイツで悪化しつつあるエネルギー危機の解決に手を貸してくれるよう依頼を受ける。だがウーデットが死亡し、その後の連合軍の爆撃によって工場が破壊されると、研究は中止される。一九四三年にハインリヒ・ヒムラーが戦争捕虜からなるエンジニアチームとともに新たな秘密兵器システムを開発するよう命じると、ヴィクトルには従う他選択の余地はなかった。
ヨーロッパで戦争が終結する直前に決定的な実験が行なわれた。一九四五年二月一九日にプラハで空飛ぶ円盤が打ち上げられ、三分間で高度一五〇〇〇メートルまで上昇し、時速二二〇〇キロを達成したのであ。五月六日にはその改良型が打ち上げられる予定だったが、その日にアメリカ軍が上オーストリアのレオンシュタインの工場に到着する。ドイツ軍の崩壊に直面した陸軍元帥カイテルは、プロトタイプをすべて破壊するよう命じたという。
ヴィクトルはウィーンのアパートから比較的安全なレオンシュタインに移っていた。そうするうちにロシア軍が東から侵攻してきてウィーンを占領すると、ソヴィエトの特別調査チームはヴィクトルのアパートをくまなく探し、重要論文とモデルをもち去り、アパートを爆破した。
連合軍は、ヴィクトルがこの秘密兵器の開発に関わっていたことを熟知していたようである。戦争終結時に、米軍特殊部隊はレオンシュタインのヴィクトルの家にあった装置をすべて没収し、事情聴取のために彼を九カ月にわたって「アメリカ保護拘置所」に収容する。特殊部隊はできるだけ多くのドイツ人一流科学者を詳細にリストアップし、アメリカの産業と軍事研究を飛躍させるために多数の「敵国の」科学者を連れ帰っていたが、アメリカ側はヴィクトルの一風変わった科学を理解することができなかったらしく、彼を釈放している。アメリカ人はヴィクトルに「原子力エネルギー」の研究をしないよう命じたが、そのおかげでヴィクトルは夢だった燃料のいらない動力の研究が自由にできるようになった。
そのあと九年にわたってヴィクトルは自分の内破研究を続けることができなかったのだが、これは自らの財力ではきわめて進んだ装置に必要となる高品質の材料を購入することができず、スポンサーもいなかったためである。さらに、ドイツのナチス親衛隊に強制されて戦争のための機械を設計したことに対する拭いがたい悔恨もあったのかもしれない。彼は本質的に平和の人であり、何よりも人類が自由になるように役立ちたいと願っていたのだ。そこで彼は地球をもっと肥沃化しようと、実験的に銅性の鋤刃を開発する(第16章参照)。
浮揚力と無抵抗の動き
このような一風変わった人生航路は、かつて第一次世界大戦後にヴィクトルが民間人の生活に戻り、山で働くことになって始まったものだった。手つかずの自然での経験は彼の人生を変えるものとなった。そのような、人類の進路を永遠に変えるために孤独な道を歩むきっかけとなる経験の一つを彼はいきいきと描いている。
早春の、月明かりの照らす産卵期の夜だった。危険な密漁者を捕まえようと滝のそばに座って待ち受けていたところ、何かがすばやく動くのに気づいた。だがそれが何なのかほとんどわからなかった。透き通った水面に落ちた月光は、よどみにいる大きな魚の群れの動きをことごとく照らし出していた。突然、下から大きな魚が滝に対峙するかのようによどみに入って来ると、群れは散り散りになった。その大きな魚は、他のマスを追い立てるかのように体をすばやくくねらせながらあちこちを激しく泳ぎ回った。
その後、大きなマスは突如、溶けた金属のような光沢をもって落ちる巨大な滝の水流の中に消えた。円錐状になった水の流れの下で、一瞬、魚が激しく回転するように舞っているのが見えたが、そのときは、いったいどういうことなのかわからなかった。マスが回転をやめると、みじろぎもせずに上に浮き上がっていくように見えた。滝の下の上り口のところまで来るとマスは体を翻し、自分を強く押し上げて行くような動きで、滝の上部の向こうまでさかのぼって行った。そして速い流水の中で力強く尾を動かすと、姿を消した。
私は考え込みながらパイプにタバコを詰め、吸い終えるまでゆっくりと家路を歩いた。その後もたびたび同じような、マスが高い滝を跳ね上がる動きを目にした。数十年にわたり、一本の鎖に輝くいくつもの真珠とでもいうべき同じような経験を重ねたあと、私はある結論に達したといっていいだろう。だがこの現象を説明できた科学者はいなかった。
