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【見神論】予が見神の実験/綱島梁川【現代語リライト版】

この文章は、宗教的な経験に深い理解を持つ人に向けたものではなく、真に神を求め、宗教的な生活に入ろうとする多くの仲間たちに伝えたいという意図で書かれている。

自分自身の「神を見た」経験について語ろうとしている。これを語ることは、正直に言って少し気が引ける。だが、世間の一般的な心配や迷いをすべて捨て去り、できる限り忠実かつ明確に、見たことを語らずにはいられないという使命を感じている。単に自分の体験を世に広めたいわけではなく、むしろ、鈍い心と劣った資質の自分がそれでもこの稀有な心証を得られたことの喜びと、感謝の気持ちを抑えきれないのだ。さらには、神を求めながらもまだその声を聞けない人々、ひそかに心の苦悩に泣く人々、迷いや悩みに苦しむ人々、人生の問題に悩み傷ついているすべての仲間たちに、自分が見たものをそのまま分かち合いたいという気持ちがあるのだ。天も見守ってくれているだろうと信じ、今、この貴重な知らせを伝えるために立ち上がった。

自分の体験をそのまま伝えることは、実に難しい。神を見た時以来、この重大な経験を世に伝えたいという気持ちは日々強くなってきたが、それをどう表現すればよいかについては、なかなか良い手段が見つからなかった。自分が得た体験の意識は非常に深く、奥深いもので、普通の言葉や考えではとても表現しきれない。世間の言葉や思想は、神秘的で具体的な体験のほんの一部を再現することすら難しいように思う。こうしたことを考え、何度もためらい、何度も気持ちがくじけた。しかし今、自分がこの経験について語ろうとしても、人を混乱させる結果にしかならない理由がわかった。

神の存在が現れる感覚や心の中に神が宿るという感覚、または自我が高揚し、内なる光を感じるという意識については、過去にも何度か経験してきた。ただ、その中でも特に鮮明で強烈な印象として心に残る体験はほとんどなかった。このような体験が起こり始めたのは、昨年37歳の夏以降のことだ。今後のことはわからないが、少なくとも昨年の1年は、自分の宗教的な生活の歴史において「光の時代」「啓示の時代」とも言うべき特別な時期であった。昨年1年の間に、今まで感じたことのない特別な光明を三度も体験することができた。そして、その最後の体験が最も驚くべきものだった。

最初の体験は、昨年7月のある夜の真夜中に起こった(正確な日付は忘れてしまった)。病のために毎晩のように真夜中に目が覚め、1時間ほどじっと床に座る習慣がついていた。その夜もいつものように目が覚め、床に座っていた。部屋はしんと静まり返り、澄み渡った夜空のように清らかな気配に包まれ、心には一切の曇りがなく澄み切っていた。その時、かすかに心の奥に湧き出すような歓喜が感じられ、徐々に意識全体を支配するようになった。この一種独特の意識、現実の世界の喜びとは異なる孤高の静かな歓喜が15分ほど続いたと思うが、やがて薄れていった。(この体験については、別の著作『病間録』の「宗教上の光耀」という一節にも書いているが、これまでに似たような経験をすることはあったものの、この夜のように純粋で充実したものは初めてだった。)今もなお、この夜の体験を完全に理解しきれてはいないが、当時の心の状況を思い返すと、天上の生活の片鱗を地上で垣間見たように感じる。

二つ目の体験は、昨年9月末の出来事であった。久しぶりに家からそれほど遠くない温泉に行こうと、家族に手助けされて家を出た。その時、澄み渡る秋空の下で、郊外の森が夕日を浴びて輝いているのが見えた。その景色に心が躍ると同時に、突然、天地の神と共にこの壮大な景色を眺めているという意識に打たれた。その一瞬の意識は単なる幻想ではなく、理性を超越した新たな啓示であると直感的に感じられた。今もその瞬間を振り返ると、神と共に景色を眺めたというあの意識を批判することはできない。

最後に語るべきは、驚きと衝撃に満ちた体験である。これまでに神の存在を感じた中で、これほど新鮮で光り輝き、鋭く心に響くものはなかった。この体験は今でも鮮やかに記憶に残っており、その壮大な超越性に驚くばかりだ。当時、その光景を友人に手紙で伝えた内容の一部を以下に示す。

突然のことだが、以前話した夜の体験以来、驚きと喜びの余韻が続いており、一種の霊感のようなものが今も心の中に残っている。そのため、体にも何らかの影響があるのを感じた。あの出来事以来、神に対する愛慕の念が一層強くなった。どうすればこの自覚を他人に伝えられるのか、これが今の唯一の問題だ。

兄よ、小生のように批評的で学究的な精神を持つ者が、いかにも東洋的で中世的とも言える神秘的な体験をするとは、非常に不思議なことに思わないだろうか。自分でも体験後数日間は狐にでもつままれたような感覚だった。しかし時が経つにつれ、この体験に基づく自覚はますます確かで明瞭になり、その驚くべき事実が揺るぎない真理となって輝きを放つようになった。今では、もはや一点の疑いもなく、動かしようもない心の事実となり、力強い支えとなっている。

