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『旧市町村日誌』8 文・写真 仁科勝介(かつお)

6/8(木)「旅と仕事と小津安二郎」


あの経験がなかったら、今の自分はどうなっているだろう。という事象に出会うことがある。事前にそれを知り得ることはできない。あくまで、後から思うものだ。恩師との出会いかもしれないし、大自然に対峙して感じたエネルギーかもしれないし、旅や仕事先で出会うかもしれない。


旅をしながら数日間の出張に出るのは、今週が初めてだった。西日本での取材が主で、旅を始める以前から受けていたものだ。その仕事を受けるまでの経緯には、お世話になった大先輩への恩があり、東京ではなく旅先から現地へ向かうまでの交通費も相談をしていたので、仕事を受けて当日に至った。


ただ、もちろん仕事のあいだ、旅を進めることはできない。スーパーカブを数日間問題のないところに駐輪する必要があるし、旅の荷物をどこかに預けなければならない。今回は茨城の知り合いの方のおうちに滞在させてもらい、出張のことも了承してもらったからクリアできたけれど、知り合いのいない土地から向かうことになれば、どうなるのだろうとも思う。3日間の出張でも、込み込み一週間ぐらいは旅を進めるのがむずかしくなる。それに、お断りしてしまった別の仕事もあるから、その方々に対して後ろめたい気持ちが消えない。


と、そんなボヤキそのものが、お金をもらって仕事をする立場として、失格ではないかという気にもさせられるのであった。だから、心の沈殿物をぐるぐるとかき混ぜて、飛行機に乗った。


しかし、いざ取材が過ぎていくと、旅では出会えなかったかもしれない人との縁や体験があるわけで、なるほど充実感がある。旅は進んでいないかもしれないが、人生という旅は進んでいて、ならば、誰しもが「今」を旅しているのではないか。そうしたことでさえ、旧市町村一周の旅をしているときは、思索する余裕もないので、意義深く感じられた。


取材の仕事なので、編集者さんとライターさんも一緒に行動した。移動の合間は会話もするし、その時間はどちらかというと、いろいろなことを訊ねるチャンスとも言える。


ライターさんと映画の話題になった。観たいリストが溜まるばかりで、なかなか消化しきれないとぼくは話した。すると、そのライターさんは、「じゃあまずは、小津安二郎を観なきゃね」と言うのであった。そう、ぼくは小津監督の作品ですら、まだ観ることができていなかった。さらにライターさんは、ニヤリといい意味で不気味な表情を見せたあと、「でも、リストを消化できないかつおさんだから、小津も観られないだろうなあ」と続けた。


その言葉は、あえての挑発であった。ぼくはぐうの音も出ないのであったが、振り絞って「すぐに観ます」と精一杯返した。ぼくよりもひと回り年上で、3児のパパでもあるその方は、一流のライターだ。ぼくもとても好きな方である。昨年は忙しいなか写真展にも来てくださった。だからたった今、わざと発破をかけてくださったことを粋に感じた。


翌朝、小津安二郎監督の不朽の名作である「東京物語」を観た。朝の集合時間までに2時間すべては観られなかったが、まずは半分だけ観た。東京と尾道が舞台であり、世界で評価される名作中の名作という点で選んだのであるが、ぼくも不思議と今、尾道にいた。


映画では尾道で暮らす老夫婦が、東京で暮らす子どもたちの家族を訪ねる。子どもたちは両親を喜んで迎えつつも、心の片隅でけむたがる様子がゼロではない。一方で、老夫婦の息子である夫と死別してしまった義理の娘だけは、真心を持って義父母の面倒を見るのであった。


老夫婦が東京で子どもたちの厄介になる様子は、今、旅先で他人のおうちにお世話になっている自分に重なった。自分が誰かの厄介になっていることが申し訳なくなってくる。それでも、1ヶ月前に群馬で泊めさせてもらった先輩も、いま茨城でお世話になっているご夫婦も、羽田空港に始発で間に合わないので前泊させてもらった、東京の元隣人も、ぼくが言える立場ではまったくないのだが、映画に登場する義理の娘と同じように、あたたかく接してくれた。自分がどれだけ恵まれているか。そして、逆の立場ならどんな自分でありたいか。


もし、ライターさんに小津映画を観るように言われていなかったら、仕事を断ってしまっていたら、ここにたどり着けてもいない。朝、まだ半分ですが作品を観ましたと報告すると、ライターさんは「へえー」と言った。


さて。昨日の深夜に茨城へ戻ってきて、今日は荷物を整理した。増えた荷物を少しでも減らしたくて、秋冬用の衣類を中心に段ボールひと箱分、だいたい3、4kgぐらい実家に送った。荷物が増えたのは、取材チームで立ち寄った尾道の古本屋で、本が増えたからである。ライターさんとは本の話もしていた。自分でも数冊買ったが、会話の中でライターさんが面白いと教えてくれた本を、お店で何冊も見つけてくれた。そして「これ、課題図書な」と会計後に渡してくれたのである。




仁科勝介(かつお)
1996年生まれ、岡山県倉敷市出身。広島大学経済学部卒。
2018年3月に市町村一周の旅を始め、
2020年1月に全1741の市町村巡りを達成。
2023年4月から旧市町村一周の旅に出る。

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