うまく光が射していれば、滝のヴェールの中に中空のチューブ状の「浮揚性の流れ(levitaional current)」の通路を見ることができる。これは水がごぼごぼ音を立てて排水溝に流れ込んでできる渦巻きの穴と似ている。この渦巻きは下向きで、吸引力を増しながらあらゆるものを深みに引きずり込む。このような渦巻き、つまり水の竜巻が上へと垂直に生じている状態を思い浮かべてもらえれば、浮揚性の流れの動きをイメージし、マスが落下軸の中を浮き上がっていくようにみえる様子がわかるはず。
ヴィクトルは川で何時間も魚を眺めていることがよくあった。マスが速い流れの中でみじろぎもせずに静止し、警戒すると何の前触れもなく、流れに沿って下流に流されるどころか、上流に泳ぎ去ってしまう姿に惹きつけられた。水のエネルギーポテンシャル〔潜在的に利用可能なエネルギー量〕には温度が重要であることを家族から教えられていたことから、ヴィクトルは実験を思い立つ。一〇〇リットルの水を同僚に温めてもらい、自分は流れの速い川に立ち、その上流約一五〇メートルのところから合図とともに注いでもらった。観察していたマスが興奮し、すぐに、尾ひれを激しく動かすかいもなく、速い流れの中にとどまっていることができなくなった様子に彼は注目した。わずかだが平均水温が異常に上昇し、それによって水流が乱れたことがマスの静止能力を損なっていたのである。この不思議な現象を説明してくれる教科書はないかと探しても、見つけることはできなかった。
彼はこのマスのエピソードを、自らの思想形成にもっとも影響を与えたものとしてよく引き合いに出しているが、それは温度と動きが彼の理論と発見の源泉だったからである。その後、空気と水から直接エネルギーを作り出す発電機を開発したときに、この教師役に敬意を表して「トラウト〔マス〕・タービン」(二一、三二七~三二八ページ参照)と名づけるが、これがあとに「内破マシン」と呼ばれるようになるものだった。
屈せざる者
ヴィクトル・シャウベルガーは、ガリレオからマックス・プランクにいたる過去の先駆者がそうであったように、「専門家」からは疑いの目で見られ、批判を受けた。彼は、人類が神の役割を力ずくで奪い、環境を破壊することによって、自らの天命、過去から受け継いできたものを裏切っているのだと主張した。また人類がまっしぐらに自滅への道をたどっているのを見て取り、およそ三〇年のうちに気候は生存に適さなくなり、食糧源は枯渇し、飲むのに適した水はなくなり、病、悲惨、暴力がはびこるようになるだろうと予言した。
従来の科学者はどうして道を間違ったのだろうか? 自然が働く様子を注意深く観察しなかったためである。そうしていたなら、ヴィクトルのように自然の法則を定式化してそれに従い、人類社会を環境と調和のとれたものにできたはずである。彼がよく言っていたように、「自然を理解し、真似る」ことが重要だったのだ。現代の科学者はそうはせずに、人類は自然より上位に立ち、何ら影響を被ることもなく地球の資源をやりたいように搾取できると考えているのだ。
ヴィクトルは人類の技術がどこで間違ったかをはっきり示している。事態を立て直すためにはどこから手をつければいいのだろうか? もちろん、今のやり方をまったく逆にすることからだ。それには私たちが根本的に生活観を変え、一人ひとりが社会に大きな変革をもたらすよう努力することが絶対的に必要となる。共通の目的のために多くの人間が団結することによって、はじめてこのような変化を起こすことが可能となるのだ。
彼は主流科学を、傲慢で群れたがりの本能に基づくものだと批判した。また科学者についても視野が狭く、ものごとのつながりを見抜けないとこき下ろしている。ヴィクトルは、今日、私たちがよくやるような、世界の悲惨さの責任を政治家たちに求めることはしなかった。政治家というものはそもそも日和見主義であり、制度の手先であると考えていたのだ。ヴィクトルが世界を危険な状態にしたと責める相手は、自身の敵、彼の言うところの「技術・学術界」の科学者たちであっ。
預言者や先駆者の存在は、どんな分野であれ、必然的に既存の体制にとっては異議申し立てに映る。彼らが、現状からうまみを得ている人間たちの利益を脅かしかねないからである。関わってくる利害が大きいほど誹謗中傷の声は大きくなるようである。このように、おそらくもっとも排他的で傲慢な学問分野として、科学は歴史を通じてコペルニクスやケプラー、ガリレオ、現代では生物学の先駆者、ジェームズ・ラヴロック、ルパート・シェルドレイク、メイワン・ホーにいたる偉大な改革者の足を引っ張ってきたのである。
