【ハスモン朝~ヘロデ朝】新約聖書・キリスト教の研究-12/#148
紀元前167年ごろ、ユダヤはセレウコス朝シリアの支配下にあったが、信仰の自由を奪われたことでユダヤ人の間に強い反発が広がった。これが「マカバイ戦争」と呼ばれる独立戦争の火種となる。
英雄となったのがマタティアスとその息子たちで、特にユダ・マカバイは有名だ。彼らはゲリラ戦を駆使し、やがてセレウコス朝の大軍を打ち破り、ユダヤの独立を勝ち取った。これがハスモン朝の始まり。
ハスモン朝は、ギリシャ的な支配から脱却してユダヤの自治権を得た王朝だが、その内部では権力争いが絶えなかった。貴族と宗教家、さらには異なる政治勢力が絡み合い、内乱が頻発していた。この不安定な状況を利用したのがヘロデ大王だった。ヘロデはエドム人、つまりユダヤ人から見ると「外来者」だったが、彼はローマとの強いコネクションを持ち、巧みにその支持を得た。
ローマ帝国の後押しを受けたヘロデは、紀元前37年にハスモン朝を倒し、王位に就いた。彼の治世は、建築プロジェクト(有名なのはエルサレム神殿の再建)や経済的な発展で知られるが、同時に独裁的な支配と家族間の血なまぐさい争いでも悪名高い。聖書に出てくる「幼児虐殺」のエピソードも、彼の残忍な統治の一部として描かれている。
ヘロデの死後、彼の王国は息子たちの間で分割され、ローマの属州化が進んでいく。これが、イエスの時代の政治的背景を形作る。イエスが活動したユダヤは、もはや独立した王国ではなく、ローマの支配下でローマ総督によって統治されていた。
ハスモン朝とヘロデ朝の歴史を知ると、聖書の舞台となるユダヤ社会がいかに複雑であったかがよくわかる。この混乱した政治状況が、イエスの教えや彼を取り巻く出来事にどのように影響したかを理解する手がかりとなる。まさに、聖書をより深く読み解くための重要な背景である。
ハスモン朝の成立と滅亡
アレクサンダー大王の東征とペルシアの滅亡
紀元前336年、父フィリップ2世の後を継いで若くしてマケドニア王に即位したアレキサンダーは、すぐさまギリシア全土を掌握した。紀元前334年には、歩兵3万、騎兵5,000を率いて東方遠征を開始し、地中海の制海権を確保するためシリアへ南下。シドン、ツロ、ガザを征服し、紀元前332年にはエルサレムに到達した。
その後も勢いは衰えず、エジプトへ進軍し、メンフィスを攻略した後、自らの名を冠した新都市「アレキサンドリア」を建設。翌年の紀元前331年、軍を再編してサマリアとシリアへ戻り、ペルシア軍を撃破。バビロンを陥落させ、スサに進軍した。ペルシア王ダリウス3世は逃走し、これによりアケメネス朝ペルシア帝国は滅亡した。東方世界を制覇したアレキサンダーは、さらにインダス川を越えインドにまで軍を進めたが、紀元前323年、32歳という若さで夭折した。
大王の死と領土の分割
アレキサンダー大王が征服した広大な領土は、彼の死後4つに分割され、エジプトはプトレマイオス家、シリアはセレウコス家の支配下に置かれた。
大王の死後、プトレマイオス家とセレウコス家はパレスチナの支配を巡って争いを始め、これによりユダヤ人は次々とエジプトへの移住を進めた。
多くのユダヤ人はアレキサンドリアに集まり、その結果、アレキサンドリアは紀元前320年頃には「ユダヤ人居留地」として指定されるまでになった。しかし、パレスチナに残ったユダヤ人も多くいた。
