ダイアナ-ウィン-ジョーンズ論⑥
【今考えたらドラえもんはファンタジーではなくSF(science fiction)では無いか?という気がしないでも無いけれど、広義の意味ではどちらもSF(speculative fiction)だし、親戚みたいなものだから許して欲しい!そして私は広義のSFが好き!】
Ⅲ.魔法世界と現実世界
~NOWHERE and NOW HERE~
<伝承>と<現実>について考える中で、『九年目の魔法』からは“ファンタジーといえども<伝承>や<魔法>という想像だけにそのまま頼ってはならない”というジョーンズの姿勢が感じられる、と述べてきた。
そこでこの項目では、ジョーンズの使う<現実世界>と<魔法世界>の「関係性」に焦点をあてて詳しく考えてみることとする。
1.二つの世界の分類法
魔法世界と現実世界。ファンタジーにおいて、この扱い方には幾つかの大まかな形が見られる。大きくはハイ・ファンタジーとエブリデイマジックである。
ハイ・ファンタジーは、ゲームやおとぎ話、神話のように魔法世界だけで物語が進むものを指し、ここには『指輪物語』や『ゲド戦記』などが含まれる。
一方でエブリデイマジックは、<現実空間>と<魔法世界>が共存しているものを指す。ここには『ナルニア国物語』や『ハリー・ポッター』、『トムは真夜中の庭で』のように、主人公が<現実世界>から<魔法世界>に行き、最後に<現実世界>へ帰ってくる「ゆきて帰りし物語」といわれる形態のもの、それから前に挙げた『砂の妖精』や『メアリー・ポピンズ』、日本であれば『ドラえもん』や『となりのトトロ』のように、現実空間に一つや少数だけ魔法要素が紛れ込む形のものに分けられると思う。ここでは日本人の私たちにも分かりやすく、後者を「ドラえもん型」と呼ぶこととする。
以下ではこれら三つの形態と、『九年目の魔法』を含めたジョーンズ作品全体を比較してゆくことで、ジョーンズに特徴的な現実と魔法の関わりを見ていこうと思う。
2.『ドラえもん型』
まずは、『九年目の魔法』の中心舞台が<現実>であることから、それに最も近いと思われる「ドラえもん型」と比較してみよう。
ここでは前にも挙げた『砂の妖精』を例に取り上げる。
この話ではサミアドという砂の妖精が一日一回、魔法で子ども達の願いを叶える。この魔法は夕方までしか効力を持たない限定つきの魔法だ。毎回、かけた願いは子どもたちの身にしっぺ返しのような形で降りかかるものの、結末ではそれに懲りた子ども達が“ゆっくり休んで、またどこかで会おう”と妖精へ願うことにより、この物語が終結する。
と川端有子は述べている。
これと同様のことは『メアリーポピンズ』や『ドラえもん』にも言えることである。
出会い ~現実から抜け出す~
ここで『九年目の魔法』を見てみると、『砂の妖精』でサミアドという魔法要素との交流が、子ども達にとって現実の日常生活から抜け出す手段であったように、リンさんとの交流もまた、ポーリィにとって「両親の離婚と上手く行かない父母関係=日常生活」から一時的に抜け出すのに大きく役立っていることがわかる。例えば両親の離婚後、母の一方的で理不尽な思い込みから家を追い出された後の場面は、このことをよく表している。
母に追い出され、父であるレジのもとへ向かったポーリィ。彼の元へ着いた彼女は、既に愛人と暮らしているレジにもまた、自分と一緒に暮らす勇気が無いことを知る。以前に父親から送られていた手紙の内容から「そんなことがありうるとは思えない」と言い聞かせつつ、ポーリィは彼の態度からこのことに感づいてしまうのだ。父の愛人から「どのくらい泊まっていくのか教えてもらえない?(同上271頁)」と聞かれ、彼女は父に迷惑をかけまいと「明日の朝には帰りまから」と答えてしまう。母の家まで帰るお金も切符も無いのにも関わらず、である。
