「可愛い」の定義を変えた、女の子たちの話
ショッピングモールを歩く。
そのとき、ゴシックロリータというのだろうか、少し特徴的な服を着た女の子が、正面から歩いてきた。
高校生くらいだろうか。
どうやら友達との待ち合わせだったらしく、同じような服装の女の子2人と合流していた。
すれ違いざま、その子たちの会話が聞こえてきたのだが、遅れてやってきた女の子のリボンを、他の二人が頭を撫でながら「可愛い」「可愛いね」と褒めているのが聞こえた。
頭を撫でられている女の子も、相手の二人を、可愛い可愛いと愛でていたのだ。
それを聴いたわたしは「これが女の子か!女の子尊い!!」と、胸を掴まれてしまった。
女の子を、尊いなどという目で見たことはなかった。女であることは戦うことと、どこかでインプットされていたからだと思う。
けれど、彼女たちには、嘘がなかった。
好きなものを一所懸命に集め、その世界を愛でているからだろうな。だからこそ、相手の世界も大切にできるのだろう。
彼女たちの「可愛い」には、喜びとリスペクトが詰まっていだのだと思う。
服装や世界観がどうということではなく、あの子達が、わたしの理想の女の子なのだ。
彼女たちの服装は、戦闘服などではなかった。誰かを攻撃するために、正当性を主張するために、身に纏われたものでもない。
彼女たちが纏っていたのは、彼女たちにとっての「大切なもの」だったのだろう。
帰り道、一本のバラに出会う。
香りがいい。透き通った甘い香りが、部屋に満ちる。カップ状に開いた花弁は、繊細な薄さで、一枚一枚がヒラヒラとした特徴的な形をしている。
理想のバラに出会ったのは、初めてだった。むしろ、わたしにバラの理想なんかあったのかということに驚く。
可愛い。そこには、尊敬がある。
可愛いというのは、誰かを見下したり、手篭めにしようとしたり、表現に困って使う言葉ではない。
相手が喜ぶだろうと投げかける言葉でもないのだ。
「可愛い」は尊い。
そこには「大切」と「幸せ」がある。
こんなにも、可愛い・女の子尊いという気持ちを感じたのは、生まれて初めてかもしれない。
そして、作品をこんな風に感じてもらえたらと思ってしまった。
あからさまな褒め言葉はいらない。
ただただ大切にしたい・可愛い・キレイ・尊い・・・と感じてもらえるものは、そこに幸せを生む。
可愛いという言葉の定義を変えた日は、絵描きとしての夢を変えた日にもなった。
もう、あの子達に出会うことはないだろうけど
幸せになってね。あなたたちの「可愛い」は、他の人のこともシアワセにしてるんだよ。
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