最盛期には、アレキサンドリアの市民の約半数がユダヤ人だったとも伝えられている。この時期、旧約聖書のギリシア語訳が進められた。アレキサンドリアの図書館で70人の学者が70日間で翻訳したという伝承があり、このため「七十人訳聖書」と呼ばれる(紀元前250年頃)。
実はこの時代、すでに多くのユダヤ人がギリシャ文化に深く影響を受けていて、ヘブライ語を忘れてしまった人がかなりいた。彼らの多くは、ヘブライ語を読み書きできなかった。そこで、ユダヤ人に聖書を学ばせるために、聖書をギリシャ語に翻訳する必要があった、というのが真相である。
マカベア戦争とユダヤ独立王朝ハスモン朝の成立
パレスチナ地方は、エジプトのプトレマイオス朝とシリアのセレウコス朝の勢力争いの中で、微妙な均衡状態にあった。しかし、紀元前198年、シリアのアンティオコス3世がパネアスの戦いでプトレマイオス5世を打ち破ると、この地域はセレウコス朝の支配下に入る。アンティオコス3世の統治はユダヤ人に対して比較的寛容な政策をとっていたが、次に王位を継いだアンティオコス4世・エピファネスの時代には事態が一変する。
紀元前168年、アンティオコス4世はエジプト遠征に失敗した後、その戦費を賄うためにエルサレムのソロモン神殿の財宝を略奪した。さらにエルサレムの丘にシリア軍の守備兵を配置した城塞を築き、親ヘレニズム派の人々をそこに住まわせた。そして翌年、彼はユダヤ人に対する徹底的な宗教弾圧を開始した。彼はユダヤ教の聖典を焼き払い、安息日や割礼といったユダヤ教の律法を守ることを禁止し、ソロモン神殿にギリシャの神ゼウスの像を設置して、その礼拝を強要した。また、国内各地にゼウスの祭壇を建て、人々にゼウスを崇拝させることを強制したのである。これにより、ユダヤ人に対する史上最大級の宗教的迫害が行われた。このような状況を前に、ユダヤ人たちは黙って見過ごすことはできなかった。反シリア、反ヘレニズム化の機運が高まり、ユダヤ教の独立と信仰を守ろうとする動きが次第に強まっていった。
反乱は小さな村モディンで勃発する。ハスモン家の祭司マタテアが、ゼウスに捧げ物をしようとしたユダヤ人とそれを監視していたシリアの役人を殺害し、これが反抗の火種となった(紀元前167年)。その後、マタテアは5人の息子たちや支持者を引き連れ、ユダの荒野へと逃れて徹底抗戦を展開し、この反乱は瞬く間にパレスチナ全土に広がっていった。
紀元前166年にマタテアが亡くなると、彼の三男ユダ・マカベアが反乱軍の指揮を継承した。ユダは卓越した戦術でゲリラ戦を重ねて勝利し、その結果、この反乱は「マカベア戦争」(紀元前167~162年)と呼ばれるようになった。彼の軍事的成功は目覚ましく、シリア本国から派遣される軍を次々と撃破し、ついにエルサレムを解放するに至った。さらに、彼はイドマヤ、ギレアデ、ガリラヤといった地域に遠征し、異邦人支配下にあったユダヤ人たちを解放していった。
ユダ・マカベアが死去した後、弟のヨナタンが指導者の座を引き継ぐ。当時、シリアは内部で権力争いが激化し、政治的混乱に陥っていたが、ヨナタンはこの混乱を巧みに利用し、シリアの王から「大祭司」の地位を授けられる。しかし、この任命は伝統的にザドク(サドク・ツァドク)家の血筋に限られていたため、熱心なユダヤ教徒たちからは反発を受けることになった。
やがて、ヨナタンが率いるハスモン家が政治的権力を追求し始めると、これまで共に戦ってきたユダヤ人たちの間に失望が広がり、次第にハスモン家から離れる者が増えていった。ヨナタンの死後、兄でありマタテアの次男シモンが大祭司の地位を受け継ぐ。紀元前143年、シモンは巧みに領土を拡大し、ユダヤを実質的に独立した王朝へと再生させた。この王朝は「ハスモン朝」として知られる。
