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ダイアナ-ウィン-ジョーンズ論①

【以下は2006年に作成した卒業論文を再編集したものであり、WEBサイトの引用も2006年当時のものです。現在とは内容が異なる場合がありますがご了承下さい。】

挑戦するファンタジー

  『九年目の魔法』を中心に 


序章 ~NEW HERO~

ダイアナ・ウィン・ジョーンズ(Diana Wynne Jones,1934-)は1934年、イギリスはロンドンに生まれた。
2006年現在、長編の児童文学だけで四十作以上をもつ現役のファンタジー作家である。
大学で、J・R・R・トールキンやC・S・ルイスに学び、若い頃から物語づくりをしていたという彼女がプロの作家となったのは、1973年の“Change Over”から。自身の子供たちが学校に通い始める年齢になって後のことだ。
彼女の描く物語のほとんど全ては“ファンタジー”と言われる分野の作品である。その作風として、独創性と意外性に富んだ奇想天外な物語、個性的な登場人物、中盤まで多くの複線を張り巡らせた上で畳み掛けるような終盤の謎解きをもつ結末、などが挙げられる。
1977年には『魔女と暮らせば』(Charmed Life)でガーディアン賞を受賞し、70年代から彼女の作品の読み物としての評価は高かったが、2002年にはアメリカで初の評論集が出版されるなど、近年になって徐々に学術的な方面でも評価されつつある作家である。

実を言えば私、中学生の頃から、このジョーンズの、奇想天外で読んでいると頭と心を思いっきり使うような作品が大好きだった。
評論家であるマーカス・クラウチは彼女のことをこう評し

戦後の児童文学作家の中で、最も独創的で先の読めない作品を書く作家である

ファンタジー研究会編『魔法のファンタジー』
てらいんく、2003、181頁

日本のジョーンズファンはこう語る。

絶対普通にしないんだろう、きっと! もう、絶対思いつかない方向にくる! そう、すでに裏切られるのを楽しみにしている!

『ネバーランド Vol.2』、てらいんく、2005、138頁

その通り。彼女の作品を読んでいると「他のファンタジー作品とは一味も二味も違う」ように感じられるのだ。
では一味も二味も違うとは一体どういうことなのだろう?
そう思えるのは一体なぜなのだろう?
「その感覚をきちんと論理立てて説明してみたい」これが今回の論文の大きなテーマである。

どんなドタバタがあろうとも、かならずと言って良いほどにきっちりハッピーエンドに着地する結末。
奇抜な道具や魔法動物を作り出すわけではない。登場するのは魔女や魔法使い、妖精、エルフ、それにドワーフやドラゴン、ケンタウロス、グリフィンといったファンタジーや伝説ではおなじみの生物たちである。
さらには伝承や神話、詩といったモチーフも頻繁に使われている。
こういった彼女の作品からは、児童文学のもつ向日性の肯定や、先行する作品やイギリスに残る文化や伝承への愛おしみの様子さえ伝わってくる。

しかしその一方で、彼女は自身のホームページに掲載されているインタビューに、こんな言葉を載せている
(以下は、彼女の最初の作品が出版されなかったことに関する質問への、回答の一部)

“There were lots of things I wrote that got turned down; there were rules that publishers had in those days that were strict and rather strange. To some extent it was my fault because I was determined to break most of these rules.” 

“Diana Wynne Jones Official Website”, AN INTERVIEW WITH DWJ

「…私はそういったルールのほとんどを破ってやろうと心に決めていましたから」
この言葉を象徴するように、1996年に出版された『ダイアナ・ウィン・ジョーンズのファンタジーランド観光ガイド』(The Tough Guide to Fantasyland )では、定型化してしまったファンタジー世界を痛烈に皮肉り、自身の作品にも登場するような人物やキャラクターを面白おかしくこきおろしてさえ見せる。言うなれば、ファンタジー作家と、それらの読者へ向けた、警句集のような作品である。
また『ダークホルムの闇の君』(Dark Lord of Derkholm)では、『ファンタジーランド観光ガイド』で表した皮肉な世界を、見事に物語として表現している。この『ダークホルムの闇の君』は、いわゆる「剣と魔法」と呼ばれるファンタジー形式や、現代のファンタジーを形作るものの一つであるディズニーさえをもパロディとして扱い、それをユーモアと深刻さでもって皮肉っているものだ。

しかし今回私は、この『ダイアナ・ウィン・ジョーンズのファンタジーランド観光ガイド』や『ダークホルムの闇の君』ではなく、『九年目の魔法』(Fire andHemlock, 1985)という作品を中心に論を進めて行きたいと思う。
この作品には前二作のように、既存ファンタジーや、それを基として安直にストーリーをつくることへのあからさまな皮肉が見られるものではない。
ではなぜ私がこの作品を選択するのかといえば、今作がそれらより以前に書かれた作品であり、伝承や先行作品への理解や愛情と、それを越えなければならないというジョーンズの気持ちを、より深く内包していると感じたからである。

この作品、まず非常に古典的なモチーフである<伝承>を重要なモチーフの一つとして使っている。これを使っているのにも関わらず、やはり新しい物語に感じられるとはどういうことなのか。
また、ファンタジーでありながら家庭問題という現実的な部分が大きく扱われている。近年の児童文学では、既にリアリズム的な題材が多く使われるようになってきてはいるが、この、ファンタジーとは対極ともいえる要素をジョーンズはどう扱っているのだろうか。
さらに、物語の半分以上をフラッシュバックした過去の回想で進めている。他の作者ではなかなか見られない複雑な物語時間や設定が、どうして頻繁に使われるのか。
これらについて考えることは「一味も二味も違うとは一体どういうことなのだろう?」という最初の問いへ、答えを出すことになると考えるのだ。

では、次の章以降は実際に、どういった部分からジョーンズがファンタジーや児童文学の型を破ろうとしているのか、同時代、もしくはそれ以前の作品と比較しながら、具体的に探っていきたい。
これを探るにあたっては、彼女がその乗り越えるべくしている形や作品を、どう自らの他の作品に取り込んでいるのかも、合わせて見て行くこととしよう。

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2025年の追記

英語の引用部分について。
現在では「ファンタジーを書く」(徳間書店)内に日本語訳があった気がしますが
当時はHP上でしか読めなかったんですね。

ジョーンズが作品を発表し始めた頃にかけられた言葉に対するコメントですが
たしかファンタジーランドはもっと後年の作品達に対しての警句が含まれているはずなので…
私の論文はちょっとズレたことを言っている気もします。

当時の私はその辺のこと知らなかったのかなー。
でも英語を正しく読めてれば知らなくても分かるのか…な
がんばれ私の英語力!
(ちなみに今の方が更に英語できません)

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