ここまで、痛くなるくらいに<現実>の辛さを味わったポーリィに、この後の場面ではまるで魔法がかかったかのような出来事が訪れる。追い出され、街を彷徨っているうち、ポーリィは「<ここ(Here)>から<どこでもないところ(Nowhere)>に入りこんだみたい」と感じはじめる。するとそこには偶然にも、演奏会の仕事をしに来ていたリンさんがいたのである。
この部分は確かに、『九年目の魔法』でも<魔法>が<現実>からに抜け出す手段であることを示している。まさにリンさんは、現実空間に迷い込んだ魔法要素であり、家庭問題という束縛と不安から逃れるためのポーリィにとってのサミアドそのものなのだ。
別れ? ~魔法からの回帰~
しかし、サミアドやメアリーポピンズ、ドラえもんの場合と同様に、この、<魔法>と深い関わりを持つリンさんとの交流は一時的で、いつまでも続くものではない。彼と彼に関わる記憶は、ローレルによって消されてしまうからだ。
私は、サミアドやメアリーポピンズ、ドラえもんといった存在から子供達が決別することは、「<想像>ばかりしている子ども時代と別れ、<現実>に生きる」 ことを示しているのだと考える。そのためにそれらは、名残惜しいながらも<離れなければならない存在>として表されるのであり、そうして離れることは、物語の中での「正常な世界への安全な回帰」へとつながるのだ。
さてこの考えに沿えば、リンさんという人間もまた、想像に遊ぶ子ども時代と別れるために<離れなければならない存在>として表されるのは当然だということになる。しかしこの物語のポーリィは「正常な生活への安全な回帰」など出来ていない。彼女の記憶は捻じ曲げられ、そこにもたらされるのは「正常に見えながらも、実は異常な生活への回帰」にすぎない。それゆえにポーリィは九年前の出来事を振り返り、トーマス・リンの存在を再び手繰り寄せていく。
物語の冒頭。火と毒道の写真を眺めながら、小さい頃はその中に見えると思っていた人影が、ただの生垣の陰だと気が付いたポーリィはこう考える。
この物語全体から汲み取れるのは、これが「<想像>ばかりしている子ども時代と別れ、<現実>に生きる」ことを示す物語ではなく、「一度は別れてしまった<想像力>や<魔法>を、再び取り戻す」ことを示す物語、だということなのだ。
こうして九年後の結末、ポーリィが<想像力>の一部を取り戻したとき、<魔法>とつながる存在だったトーマス・リンは、その<魔法世界>から外に逃れる。しかし<魔法>や<想像>から一見抜け出したように見えても、二人はそれらと関係しなければうまくやってゆけない。
ローレルの<魔法>に対峙したときに成り立たされたこの理屈からは、この先もトーマス・リンとポーリィは<Nowhere>=<想像や魔法の世界>との関係を完全には断ち切れはしないだろうことが感じられるからだ。
それでも一度<魔法>の外へ出た彼は、以前とは少し異なる関係をポーリィと持つことになるだろう。ポーリィは「一度は別れてしまった<想像力>や<魔法>を、再び取り戻し」た。しかしそれは子どもの頃に親しんでいたものとは少し違う。
今やトーマス・リンはただ頼りになるサイコーなおじさんではない。距離を置いて向き合った結果、彼女にはその存在のずるいところも、なさけないところも、そして改めて良いところも見えるようになったのだ。
「一度は別れてしまった<想像力>や<魔法>を、再び取り戻す」ことに加えて、『九年目の魔法』には「<想像>を捉えなおして<現実>に生きる」ことが示されている。想像力は大人になっても、大人になったなりに必要なものなのである。
【これを書くのにファンタジーとは何なのか、歴史などを一通り調べたので、一時期ファンタジーについて詳しくなりました(今は忘れ気味!)
次は「ハイファンタジー」と「ゆきて帰りし物語」を軸として考える回です!
ちなみにドラえもんって、ちゃんとした最終回が無いんですよね…】