シモンがシリアからの政治的独立を果たした時点で、ハスモン朝が本格的に始まったと言える。政治的独立が実現したことで、新たな時代が幕を開けた。シモンが大祭司であった頃、ユダヤ人たちは独立を勝ち取るための「一時的な措置」として、大祭司という地位をある程度受け入れていた。彼らにとって大祭司の存在は、政治的安定を得るために必要な手段であり、仕方がないものだと考えていた。
しかし、シモンの後継者としてヨハネ・ヒルカノス一世が大祭司の地位を世襲することになり、この状況は一変する。世襲制に対して多くの民衆が強く反発した。たとえば、共産主義国家の北朝鮮で「なぜ世襲なんだ?」と疑問を抱くような感覚に似ている。あり得ないことがユダヤ人たちの目の前で起こったのだ。この出来事を契機に民衆はハスモン家に対して大きく反感を抱き、その結果、ハスモン家の世襲に対する批判が広がる。これが、パリサイ派とサドカイ派の分裂に繋がっていく。
ハスモン家の世襲とパリサイ派・サドカイ派の分裂
大祭司職は本来、宗教的なリーダーシップを象徴する重要な地位であり、神に仕える者としての純粋な権威が求められていた。しかし、ハスモン家は政治的権力を握るために、大祭司職を家系で世襲するようになった。これに対して、パリサイ派は大祭司職を権力維持の道具として利用する姿勢に強く反対した。パリサイ派は律法を厳格に守ることを重視し、世襲制によって大祭司職が汚されることを嫌った。
一方、サドカイ派はハスモン家の支配を支持した。彼らは、ハスモン家がエルサレム神殿を掌握し、祭司職を通じて宗教的な権力を保持することに利益を見いだしていた。サドカイ派の支持層は主に富裕層や貴族階級であり、彼らにとってハスモン家の統治は政治的・経済的安定をもたらすものだった。
ヨハネ・ヒルカノス一世の後継者たちが引き続き大祭司職を世襲すると、パリサイ派とハスモン家の対立はさらに深まる。特にヨハネ・ヒルカノスの息子、アリストブロス一世やアレクサンドロス・ヤンナイオスの時代には、ハスモン家は王としての権力も手に入れ、世襲制をさらに強固なものにした。
アレクサンドロス・ヤンナイオスの時代には、パリサイ派とハスモン家の対立が最高潮に達した。彼はパリサイ派に対して非常に敵対的であり、彼らを弾圧した。この時期、パリサイ派はハスモン家の支配に対する大規模な反乱を起こす。結果として、ユダヤ社会は内部で大きく分裂し、パリサイ派とサドカイ派の対立は宗教的な問題から政治的な問題へと発展していった。
最終的な対立の深化
ハスモン家の世襲が固定化されるにつれ、パリサイ派はこれを受け入れることができず、彼らの支持基盤である一般民衆もハスモン家に反感を抱くようになる。パリサイ派はハスモン家の政治的・宗教的権威に疑問を投げかけ、独自の律法解釈を通じてユダヤ教の正統性を守ろうとした。
一方、サドカイ派は引き続きハスモン家を支持し、エルサレム神殿での宗教的権威を保とうとした。ハスモン家にとってサドカイ派は重要な支持勢力であり、両者は相互に利益を共有していた。
ハスモン家の権力集中と世襲制は、パリサイ派の反発を引き起こし、最終的にはユダヤ社会全体を二つの勢力に分裂させる原因となった。
アリストブロス一世:サロメ・アレクサンドラ:アレクサンドロス・ヤンナイオス
アリストブロス一世は、大祭司でありながら政治的な権力を握るため、母親や兄弟を牢獄に放り込んだことで知られている。彼は紀元前104年に大祭司の地位に就くが、翌年には病死してしまう。その死に方は、まるで呪いがかかったようだ。彼の母は獄死し、兄弟たちは牢に閉じ込められたままだった。
