いぬじにはゆるさない番外編 「野良犬(前編)」
「お前、こんな日に〇▲△なんて、■◎♨×〇!バカか!!」
周囲の喧噪と早口で全ては聞き取れなかったが、狂気と混沌の群れから私を救い出してくれた彼が日本人だという事は理解出来た。
ずっと、この目でガンジス川を見る事が夢だった。
なのに、これは一体どういう事だろうか。憧れの地バラナシに足を踏み入れると同時、寄ってたかって大量の色水や色粉をぶつけられ、あっという間に靴の中までビショビショになった。着ていた服も、いや、おそらくトランクスの中に至るまで、体中が原色まみれだ。
時折どさくさに紛れて荷物を強奪されそうになり、七色の暴徒達が闊歩(かっぽ)する異国の地で一人必死に縮こまっていたその時、私と同じ東洋人が宿の扉を開けて中に招き入れてくれたのだった。
私の全身から滴(したた)る色水が、小さなエントランスホールの石畳(いしだたみ)を鮮やかに濡らす。
まず深呼吸をして息と気持ちを整え、それからお礼を言った。
「あ…ありがとう。ワタシ、日本語少し分かりマス。」
私が日本語でそう言うと、相手は少しゆっくりめの口調で返してくれた。
「何だ、あんた日本人じゃなかったのか。」
「台湾デス。日本のアニメ、ドラマ、好き。日本語、勉強してマス。あの、アナタのお名前は…?」
私は確かに『お名前は』と聞いたつもりだったが、動揺から言葉を間違えたのだろうか。彼の回答は、私の意図から外れたものだった。
「俺か?俺はジャバミ。」
「ジャパーニ(日本人)?日本人なの、分かりマス。あの、お名前は…?」
「ジャ・バ・ミ!!蛇(ヘビ)が喰(く)うと書いて、蛇喰(じゃばみ)!俺の名前!!」
「ジャバ…ニ?」
初めて耳にする名前だった。繰り返されても上手く聞き取れず戸惑っていると、彼が諦めたように言った。
「シンでいいよ。下の名前だ。あんたの名前は?」
「ありがとう、シン。ワタシは李宥延(リ・ヨウイェン)言いマス。」
こちらが名乗ると、シンは「それも言いにくいな」と苦笑した。
「リーって呼ぶわ。リー、とりあえずそれじゃこの宿も汚れちまう。シャワー浴びてこい。」
促(うなが)され、ほぼ水だけのシャワーを浴びた。体中に付いた色は九割がた落ちたが、荷物も散々な状態だったので替えの服はシンが貸してくれた。体型が似ていて助かった。
洗い場で自分の荷物を洗っている間、シンがタバコを吸いながら説明してくれた。
ここバラナシはホーリー(祭)の真っ最中で、だから色水や色粉を投げ合っているという事。基本的にはフレンドリーな祭りだがバラナシのホーリーは特に過激で、男とは言え外国人が一人で出歩くなんて、酔っ払いや興奮した暴徒に危害を加えられてもおかしくないという事。今も、鉄格子越しの窓の外では絶え間ない騒ぎが続いている。
それから、ここは日本人宿だけれど、オーナーには話をつけたので私が泊まっても構わないと言われた。ちょうどホーリーの直前に他のお客が出て行って空いているらしい。
「シン、とても親切、ありがとう。」
改めてお礼を言うと、シンは短くなったタバコの煙を愛おしむようにゆっくりと吐き出してから言った。
「礼はいらん。善因善果(ぜんいんぜんか)だ。巡り巡って紙巻きタバコが手に入る事を願う。」
「ゼンインゼン…?」
「難しかったな、すまん。仏教用語だよ。」
「ブキョウヨゴ…?」
「あ~…つまり、ここインドはブッダが産まれた場所だろ?分る?ブッダの言葉だよ。俺も寺の出で…えーと、テンプルに住んでたし、修行…ブディズムを…えー…勉強してた。一応、坊主と言えば坊主なの。」
「ボーズトーイエバ…??」
あまりの通じなさにシンが吹き出した。その反動でタバコの煙が肺に入ってしまったらしい。シンが苦しそうにむせていると、彼の背後のドアが開き、おそらく日本人らしい恰幅(かっぷく)の良い中年女性が姿を現した。
