不織布をずらす夏の坂(日記)
最寄りの駅を出てしまえばひと気はない。北に消えていく電車を見送り、自宅までの坂を上る。退勤後の身体は重くとも帰宅と思えば心はいささか軽く、実家から送られてきたスニーカーは足に馴染む。曰く、母にはサイズが合わなかったと。坂の中ほどまで来たところで、わたしは注意深く辺りを見回して、ほかに人影のないことをもう一度確かめる。鼻頭から顎の先までを覆っていた不織布を少しずらして、鼻腔が外気へ晒されるようにした。むわり、と草の、湿ったにおいに、鼻から目元から脳にかけてまで燻されるような心地がする。これほど夏はにおいの濃いものだったのだ。季節のこれほど“匂い取り取り”なことを、こんな具合で知って喜んでいいのか、どうか、しれないが。屋根の三角の縁取りが西日にびかびかと照らされる。照り返しが眩しくて、そこだけ、新品の蛍光管でも取り付けたように光る。