彼の死後、妻であるサロメ・アレクサンドラは、アリストブロス一世の弟であるアレクサンドロス・ヤンナイオスを釈放し、結婚する。そして、アレクサンドロス・ヤンナイオスが王位に就く。彼の死後は、サロメ・アレクサンドラが実質的な権力を握り、紀元前76年から67年までの約10年間、彼女が事実上の統治者として振る舞った。彼女の支配が実質この時代の政治を動かしていたと言っていいだろう。
彼女の死後、ローマがこの跡目争いに干渉し始めるようになる。もともと大祭司の地位にあった兄ヨハネ・ヒルカノス2世が王位を継いでいたが、弟のアリストブロス2世が武力でこれを奪った。この時、ヒルカノス2世に仕えたのがイドマヤ人の武将アンティパトロス(ヘロデ大王の父)であり、彼を支えたのはローマの援助だった。ローマは背後でしっかりとヒルカノス2世を支持していた。この兄弟間の対立が、結果的にハスモン朝の衰退を早めることになる。
一度は王位を失い、大祭司の座も剥奪されたヒルカノス2世だが、アンティパトロスの支援を得て勢力を回復し、エルサレムに向かってアリストブロス2世と決戦する構えを見せる。しかし、その時に中東へ進出してきたローマの将軍ポンペイウスがユダヤに到達する。兄弟双方はローマの支持を得ようと競って接触を試みたが、ポンペイウスは有能なアリストブロス2世を危険視し、無能で傀儡として操りやすいヒルカノス2世を選んだ。そして、アリストブロス2世はローマに連行され、ヒルカノス2世は再び大祭司の座に復帰することとなった。
日本の政治も同じ構図。アメリカの傀儡としてふさわしい人物が選ばれるのだ……
ローマの影響が強まる中、ハスモン朝の支配は形骸化していたが、ヒルカノス2世はローマの後ろ盾を頼りにかろうじて王位を保っていた(在位:紀元前63年 - 紀元前40年)。しかし、その後、東方から勢力を拡大してきたパルティアと手を組んだアリストブロス2世の息子アンティゴノスに捕らえられ、王位を奪われてしまう。
アンティゴノスはパルティアの支援を受け、父の復讐を果たすと共に、王と大祭司の地位を手中に収めることに成功した。彼は紀元前40年から紀元前37年までユダヤを支配し、ユダヤの二大称号である王と大祭司を兼任した最後の人物となった。
一方、ヒルカノス2世を支えていた武将アンティパトロスの息子ヘロデ(後のヘロデ大王)はアンティゴノスに命を狙われるも、辛うじて逃亡に成功し、ローマに渡って支持を得ることに成功した。ローマに認められたヘロデは、マルクス・アントニウスが指揮するローマ軍と共にユダヤへ帰還し、パルティア軍を追い払い、紀元前37年にアンティゴノスを打ち破ってユダヤの王となる。捕虜となったアンティゴノスは処刑され、これによりハスモン朝は滅亡し、ヘロデ朝が始まった。
ヘロデ朝の成立
系図には同名の異なる人物が登場する。そのため聖書の理解には系図が必要である。
ヘロデ王の子供たちやその子孫で、「ヘロデ」を冠する人物は、新約聖書の中に複数登場する。以下は聖書に記されている彼らの記述と、ヘロデ大王との関係だ。
ヘロデ・アルケラオ
ヘロデ大王が死んだ後、アルケラオが父の跡を継いでユダヤの統治者となった。ヨセフは夢でこのことを知り、ナザレに行くことを決める。
アルケラオはヘロデ大王とその妻マルタケの息子。ヘロデの死後、ユダヤの分封王として一時的に統治したが、残虐な統治のためローマに追放される。