途中までしか教育を受けていなかったにもかかわらず、あるいはおそらくそのために、ヴィクトルにはつねに知識に対する大きな渇望があった。徹夜したり、あらゆる種類の、とくに難解な種類の本を大量に持ち込むことが妻の目には家庭を乱すものに映った。ヴィクトルが、自分は天命を受けているのだと感じていたことは疑いない。それは、ヴィクトルが、夢うつつで書いた文章を、われに返ったあとに読んでひどく驚くことがしばしばあったことからも明らかである。
ヴィクトルは揺るぎない自信をもっており、自身の理論は実現させることができると心の底で確信していたため、当然のように正統科学界とは終生闘い続けることになった。ヴィクトルの思想の研究家カラム・コーツは、ナチス時代に彼が謀略に巻き込まれるのを幸運にも免れたエピソードを記してい。だが彼には力強い支援者もいた。いずれも欲得でなびいたり嫉妬に揺れたりしない、独立した精神をもった数少ない科学者である。その中の一人、スイス人のヴェルナー・ツィマーマン教授は著名な社会運動家であり、エコロジーを編集方針とする雑誌「Tau」にヴィクトルの論文を載せたこともある。ウィーン大学の物理学教授、フェリクス・エーレンハフト(三三八ページ参照)は、ヴィクトルの内破マシンに関する計算を手伝っている。三人目のフィリップ・フォルヒハイマー教授(一四二ページ参照)はとても忠実な友人で、学者として世界的な名声のある人物だった。
ヴィクトル・シャウベルガーについては、水に関する独創的アイデアを思いついた人、あるいは「生きている水」が内包する莫大なパワーを動力源に利用する省エネルギー装置を作った人としてしか知らないという人がほとんどだろう。たしかにその業績は根本的で重要なものであり、エコロジーの先駆者としてのヴィクトルの評価を裏づけるに足るものであった。だが私たちには、人類が地球に与えた損傷を回復するという、よりスケールの大きい難問があり、その懸念を解消するため、自然がどのように働いているのかという一段広いヴィクトルの世界観を示すことが必要になってくるのである。
ヴィクトルの息子ヴァルターは、父と違って科学の正式な教育を受けており、一時、大学で物理学の講師もつとめ、父の着想が主流科学にとっても理解しやすいものとなるように精力的に活動した。一九五〇年にイギリスの多くの一流大学を講演して回り、一流科学者の何人かに父の物理学をどう思うかと訊ねたところ、ヴィクトルの理論は非常に説得力があるということで彼らの意見は一致した。問題は、「世界のすべての教科書を書き換えなければならなくなる」のではないかということだっ(三四一~三四二ページ参照)。
もう一つの世界観
ヴィクトルは主流科学界からの悪意に大いに苦しめられた。ヴィクトルが科学界に対したえず不満を漏らしていたために、彼のもっとも重要なメッセージは見えなくなってしまっている。そのメッセージは、科学界の傲慢自体よりもはるかに重要なものである。そのメッセージとは、私たちの文明全体が、どこまでも世界を物質的にとらえるという世界観に囚われてしまっているということである。私たちは、一見やりたいことを自由に何でもできるという興奮、多くの富と娯楽をわがものにできるという魅力のとりことなっている。現在の科学はこのような世界観の産物にすぎないのであり、哲学、教育、宗教、政治、医学もそうなのだ。陰謀説にするまでもなく、私たちの社会のあらゆる側面が、世界の秩序と生態系の崩壊につながる重大な間違った思い込みから痛手を被っていることがわかるはずである。
真の問題は、一七世紀後半の知的運動、つまり啓蒙運動とその科学版である理性主義が人類社会に大きな裂け目を作り出してしまったことにある。哲学者ルネ・デカルト(「我思うゆえに我あり」で有名)の責任は重大である。この運動によって、人間は自分を偉いものと勘違いし、人間性という概念を自然から切り離す発想が生まれ、あらゆる自然現象を的発想〔基本的原理によって具体的な事物を理解する推論手法〕で解釈するようになったのである。その結果、経験と思考が、感情と理性が切り離されることになってしまった。私たちの文明では科学的決定論が幅をきかせているために、直感的なものの見方はうさんくさく見られるが、社会のあらゆるレベルで、自分の直感に正直でありたいと望み、理性主義は実は「大いなる迷妄」だと感じている人のあいだに、新たな覚醒が起こりつつある。
