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ダイアナ-ウィン-ジョーンズ論⑦

【こちらの章は『デイルマーク王国史』シリーズの重大なネタバレを含んでいます。シリーズ全巻読み通していない方はご注意ください。ぜひ全て読んでから見てね!】

Ⅲ.魔法世界と現実世界 

~NOWHERE and NOW HERE~ 中編


3.『ゆきて帰りし物語型』

それでは次に、もう一つの代表的なエブリデイマジックの形態、<ゆきて帰りし物語>とジョーンズ作品を比較してみようと思う。

<現実>(人間世界)の親戚の家に住むハリー・ポッターは、毎学期ごとにそこを抜け出して魔法界の試練に挑み、休暇にはそこへ帰ってくる。
『トムは真夜中の庭で』のトムは、夜になると過去の庭(<魔法>)に赴き、朝には<現実>に帰宅する。
『ナルニア』の子ども達は衣装戸棚や駅のホームから<魔法>の世界へ出かけ、冒険が一件落着すれば(最終巻を覗いて)<現実>へと帰ってくる。
一見、ほぼ一定に<現実>を舞台にしているかのような『九年目の魔法』でも、実はこの<ゆきて帰りし>の構造が見られる。<現実>の少女である十歳のポーリィは、トーマス・リンなる<魔法>の存在に出会い、その後五年間にわたり彼を巡る魔法界のいざこざに水面下で巻き込まれる。十五歳で一度はその<魔法>から離れたかに見えた彼女も、本当は九年の間そこに巻き込まれたまま。そして十九歳にしてやっと、本当にトーマス・リンを<現実>へ引き戻し、とりあえずの物語は一件落着になるのだから。

さて、前者で挙げた幾つかの<ゆきて帰りし>型のファンタジーと『九年目の魔法』で異なるのは、その<現実>と<魔法>の世界との関わり方である。

切り離された世界

前者に見られる<現実>と<魔法世界>の多くは、平行した存在に見えながらも実は切り離されている。主人公は<魔法>世界へ紛れ込むことで、その世界から影響を受ける。しかしその紛れ込んだ<魔法>世界は、ほとんどの場合でもう一方の<現実>世界やそこに住む人物には影響を与えることがない。また、その冒険の目的が現実世界の人間を救うためでもない限り、冒険中の主人公らの現実世界についての考え方は、おざなりになることが多いのだ。こちら側とあちら側には、はっきりとした境界があるのが普通である。
こういった状況は(少なくとも既刊分までではあるが)例えば『ハリー・ポッター』といった作品に顕著に表れる。
ハリーが魔法世界で何をしようと、義理の家族であるダーズリ一家の傲慢さやハリーへの振る舞いはほとんど変わらない。魔法世界で非常なピンチが起ころうと、マグルと呼ばれる人間たちには何も被害がないように見えるのもそうだ。

交錯した世界

一方『九年目の魔法』の場合、<現実>と<魔法>は非常に近い位置にあり、時には混ざり合って見えさえする。ポーリィが最初に迷い込み、後に忍び込んだハンズドン館は、現実の建物のようでありながら毎回その構造が微妙に変化している。このことからここは、<現実>にありながら<魔法>の働く不安定な場であることが感じられる。
トーマス・リンへの贈り物としてローレルが与えた「常に真実だけを語る力」の発現。儀式によって<現実>のポーリィにも<魔法>が使え、それが失敗したために周囲の人々の五年間もの記憶が消されること。これらも<現実>と<魔法>の近さを物語っている。
また、妖精界のための九年に一度の儀式のために、生贄として<現実>のお祖父ちゃんを奪われたお祖母ちゃん、その息子であるレジ。彼らの生活は<魔法>に少なからず影響を受けていることは想像に難くない。もちろん「ドラえもん型」の項で述べたように、ポーリィとリンさんが<想像の世界>とは無縁になり得ないことも、同じく<魔法>と<現実>の世界が関わりあっていることを示している。
しかし中でも、ハンズドン館に置かれている二つの壷はこのことを象徴的に表したものだと言えよう。

本当は二つとも<Nowhere>と刻まれているのだが、配置の関係で、一つの花瓶上で始めから終わりまで、ひと目で読み取ることができないようになっている

『九年目の魔法』文庫版39頁

この二つをあわせて調節して回すことではじめて、<No where>=<どこでもないところ>=<魔法>にも、<Now here>=<今・ここ>=<現実>にも読むことができるのだ。

この壷の存在は、いつでも二つの世界が隣り合っていること、そして、ほんのちょっとした一押しでどちらにでも変わってしまうこと、ひょっとしたら二つは同じものなのかもしれないことを示しているように思える。ジョーンズにとって、<現実>と<魔法>は、実はほんの少しの差しか持っていないものなのかも知れない。