ヘロデ・アンティパス
ヘロデ・アンティパスはガリラヤとペレアの領主であり、洗礼者ヨハネを捕え、彼の首をはねた。また、イエスがピラトに送られた際、イエスに会って嘲弄した。アンティパスはヘロデ大王とその妻マルタケの息子。ガリラヤとペレアの領主として、洗礼者ヨハネの処刑を命じたことで有名。
ヘロデ・フィリポ
ヘロデ・アンティパスの異母兄弟であるフィリポの妻ヘロディアが、アンティパスと再婚したことが物議を醸した。アンティパスとヘロディアの結婚は洗礼者ヨハネによって批判された。ヘロデ・フィリポはヘロデ大王と彼の妻マリアンメ2世の息子。
ヘロデ・フィリポ2世
ヘロデ・フィリポ2世はイツリアとトラコニティス地方の領主として、ローマの支配下で統治した。ヘロデ・フィリポ2世はヘロデ大王と彼の妻クリオパトラの息子。彼は兄弟たちの中でも比較的平和的な統治を行った。
ヘロデ・アグリッパ1世
アグリッパ1世はキリスト教徒を迫害し、使徒ヤコブを殺害した。また、ペテロを投獄したが、奇跡的にペテロは脱出した。後に、ティルスとシドンの人々に神のように崇められ、神に栄光を帰さなかったため、神の使いに討たれて死んだ。アグリッパ1世はヘロデ大王の息子アリストブロスの息子であり、ヘロデの孫にあたる。
ヘロデ・アグリッパ2世
登場箇所: 使徒25:13-26:32
アグリッパ2世はパウロの裁判の際に登場し、パウロの弁明を聞いた。パウロの主張に対して、彼は「あなたは、少しの時間で私をキリスト教徒にするつもりか」と返した。アグリッパ2世はヘロデ大王の曾孫であり、アグリッパ1世の息子。最後のヘロデ家の統治者となった。
ヘロデの秘密結社が後のフリーメーソンと合流
キリスト教が急速に勢力を拡大する中で、ユダヤ教徒の多くが次々とキリスト教に改宗していった。それを目の当たりにしたヘロデ・アグリッパ一世は、キリスト教徒を迫害し、次々に殺害する行動に出た。彼は秘密結社を組織し、自らその長となり、キリスト教徒を抹殺していく。この過程で、大ヤコブもその犠牲となった。
実は、この秘密結社が後にフリーメイソンへと繋がる。最初に現れた王であり、この結社の中心となった人物がヘロデ大王の孫、アグリッパ一世であった。フリーメイソンの起源自体は明確ではないが、いくつかの異なる組織が合体して形成されたという説が有力である。その合併の中の一つが、アグリッパ一世の率いた秘密結社であり、それがフリーメイソンの一つの起源となっている。
ハスモン朝〜ヘロデ大王
167年BC、セレウコス朝からユダヤ国家として独立。
63年BC、ポンペイウスの遠征により、セレウコス朝シリアが滅ぶ。ハスモン朝はローマのシリア属州の一部となる。
40年BC〜 ヘロデの父はハスモン朝下の「親ローマ」武将で、息子のヘロデは、ハスモン朝の内紛に乗じてローマに渡り、ローマ軍勢を借り受けた。エルサレムを陥落させて王となった。ヘロデはローマの情勢を読むのに敏感で、アントニウスからオクタウィアヌス(アウグストゥス)へと乗り換えていく。
聖書には「新たな救世主(メシア)の誕生を恐れたヘロデが、2才以下の幼児・乳児を虐殺させた」とあるが、これは史実ではないようだ。
ヘロデは、20年BC、エルサレム神殿の大改修を行っている。後にユダヤ戦争では、この神殿にユダヤ人がたてこもる。現在、「嘆きの壁」が残るが、それはこの壁の一部である。
ヘロデ王によるハスモン血統の根絶
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