私たちは、従来の、一般に認められている現実には収まりきらない経験を日々重ねているものだ。たとえばちょっとした偶然の一致、虫の知らせ、人、状況、場所が発するさまざまな「雰囲気」の感覚、思考が行動に与える影響、ペットとのやり取りなどである。そんなことを気の合う仲間と話していると、自分たちが共犯者で、思想警察が捕まえに来そうなタブーについて話し合っているように思えてくる。このような現象は、「心霊」体験のような、ピントの外れたものと片づけられるのがせいぜいのところだろう。自分たちの生活の大切な部分を「意味あるもの」にする方法や枠組みがないがために、私たちは道に迷ってしまったのだ。そんな経験は従来の通念では扱えないものなのである。
ヴィクトル・シャウベルガーは、理性主義の制約にとらわれない自然のプロセスの研究を、科学的に検証可能な枠組みにあてはめた先駆者の一人である。彼は、科学的、宗教的、哲学的な独断に陥ることなく、先に挙げたような経験も扱える「」の世界観を描くことによって、世界における人類の位置についての理解の枠を広げた。自然の働き方を理解することで、私たちは自分の経験をはるかに広く、より刺激的な世界観に結びつけることができるようになるのである。『沈黙の春』(邦訳、新潮社)によって環境運動の先駆者という評価を得ているレイチェル・カーソンは、多国籍企業を相手に闘う勇敢な女性だった。ヴィクトルは従来の世界観に立ち向かっているという意味でさらに勇敢なのだ。
変化を実現するためには、世界の見方(環境政策を含む)を根本的に変える必要がある。ヴィクトルの警告の正しさは証明されただろうか? 彼の早すぎる死から四五年以上がたつが、その予言の多くは、彼が見越したよりも早く現実のものとなっている。二〇〇一年九月一一日以前には、環境に配慮しようとする機運は、ゆっくりとではあっても定着していくだろうという希望が多少なりともあった。人類が地球の大気のバランスを危機的なまでに崩したこと、また人類の優先順位を早急に消費から持続に変える必要があることについて認識が広がりつつあった。今や時計の針は三〇年分逆戻りし、破局的な気候変動を回避するために避けて通れない二酸化炭素排出量削減の実施などについて、合意することすらできないありさまである。
ヴィクトルの認識は、人類の文明がどこで間違ったかを理解するための重要な手がかりであり、としての人類の未来は、彼が再発見した自然のプロセスとのつながりを取り戻せるかどうかにかかっていると私たちは感じている。だから自然がどのように働いているのか、人類社会がどこで間違ったかについてヴィクトルが考えたことを二一世紀の文脈でとらえ直し、彼の洞察から何が学べるかを考えるべきなのである。
私たちが現在置かれている状況を語った次のコメントに見られるように、ヴィクトルは彼ならではのやり方で人類文明を批判している(『我らが無益な骨折り----世界の危機の源 Unsere sinnlose Arbeitム Quelle der Weltkrise』、一九三三年)。
人間には何でも自分に引きつけて考える癖がついてしまった(人間中心主義)。その過程で私たちは、真実とはとらえがたいものであること、そしてその真実について、無意識のうちにたえず形式化を行なおうとする頭脳が判断を下していることがわからなくなっているのだ。あとに残されるのは、ほとんどが苦労のすえに脳に刻みつけられたようなものであり、私たちはそんなものにしがみついているのだ。邪魔されることなく、自由に思考を羽ばたかせるにはあまりにも悪条件が多い。このため、この手の理解から生じる活動は必ず排泄物をこねくり回すようなものになって、その臭気は天まで立ちこめてしまう。なぜなら、そもそもの活動のおおもとがすでに腐っているからだ。こんな具合にあらゆるところであらゆるものが間違っているのも、驚くにあたらない。真実は、全知全能の自然のうちにだけ存在するのだか。
ヴィクトルは、現在の人類文明は自然の創造的エネルギーを破壊するものなので、社会には暴力がはびこり、堕落が進むことになるだろうと予言している。自然が私たちに何を求めているかに耳をすませるなら、見た目にも明らかに悪化した状態をもとに戻し、少しずつ人類社会にバランスを取り戻し、やがては自然と歩調を合わせて生きていけるようになるのだろうか?