この体験が起こったのは、昨年11月のある夜、午後11時頃であった。この出来事については、もはや言葉を尽くしても説明することができない。いかに巧みな言葉を用いても、ここに書き記した以上のことは伝えきれないと感じている。真理はシンプルである。真理には、真理自身が語られるべきだ。言葉が多すぎると、真理そのものを曇らせてしまうものだ。

とはいえ、この「神を見た」という意識について、もう一つ述べておかねばならないことがある。それは、私が「我が我ならぬ我となりたり」や「霊的活物と行き会った」といった表現が、もしかすると不正確で曖昧ではないかと感じたからだ。そこでこの体験を最も厳密に表現するとすれば、筆を取っている私自身がふとした瞬間に天地の深奥なる実在と一体化したという感覚だった。自我は消え去り、神自らが筆を取っていると感じた瞬間である。これが、自分が意識した超絶的な体験の真髄であり、最も厳密な表現であると思う。この体験をこれ以上、あるいは別の表現で描き出す方法を知らない。私はこのようにして神を見た。いや、「見た」という言葉も外面的すぎて、この瞬間の意識を完全に表すには不十分だ。この瞬間は神と自我が溶け合い、一つに合一したのだ。その瞬間、私はまさに神の存在と一体化したのである。

振り返れば、以前の宗教的な信仰は、自己の内なる体験から生まれたものではなく、キリストや他の聖者たちの偉大な人格に依り頼んで築き上げたものが多かった。他者の意識に依存して神を見たつもりになり、神の愛を感じたと信じていた。つまり、他者の声や意識に引き寄せられていたのだ。しかし、内面の生活に深く没入するうちに、過去の偉人たちの証を捨て去り、自らの心から神の声を求めるようになった。そして神は確かに私の心の奥に存在し、その光明に心が震えることを幾度も感じた。その神はもはや昔の習慣や偶像、抽象的な理想などではなかった。しかし、これまでの神にはまだ一枚の薄いベールがかかっているようで、完全には把握できていなかった。それは水面に映る花のように朧げであった。

過去の宗教体験が無意味であったとするつもりはない。すべての経験を大切にしている。それらはその時々の心の状態に応じて神を見た、真実である経験として私の宗教生活において一つの鎖を形成している。とはいえ、それらの体験を揺るぎない信念の基盤とするには、まだ何か欠けていると感じざるを得なかった。過去の神の経験は、たとえるなら春の夜の闇の中にかすかに香る梅の匂いのようなもので、確かにそれと感じるものの微かなものであった。しかし今やそれは違う。天地の神が、目の前に実体として現れ、明るく輝く昼間のようにそこにいたのである。

見、信、行の三つは宗教生活における三大要素であり、互いに支え合っている。自らの体験を通して、特に「見る」という要素が重要であると感じる。人は「見」と「信」を対立させがちで、信の意義に重きを置き、「見る」ことを説く者は少ない。しかし私は信じる。真の信念の根底には常に神を見た体験があることを。神を真に見ずして、真に信じることはできない。キリストの信仰も神を見、その声を聞いたことから来ている。見神なくして信仰は盲信や外見的な信仰となり、内面には支えがない感覚が生じてしまう。見ずして信じることは幸せであるが、見て信じることはさらに幸せである。

自らの見神の体験が迷信に基づいているのではないかと疑い、この体験の後、何度も理性の目で検証した。しかし、理性が最終的にこの体験を是認し、それ以外に挟む余地がないことを知った。

ああ、自分が見て感じたことは、すべてこのようなものである。もしかすると、自分の体験をあまりに急いで語りすぎた部分もあるだろうし、言葉が多すぎて内容がはっきりしなかった部分もあるかもしれない。それは私の文章力が至らぬところとして理解してもらいたい。今もなお、この体験の表現に心を尽くしている。とはいえ、私はこのようにして神を見たことで、天地のすべてに代えがたい栄光ある「私は神の子である」という意識が内から湧き上がってくるのを感じている。

私は宇宙の中における自分の真の地位を自覚した。私は神ではないし、自然の一部として流される存在でもない。私は「神の子」であり、天地や人生を運営する神の子なのだ。なんと崇高な自覚だろう。この一つの自覚の中には、救いも解脱も、光明も平安も、さらには人生のすべての意味が統合されているのではないか。ああ、私は神の子なのだ。神の子らしく、神の子としてふさわしく生きねばならない。この新たな義務の世界が、自分の前に広がっているのを感じている。

だが振り返ってみると、私は敗残の身であり、枯れた体で、外に一歩も出られないような状態にある。この境遇で一体何ができるだろうかと、矛盾に涙を流したこともある。しかしその時、「この世にある限り、最善を尽くせ。神を見た者は決して死なない」という力強い声が聞こえたのだ。内から新たな力が湧き上がり、充実してくるのを感じた。私が見た神は、いつも私と共にいて、見えざる手で私を支えてくれているのだ。
(明治三十八年五月)

出典:青空文庫


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