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いぬじにはゆるさない 番外編「サマーバケーション」 第四話(全六話)


夜の海を見下ろしながら打ち明け話をした時、タカさんは「イイジマ君の事は他人とは思えない」と言った。

そして、「でも君が羨ましいよ」とも。

従兄妹(いとこ)とは言え血縁者であるチホちゃんにずっと片思いしているタカさんから見れば、確かに俺とあいつの関係なんて充分に恵まれているのだろう。

さしたる障害物があるわけでもないのに、俺が今まで何の意思表示もしてこなかった結果が現状で、そしてあいつの方は気が無いというのが現実だ。だから、それを変えたければ俺が動くしか無い。

「イイジマ君、あのね、学生の君にはまだ分らないだろうけど、社会人になったら自然な出会いなんてそうそう無いよ。俺はね~、もうチホが結婚するのを見届けるか自分が三十歳になったら、結婚相談所にでも登録しようかなーとか思ってるんだよね…。」

乾いた笑い声が、波の音に混ざって消えた。真っ黒な海に視線を投げたままのタカさんの横顔に身につまされつつ、俺は今一度自分に喝(かつ)を入れた。


・・・・・


「では、出発~!!」

シルバーの塗装がまだらに剥げたハイエースに颯爽と乗り込み、あいつのノリノリのかけ声を受けて俺がキーを回す。キーレスではなく差し込み式の鍵というところも、この車がいかに年代物かという事を物語っている。

マニュアルミッション(MT)車を運転するのは久々だったので一瞬空吹き気味になり、ブォンとけたたましい音が響いた。

窓の外の花田さんが、それに負けじと大声でコチラに向かって言う。

「じゃあ、私達は海に行くから!お昼はバーベキューだから、十二時前に帰って来て手伝ってね!!」

「はーい!今まだ九時でしょ?余裕余裕~♪」

まるで今からデートにでも行くかのような弾んだ声であいつが応じ、俺は十人乗りの大きな車体をゆっくりと発車させた。花田さんが手を振る姿がどんどん小さくなっていった。

旅行二日目の朝。俺は、この島にあるという旧日本軍の砲台跡地に向かう事になった。

念願の二人きり…では無い。男五人・女四人の計九人でだ。後部座席では、残りの七人が和気藹々(わきあいあい)と会話を繰り広げている。

なぜ、こうなったのか。話は朝食前に遡る。


「イイジマも行きたいの?海好きなのに、意外~。」

俺が必死の気持ちで口にしたお誘いへの返答は、何だか的を得ないものだった。てっきり喜んでもらえると思っていたのに、そのそっけない態度と、“も”という言葉に多少の違和感を覚えつつ食い下がる。

「うん。行こうよ、一緒に。」

そうして次に返って来た言葉に至っては、完全に予想外だった。

「もちろんいいよ。チホちゃんとホトさんも行くから、皆で行こう。」

「は?ホト森は予定があるんじゃなかったのか?」

「モンちゃんから聞いたの?ホトさん、岩場に漁に行くグループに誘われてたけど、よくよく聞いたら早起きして行って朝食までには終わるんだって。で、チホちゃんは昨日海で日焼けし過ぎたから、山なら一緒に行きたいってさ。」

その言葉に反応したタカさんが、背後の縁側からやって来て会話に割って入った。

「何だ、チホも行くの?じゃあ俺も行くよ。一応、危険が無いようにっておばさん達から頼まれてるし。」

ここぞとばかりに、身内という立場を有効活用するタカさん。後方から、「何かよく分んないけど俺も行こうかな~」と、シュウイチ。そのタイミングでヒナコちゃんとぽっちゃり年下女子がリビングにやって来て、元気良く「イイジマさんどこに行くんですか!?私とヒナコさんも連れてって下さいよぉ!」と迫った。

そして、朝食時。あいつが誘った時には断固拒否したくせに「俺も行く」と主張したモンちゃんに、あいつが「いいけど、もうモンちゃんには漫画貸さない」と冷ややかに言い、九人が揃った。


あいつが誘導した先は、民宿から車で十五分足らずの沢(さわ)だった。

木々の隙間から木漏れ日が注ぎ、足下では浅く澄んだ水が流れている。車を停めた周辺は穏やかな雰囲気だが、先の方はそこそこ急な傾斜があり、登った先は深い緑に囲まれていて見えない。