しかし、自分たちが物質的な達成の頂点にいると思うような傲慢さの中でも、人類の魂は再び覚醒しつつあり、自分たちが生まれてきた自然とのつながりを取り戻すべきだという強い欲求が再び生まれつつある。本書の目的はこの流れを強め、育むことにある。
「自然の科学」に向けて
イギリス国民の大多数は食物の遺伝子組み換え(GM)に反対しているが、これはGMが自然に反するものであることを心の底で知っているからである。GMを普及させる政策は、言いなりになる政治家を味方につけた大企業が利益を上げるために推し進めているものである。GMを正当化しているのは何よりも、自然というものは、人類が当然手にできる利益のために操作し、搾取するために存在しているのだという実利主義的世界観をもつ科学なのである。明らかに説明責任は問題とされないのだ。
二〇〇三年にイギリスでGMをめぐって全国的に議論が行なわれたが、そこで明らかになったのは、人類が地球に対してやりたい放題をできるという考えの傲慢さに多くの人が深く懸念を抱いているということである。だが人々には反論するために拠りどころとすべき科学がないのだ。必要とされているのは、現在、学校や大学で教えられている、方向を誤った科学にとって代わる「」なのである。地球には全能なるものとしての自然が存在しているという、ホリスティック(全体論的)な視点に立って事を進めていく必要があるのだ。自然の法則は人類をも支配しているのだが、私たちはそれを軽んじて自分たちの立場を危うくしている。自然とは、私たちが謙虚な心で共存することを学ぶべき対象なのである。
こうした自然の法則とはどんなものなのだろう? どうすれば人類の立場と、人類に求められていることが何なのかを知ることができるのだろう? ヴィクトル・シャウベルガーは優れた「自然の科学」の教師であった。ほとんど誰もやっていないことだが、彼は、意識の進化の核心にある驚くべき、そして複雑なプロセスによって、自然の働きを描写し、説明しているのである。
現時点で彼のことを知っているのは、環境問題、有機栽培、代替エネルギー源の開発に関心の高い、ホリスティックな意識をもつ少数の人たちだけである。ヴィクトルについて書かれた文献は、あまり興味のない人には読み進みにくいものも多い。本書はカラム・コーツがヴィクトルの研究について記した独創性に富んだ書物『生きているエネルギー----ヴィクトル・シャウベルガーの理論に関連した諸概念の解説』(Living Energies: An Exposition of Concepts Related to the Theories of Viktor Schauberger) 』を参考にしている。
現在人類が置かれているエコロジー的苦境を理解しようとするときに、ヴィクトルの洞察がいかに不可欠なものなのかをより多くの読者の方に知っていただくために、専門的になりすぎないようにした本書が役立つことを願っている。新世紀を迎えた今、非常に限定的で欠点だらけの機械論的・決定論的な世界観と、スピリチュアルな要素をも含んだ全体が驚くべきかたちで、たがいに精妙につながりあっているというホリスティックな生命観とのあいだで、激しい思想的対立が生じることになるだろう。
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