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いぬじにはゆるさない 番外編「野良犬(中編)」


夢に出てくるさやねぇは、いつも泣いている。

だから、俺は泣かずに笑う。


実の父親の記憶は無い。俺が腹の中に居る時に死んだと聞いている。

小学校に進学する年に母親が再婚をし、俺も引っ越しをする事になった。

母親は、コブ付きとは言えども若さと美貌を持っていた。そして、継父にはそのどちらも無かったが、金を持っていた。よくある話だ。

引っ越し先の大きな家は古めかしいが手入れのよくなされた日本家屋で、更にその数倍の広さがある庭があった。

通いの家政婦もやってくるこの家は、近所の人間から『お屋敷』と呼ばれていて、そのお屋敷の裏庭部分に面した隣の敷地には、同じく近所の人間が『ウサギ小屋』と噂する、時代錯誤なくらいにボロの平屋があった。そのボロ家の娘が、俺より二歳年上のさやねぇだった。

引っ越してから一ヶ月ほど経った頃だ。

継父に最初の暴力を振るわれ、俺の身体はその反動で一瞬宙に浮いた。口の中が切れ、唾液と一緒に血が流れ出た。きっかけは、食事の時の態度が悪いとか、そういう些細(ささい)な事だったと思う。まだガキだった俺は、ただただ恐怖で泣きわめいた。

そんな六歳のガキに、アイツは「謝らないなら出て行きなさい」と淡々と言い放ち、俺はすっかり暗くなった日本庭園に追い出された。

暗闇はそう怖くは無かった。それよりも家の中に居る継父の方が恐ろしく、俺は見付かるまいと裏庭に逃げ込んだ。その時、裏庭にある物置小屋の陰で隠れて泣いていた、『ウサギ小屋』の娘のさやねぇと初めて会話を交わしたのだった。

家が隣同士で、同じ再婚家庭で、それぞれの継父が異様な人間で。

俺達は、互いに吸い込まれるように親しくなった。

俺は継父の意向で私立の小学校に通わされていたので学校こそ違ったが、日常的に裏庭や公園で会った。継父は出張の多い生活だったのでーーーいや、あれが本当に出張だったのかは疑わしいがーーーとにかく不自然に家を空ける事が多く、そんな日はこっそり俺の部屋でも一緒に過ごした。

唯一の理解者で、家族よりも家族で、精神的な逃げ場で、そして初恋だったと思う。

さやねぇは、しょっちゅう泣いていた。

笑うとハの字眉毛(まゆげ)になるので、笑っている時もまるで泣いているかのようだった。あれは栗毛と言うのだろうか、天然で茶色がかった髪をしていて、色素自体が薄いのか肌もかなり白く、そして、その白い肌には決まってどこかに傷やアザがあった。

お互い似たような場所に青あざを作られた時は、「お揃い」と言って笑ってみせると、さやねぇも釣られて笑った。俺は、さやねぇが俺の言葉で泣き止んでハの字眉毛になる瞬間が好きだった。


二つ年上のさやねぇは先に中学生になり、その次の年、俺の身長がさやねぇを追い越した。

その頃からだ、さやねぇに違和感を覚える事が増えたのは。

あんなにしょっちゅう泣いていたくせにめったに涙を流さなくなり、身体にアザが出来る事も減った様子だった。なのにまるでその代わりかのように、虚(うつ)ろな目でぼんやりする様になったのだ。

俺が何か聞いてもはぐらかし、下手な作り笑いを浮かべて話をそらす。そのくせ、以前にも増して「家に帰りたくない」と、俺と過ごす時間が増えていった。俺が一緒に居られない時も、数少ない友人の家や放課後の学校に居すわっている様子だった。

そしてあれは、冬。昼下がりから雪が降り出した寒い日の、その夜の事。

俺の部屋の窓に小石が当たる音がした。それは、お互いの間でお決まりになっていた合図だった。

ちょうど遠縁の通夜があり、継父と母親の帰宅は0時を越えると言われていた。普段人前では『連れ子を可愛がる人格者ごっこ』をしたがる継父が俺を連れて行かなかったのは、その前日に顔を殴られて左まぶたが腫れていたからだ。

通いの家政婦もとっくに帰り、一人きりの晩だった。久しぶりに、人の目を気にせずに玄関からさやねぇを招き入れた。

古く大きな玄関扉を開けると同時、冷気がわっと侵入してきた。雪は止んでいたが、真っ白に塗り替えられた夜の庭は異様なくらいに静かだった。

冷気と静けさを伴って現れたさやねぇも、何故(なぜ)か黙ったままだった。

俺は、きっとまた何かイヤな事があったのだろうと、何も聞かずに俺の部屋へ誘った。

自室のドアを後ろ手で閉めたのとほぼ同時、さやねぇの手が俺の両頬(りょうほほ)を包み込んだ。

冷え切った手の感触と、それに反して生暖かい唇。

そしてそのまま、さやねぇに押される形でベッドに倒れた。

そこからの事は、正直ハッキリとは覚えていない。

二回目、三回目と、回数を重ねた後日の事は記憶にあるが、笑える事に『私立小に通うおぼっちゃん』だった俺は、最初それが何なのか、半分くらいしか理解していなかったのだ。

『そういう行為』が存在することは分っていたがそれは大人がする事で、まだ小六の自分と中二のさやねぇが、と、まるで交通事故に遭ったかのような衝撃だった。

ただ、相手がさやねぇだった事を嬉しく思った事、それから、さやねぇが「嫌いにならないで」と言っていた事は覚えている。

ガキだった俺は、ただただ単純に「嫌いになんかなるワケがない」と、不思議に思っていた。

そう、俺はガキだった。

さやねぇがどんな気持ちで俺にすがったのか、そんな事も考えられない、どうしようもないくらいにクソで馬鹿なガキだった。

さやねぇが俺に「嫌いにならないで」と言ってから数ヶ月後。

俺は、さやねぇのボロ屋の中に居た。左手には、大分前からボロ屋の軒先に放置されていた錆びた金属バット。そのバットから、鮮血が流れ落ちる。

目の前に半裸でうずくまっているのは、さやねぇの継父。


その奥に、さやねぇの白い肌と涙。







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