この、<現実世界>と<魔法世界>が入り混じり、境目がハッキリせずに交錯する特異な世界構造は、他のジョーンズ作品にも見られる。
そして、この<現実>と<魔法>の交錯こそジョーンズの描く世界の醍醐味の一つだと言えるだろう。

4.『ハイ・ファンタジー型』

例えば、ジョーンズにかかれば<魔法世界>だけを扱うはずのハイ・ファンタジーさえも<魔法世界>だけに収まってはいられない。物語の大半が現実世界で進められる『九年目の魔法』とこの形を比較することはどうも公正ではないので、ここでは他の作品を例に取り上げたい。

どんでん返し

ここに『デイルマーク王国史』(The Dalemark Quartet)という四部作がある。

『詩人たちの旅』(Cart and Cwidder, 1975)
『聖なる島々へ』(Drowned Ammet 1977)
『呪文の織り手』(The Spellcoats 1979)
これら、1970年代のジョーンズの比較的初期に書かれた三作品は、デイルマークなる魔法や神々のまだ存在している完全な異界を舞台としている。そして各巻で年代や場所をずらしながら主人公を異にして物語が展開する。
『詩人たちの旅』と『聖なる島々へ』は同時期の話、そして『呪文の織り手』はそれよりぐっとさかのぼった古代の話だ。これらは<魔法世界>だけを舞台としたハイ・ファンタジーであることもそうだが、あまり複雑ではないプロット、典型的なファンタジーの形である<冒険の旅>を肯定的に描き、そこを通して主人公の成長を描いていることから(普通では、これらは特長にはならないが、ジョーンズだからこそ逆に珍しく)特徴的だといえる。

しかし当シリーズに90年代になってから刊行された『時の彼方の王冠』(The Crown of Dalemark, 1993)という四作品目が加わると、この古典的でシンプルとも思われたファンタジー形式は一変する。
ここに表されるのは前三巻中で二巻の舞台となった時代の中世デイルマークと、二百年後の<現代>デイルマークである。この<現代>デイルマークでは、もう<魔法>は存在しないと思われている。要するにそこは、私たちの世界に似た<魔法のない世界>であり、<現実>と置き換えても良い場所なのである。一方でもう一つの舞台となる二百年前の世界にはまだ<魔法>が残り、物語中ではここへ古代『呪文の織り手』の主人公たちが神に近い<不死なる者>として関わることで、さらに<魔法>の要素が強く表されている。
『時の彼方の王冠』は、<現代>デイルマークの少女が二百年前のデイルマークへタイムトリップし、前三巻でバラバラに旅をしていた主人公たちと係わり合い、結末で再び現代に戻ってくる構造になっている。
言ってみればこの物語は、<ゆきて帰りし>物語の構造も持っているのだ。そして物語の最後には、現代に戻って来た少女のもとに二百年前に会った人物が<不死なる者>として現れる。その彼はごくごく現代的な姿形で、普通の人間のように生きている。

最初にハイ・ファンタジーで始まったこの作品も、実は<現実>と密接につながった<ゆきて帰りし>物語でもあったわけだ。

神話も現実だ

デイルマークの最初の三巻には、「終わりに」という物語に関する注釈が付けられている。実はこれらは<現代>デイルマークの博物館に、三つの物語が展示品として置かれていることを示している。この注釈は展示品に付けられた説明文なのだ。
“デイルマーク王国史”という物語は、神話を作って見せている物語なのかもしれない。それは、トールキンが「イギリスの子供達に神話を与えよう」と『指輪物語』を作ったのにも少し似ている。
しかし、ここに見られる神々は、『指輪物語』のエルフたちのように神聖な雰囲気を持った存在ではない。確かに彼らは不思議な力をもっているが、それはあくまで何かを媒介し、他からの力を借りることでのみ発揮される。『呪文の織り手』に表される<不死なるもの>の当初の姿は、戦禍に巻き込まれ、その世界での<現実>に自力で立ち向かう姿を見せていた子どもたちである。そして生活費を稼ぐために織っていたローブが、彼女の操ることができる魔法なのだ。
私たちが物語を読んでいるとき、彼らは他の人間とほとんど変わらない。だから私たちは普通の登場人物や主人公のつもりで読み進む。<不死なるもの>が神聖視されている四巻目に彼らが再び登場したときも、その普通さはかなりの程度で保たれている。<現実>に生きる普通の人の普通の生き方を辿っていくことは、実は、<魔法>やファンタジーと深い関わりのある神話や伝承を織りなしていくことだったのだ。
そしておそらく、本当の神話や伝承もそうやって作り出されたものなのではないだろうか。
「どんなファンタジーでもそれは<現実>につながっている」。“The Dalemark Quartet”というこの物語を四巻通して読むことで、物語の転倒の面白さを感じるとともに、ジョーンズのそんな主張が見えてくるのだ。

【次回は、“NOWHERE and NOW HERE “の最終回、まとめ編です】

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