「じゃあホトさん、よろしくお願いします。」

車を降りて皆が沢の周囲に散り散りになっていると、俺のすぐ近くに居たあいつが、同じく近くに居たホト森にそう言った。

寡黙なホト森は黙ったまま軍手をはめており、ただコクンと頷(うなず)く。柔道家体型のホト森と長身の俺に囲まれてすっかり陰(かげ)になっているあいつを見下ろすと、いつの間にやら、既に軍手を装備していた。

「私、ホトさんと上に行ってくるから待っててね。」

つまり、こいつの目的の場所はもっと奥にあって、ここからは別行動という事だ。俺は咄嗟(とっさ)に言った。

「いや、俺が行く。行きたい。ホト森、代わってくれ。」

自分でもよく言ったと思った。あいつが少し驚いた顔をして、ホト森の顔を見上げる。ホト森の糸目はいつものポーカーフェイスだ。

「…ホトさん、いい?」

あいつの問いに、ホト森は再度無言で頷いた。そして、自分の手から軍手を外して俺に差し出すと、「気を付けてな」とだけ言い、沢で水遊びをする皆の方に消えた。

「ね、イイジマ…。」

あいつが少し小さめの声で俺の名前を呼び、“耳を貸して”と手招きをする。少しドキッとしながらそれに応じて前屈みになると、息がかかる程の距離まで口が近付き、あいつが言った。

「もしかして、ヒナコちゃん達苦手?今朝も二人で行こうとか言ってたしさ。あの子達に好かれて困ってる?」

それは、半分真理で、半分的外れな気遣いだった。俺は苦笑いしながら「まあ、そういう事にしといて」と答え、耳のくすぐったさの余韻に浸りながら「行こう」と促(うなが)した。


岩肌と地面が半々の斜面。そこに流れているのは、幾筋(いくすじ)にも分かれてはまた合流して小さなせせらぎになる湧き水。時折行く手を阻む様に突き出ている小枝はつい掴んで体重をかけたくなるが、すぐにポキリと折れる。運動音痴のあいつとそれらは、相性がすこぶる悪かった。

濡れた箇所に何度か足を取られそうになり、その度に俺は手を貸し、肩を支え、腕を引いた。女の子の平均身長は越えているハズのあいつが、いつもよりずっと小さく思えた。

さすがにお互い汗でびっしょりになった頃、下からは先が見えなかった斜面の突端部分に着き、木々の陰を抜けると、わっと海風に吹かれた。

遙か眼下に広がる岩肌と海。そして、少しだけ突き出した崖(がけ)の手前側に、おそらくここに砲台があったと思わせる、潮風で朽(く)ちた台座があった。よく見ると、その横側からは、下に下にと崖面に沿って古い道の跡が延びている。昔はここから登って来ていたのだろうか。

あいつは台座に駆け寄り、そこから当時の人達が眺めたであろう遙か遠くの海を見渡した。「すごーい、歴史を感じるねぇ」と満面の笑みを浮かべている。

俺は、この絶景より、歴史の残り香より、そんなあいつを見られた事が何より嬉しかった。

ずっと黙ったままの俺の方を向き直り、ちょっと拗(す)ねたようにあいつが言った。

「呆れてる?理解出来ないって思ってるんじゃない?」

「違っ…。」

“ただお前を見ていただけだ“と言いたかったが、照れが勝った。会話が途切れ、改めて周囲の自然に五感が晒(さら)される。

頬(ほお)を打つ海風。潮の香り。崖面に打ち付ける波の音。空と海の青の中、あいつが浮き彫りになる。

ーーーーー好きだ。

言葉が出かかったその時、向かい合ったあいつの視線の先が、俺を通り越して更に後方にある事に気付いた。

視線を追うと、遠くの空が黒い雲に浸食され始めていた。「天気予報、晴れだったのに…」と、あいつが呟く。

「車に引き返そう。慌てるなよ、足下に気を付けて。」


下りの方が危険が多いので心配したが、予想より雨足は遅く、降り出す前に車の周囲に戻る事が出来た。

既に頭上には暗雲が立ちこめているが、なぜか皆は車内では無く、沢を挟んだ反対側の大きな木陰に集まっている。俺達に気付いたタカさんとシュウイチが、「イイジマ君~!鍵~!!」「俺達の眼鏡を濡らす気か~!!」と言い、それに応じる様に皆が石を渡って沢を横切りこちら側に戻り始めた。俺が車をロックしたままキーを持って行ってしまったので、木陰で雨をやり過ごそうとしたらしい。