「ちょっとジャバミさん!タバコは屋上!!何度言えば分るんだい!!」
50代後半といったところだろうか。少し色あせたサリーを着こなしており、一目でただの旅行者では無いと分かる。おそらく彼女がここのオーナーなのだろう。
「全く、あんたのせいで女の子達も出て行くし…次に何かやったら出入り禁止にするからね!!」
「うーす、屋上行きまーす。リー、物干し場も屋上だから、洗い終わったら屋上に来い。先に行ってるわ。」
気だるそうに階段を登るシンを見送った後、オーナーの女性と目が合った。
「あ…ワタシ、李宥延(リ・ヨウイェン)です。台湾から来まシタ。」
「ああ、聞いてるよ。あんた、ホーリー知らなかったんだって!?そのくらいちゃんと調べないとダメだよ。自分の身は自分で守らなきゃ!!」
彼女の口調は厳しいが、言葉からは思いやりが感じられる。私の祖母に似たタイプのようだ。この異国の地でちょっぴり安堵感を覚えた。
「あの…ココ、日本人宿と聞きました。ワタシ日本人でない。泊めてくれてありがとう。」
「別に日本人限定ってワケじゃないから気にしなくていいよ。それより、アンタが礼儀正しい子で良かったよぉ。ウチは草(大麻)や薬やってるような輩(ヤカラ)はお断りだからね。屋上のアイツもちょっと普通じゃ無いから、見張っててくれないかい?」
彼女の話はところどころ理解出来なかったが、取りあえず私に悪い印象を抱いていない事、そしてシンには良い印象を持っていない事は伝わってきた。
・・・・・
宿はよくあるドミトリー(相部屋)で、安宿にしては珍しく男女別の大部屋だった。設備は古いが、手入れがきちんとされていて清潔感もある。男性部屋には八つのベッドがあったが、お客はシンと私だけだった。
長時間の移動とホーリーの洗礼に遭った事で心身共にヘトヘトだった私は、その日は早々に眠りに就いた。
深夜、何時頃だろうか。
気配に目を覚まし、暗闇の中で目を凝らした。シンのベッドは空だ。
部屋の隅で何かがうごめいており、よく見るとそれは壁にもたれかかりながら膝を立て座り込むシンだった。自分の頭を抱え、ゆっくりと、だが何度も何度もくりかえし掻きむしっているようだ。
「シン…?」
私が名前を呼ぶと、シンはハッとしたように顔を上げた。
「………起こしたか?…悪いな。」
「ダイジョウブ?病気?ドコか悪い?」
話しかけながら、私もベッドから起きて床に座り込む。近くで見たシンは、大量の汗をかいていた。
「寝れないだけだ、気にするな。」
「ドリンク、取ってクル。」
食堂にある客用冷蔵庫の中には他のお客が置いていった飲み物が沢山放置されており、オーナーがそれは好きに飲んで良いと説明してくれていた。
私は小走りで食堂まで行き、シンの好みが分らなかったので目に付いたドリンクを片っ端から掴んで抱えるようにして戻った。未だ床に座り込むシンの目の前に、一本ずつ並べる。
「…ほとんど酒じゃねぇかよ。」
シンはそういって軽く笑い、おそらく唯一あったミネラルウォーターに手を伸ばした。
「悪いな、俺、酒飲めねぇの。」
「今、病気、ダカラ?」
「体調は悪くない。俺が酒を飲むと、日本に居る恐ろしい坊主が飛んでやってきてボコボコにされる。」
彼が何を言っているのか、さっぱり理解出来なかった。
ただ、シンが笑顔なので少し安心した。
「シン、寝れない。話、スル?シン、産まれた、日本のドコ?」
私がそう言うと、シンは「どうせ殆(ほとん)ど通じないんだろ?」と言ってまた笑った。
それからシンは自分の生い立ちを語り出してくれたが、彼の言った通り私にはそれらはあまり理解が出来なかった。
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