1945年3月10日~体験者の話を聞く
東京生まれの東京育ちである私
また、親が戦前生まれであるためか、3月10日=1945年3月10日なのである。
いつからかは知らないが、東京都は、この日を東京平和の日として式典を開き、午後2時から一分間の黙とうを行っている。
東京都内の自治体のなかには、防災無線で黙とうの放送が流れる。
今日、90歳の男性と話す機会があった。
彼は、ご自分が昔描いたスケッブックを開きながら、当時、下町で体験した東京大空襲の話をしてくれた。
1945年3月10日
多数の米軍機B29爆撃機が飛来した。
木造の家を燃えやすくするために発明された焼夷弾は、あっという間に下町を火の海にした。
彼は、当時、旧制中学1年、13歳の少年であった。
どこのあたりかはわからないが、遠くの町が燃えており、空は赤く染まっていた。
避難の準備をしていた彼とご両親、当時、寝たきりであったおばあさんが荷車に横になっていた。
彼が住んでいる町にB29爆撃機が対空砲で撃墜され、墜落していくのを見た父親が避難を決意。
落ちあう場所を決め、べつべつに避難した。
隅田川にかかる橋の上は、川向うへ避難しようとする人の群れ、川向うからはこちら側に避難しようとする人の群れでごった返して、身動きができない状態であった。
後方には火の手が迫る。パニック状態であった。
なかには、橋から川へ落ちる人たちがいた。川から落ちた人を助けるために警察官はひもや棒で助けていた。
その後、家族と無事に再会したが、父親に背負われていた祖母は息絶えていた。
祖母を一時的に、ある建物の中に安置して、自宅の様子を見に帰った。
焼け野原が一面に広がり、黒焦げの死体があちらこちらにあった。
祖母を引きとりにいったが、ほかの方々と一緒に荼毘にふされ、両国の合同慰霊等に遺骨は納められたとのことである。
なので、遺骨は遺族のもとにはない。それが心残りであったということ。
戦後、商売をしていた父親は、すべて品物を空襲で焼失してしまい、再起する気力もなくなってしまったということである。
当時13歳の少年の目に焼き付いた光景である絵は思いが込められていた。
語り終えると、静かに帰られた。
その方の後ろ姿を見て、どこかに記録しとかなければと思い、この場を借りて、その方から聞いた話を詳しいところは除いて記録させていただいた。
戦争体験者の高齢化が進み、貴重な話を聞くことができなくなっていく。
どこかで急がなければという気持ちがあった。
そして、ふと思うのだ。
戦争体験だけを聴くのではなくて、その人が、その後、その体験の記憶とどのように折り合いをつけて、今まで生きてこられたのかということも聞き取ることが必要ではないかと。
ここまで読んでくださりありがとうございました。