小粒な雨が肩を濡らし始める。それに焦ったのか、それとも足下が濡れてしまったからか、かなりの小柄なチホちゃんと細身のヒナコちゃんが、沢の石の上でほぼ同時に足を滑らせた。

「チホ!!」

タカさんの叫び声が周囲に響く。

それは、一瞬の出来事だった。荷物を両手で持っていたチホちゃんは顔面から、ヒナコちゃんの方は後頭部から、それぞれ岩肌に倒れ込みそうになったが、ちょうどその真ん中に居たホト森が、まるで子犬二匹を持ち上げるような軽い手つきで二人の腕をそれぞれ持ち上げるように引っ張り、ひょいと体勢を立て直させ、そして自分は何事も無かったかのように沢を渡りきった。

チホちゃんに駆け寄るタカさん以外の皆はあっけに取られてフリーズしたが、どんどん強くなっていく雨に我に返り、車に急いだ。

少し遅れて、タカさんとチホちゃんが最後に乗り込んできた。

「タカ兄大丈夫だよ、落ち着いて~。」

「落ち着けるか!心臓が止まるかと思った!!」

「もう、大げさだってば…。」

「何が大げさだよ!あのままだったらチホの顔がどうなってたか…ホト森君、本当にありがとう。君は恩人だ。」

車のシートに座り込み、なおも言い合いを続けるタカさんとチホちゃん。いつもの落ち着き払ったタカさんとは全く違い、まるで幼い我が子を全力で心配する新米パパのようだ。

チホちゃんはそんなタカさんを落ち着かせようと、冗談口調で笑いながら言った。

「そうだね~、ホトさんありがとう。お嫁に行けなくなるところだったよ~。」

そのチホちゃんの言葉に、興奮状態のタカさんが返す刀で言った。

「俺がもらう!!」

突如静まり返る車内。タカさんの言葉に呼応(こおう)するかのように雨音が一気に強まり、車体を激しく打ち付ける。雨音だけが響く中、数秒してチホちゃんが口を開いた。

「あー…それもいいかもね。私、タカ兄のおじさんおばさん大好きだし、面倒な親戚も増えないしね~。結婚する?」

それは明らかな軽口だったが、言われたタカさんの顔はみるみるうちに真っ赤になっていった。それを見たチホちゃんも、「えぇ~?…え?え?」とボソボソ言いながら照れ始め、何だかまんざらでも無さそうだ。車内の気温が一気に上昇した。

二人の空気に当てられ、俺達は狭い車内でそれぞれ思い思いの方向に視線を逸らす。雨は通り雨らしく、そうこうしているうちに激しさのピークは去って行った。

発車のタイミングを探るために外を眺めていると、あいつが俺の肘をつついた。その指が、そのまま後部座席の一番後ろを示す。目を向けると、この気不味さ最高潮の車内の空気もドコ吹く風とばかりに、ただただひたすらにホト森を見つめているヒナコちゃんが居た。今まで彼女が俺を見つめていた時とは段違いの熱量で、まるで魂を持って行かれたかのような、腰が砕けんばかりの姿だった。

「何か…すごいね…ここ…。」

あいつが、俺にだけ聞こえるような小さな声で言った。

「何か…すごいな…ここ…。」

俺も、あいつにだけ聞こえるように返した。

「イイジマー!!さっさと発車~!!」

真横でタカさんとチホちゃんの熱気に耐えていたモンちゃんが、しびれを切らして言った。自分の真後ろに居るヒナコちゃんがホト森への恋に目覚めている事など、露ほども気付いていない。

俺がエンジンをかけると、皆は少しずつ平時の様相を取り戻し始めた。小雨になった道を運転しながら、時折助手席の顔を盗み見る。

完全に告白のタイミングを逃してしまったなと思っていると、ふいにあいつが言った。

「雨止みそうで良かったね。バーベキューしなきゃだし、夜は花火もするし!」

その笑顔を見て、“焦らずいこう”と、短気な自分に言い聞かせた。

民宿が近付いてきた頃、助手席の足下にあったボディバッグの中で着信音が鳴った。あいつは震えたままの画面を見て少し戸惑っている様子だったが通話に応じ、「えっと…すみません、あとでかけ直します…」と言ってすぐに切った。

その横顔は、さっきのチホちゃんには遠く及ばないが、少しだけ照れているように感じた。




つづく

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