ヤブサカ君はやぶさかでは無い
【吝(やぶさ)か】
(1)物惜しみするさま。けちなこと。吝嗇(りんしょく)。
(2)未練なさま。思い切りの悪いさま。
【吝(やぶさ)かではない】
努力を惜しまない。ためらうことなく~する。
(広辞苑第六版より引用・参考)
「ヤブサカ…。」
秋晴れの休日。ここ福岡市の中心地にありながら、周辺約二キロという巨大な池を有する、緑豊かな大濠公園。
その池に出島のように突き出した、神社を思わせる鮮やかな朱色の柱と六角形の小さな屋根の東屋(あずまや)の下。水鳥の浮かぶ水面を背景に、俺の好きな女の子が俺を見上げながら俺の名前を呼んだ。
五年前に一目惚れした、吸い込まれるような大きな猫目。その瞳に、俺が映っている。
ゆるくアップにした黒髪、クリーム色の薄手のシャツ、カーキ色のふわふわスカート。普段はほとんどスッピンなのに、丁寧に施された、けれどあくまでナチュラルな印象の化粧とほんの少しだけヒールの付いた靴が、本人の人柄を表すと同時に“今日はデートです“と物語っていた。
ずっと、その相手になりたかった。
しかし念願叶った今この時、俺を見上げるその顔には、張り付いたような笑みと冷ややかな視線がたたえられていた。
そして、俺の好きな女の子は、怒り混じりにいつもの博多弁で俺に言った。
「ウチを騙したと!?」
話は、一週間前に遡る。いや、そもそもを説明するのなら、五年前に遡る。
高校の入学式の日、中学からの友人のヒロトと一緒に行動をしていると、こちらに向かって親しげに駆け寄ってくる女子が居た。
その女子に向かって、ヒロトが俺を紹介した。
「こいつ、薮坂(ヤブサカ)。俺と同中。もともと東京なんやけど、中三からこっち。」
「よろしく、ヤブサカ!」
紹介されたそのままの呼び捨てで俺をヤブサカと呼んだ、そのちょっとアホな女子の笑顔が、まるで弓道の矢のようにターンと音を立てて俺の心を刺した。
こんな事があるのかと、俺は不思議に思ってその子をじっと見つめたが、大きな猫目で見つめ返された途端、その顔を直視出来無くなった。
その子はヒロトの父方のいとこで、名前を楓子(ふうこ)と言った。だけどヒロトは「ウウ」というあだ名で呼んでいて、それは本人が幼い頃に自分の名前を上手く発音出来ずに「ふうちゃん」が「ううちゃん」になっていて、それがそのまま呼び名として親戚の間で根付いたのだという。
初対面の日、一度だけ「ふうこちゃん」と呼んだ。
女子をちゃん付けで呼ぶのも不慣れで戸惑ったが、ヒロトと同じ名字を呼ぶのも違和感が拭えず、そして名字ならともかく下の名前に『さん』付けも何だかおかしいなとドキドキしながら試行錯誤した結果、勇気を出してそう呼んだのだ。
けれど俺の勇気に対してその子は笑顔で「ヒロトの友達やけん、ウウでよかよ!」と一刀両断し、それから今に至るまで、俺は好きな子の本名すら呼べずにいた。
だけど、今日は決めていた。
ずっと直視すら出来ずにいたこの大きな猫目を正面から見て、ずっと心の中で呼んでいた本名を呼んで、ずっとずっと黙っていた、この、胸の内を打ち明ける。
俺のヤブサカという名字の通り、未練たらたらで思い切りの悪い自分に決別すると。
一週間前、俺は決意を胸にヒロトに協力を仰いだ。ヒロトはまるで異星人でも見るような目で俺を見て、「正気か?」と俺の精神状態を気遣ってきたが、俺が本気だと分かると全面的に協力すると言ってくれた。そして、ウウに伝えてくれたのだ。
『お前に告白したいってヤツが居(お)るけん、一度だけデートしてやってくれ。今度の日曜日、午後一時に大濠公園の浮見堂で待っとるってさ。』
けれど、練りに練った俺の作戦はややこし過ぎたらしく、ウウの胸には一切響かなかったらしい。
俺の姿を確認して名前を呼ぶやいなや「ウチを騙したと!?」という言葉を発したウウは、今日の待ち合わせは単なる大がかりなドッキリか何かだと思ったらしく、すぐさまスマホを取り出した。どうやら、ヒロトに苦情を入れている様子だ。
素直に“俺がウウの事を好きだ“とは、到底思ってもらえないらしい。そのあまりの脈の無さに苦笑しつつ、しかしこんな事は想定の範囲内だと自分で自分を励ました。
そう、いちいち躓いている場合じゃ無い。何があろうと、今日、俺は告白する。
「騙してない。今日のデート、よろしくお願いします。」
スマホに落としていたウウの視線が、再び俺を見上げた。
俺達は見つめ合ったまま、まるで一瞬時が止まったように固まった。瞬きすら忘れた大きな猫目が、更に大きく大きく見開かれていく。
ふいに、何かが水面で跳ねる音がした。止まっていた時間が急に動き出したかのように、秋風に乗って池のほとりのジョギングロードから部活少年達の掛け声が聞こえてくる。ウウの口から、絞り出すように言葉が出た。
「…嘘…やろ…。」
「嘘じゃ無い。」
俺はウウの言葉を即座に否定すると、姿勢を正して一呼吸置いて自分を落ち着かせ、それからウウに向かって右手を差し出し、言った。
「ふうこちゃん、好きです。ずっと好きでした。今日は俺とデートして下さい。」
・・・・・
中二の終わり、両親が離婚した。
「お父さんと暮らすなら、このままこっちに居られる。私と暮らすなら、申し訳無いけど福岡に引っ越す事になる。あんたは再来年は高校だし、行きたい学校があるなら残るのも自由だけど…できれば、私にしときなさい。」
そう言った母親の言葉に従い、半分アル中のような父親に別れを告げ、母親と俺と弟の三人で、母親の地元・福岡市に引っ越した。
友人達との別れや慣れない土地での暮らし、そして若い世代にも根付いているディープな方言に戸惑ったけれど、父親の顔色を伺って生活する息苦しさや年の離れた弟を父親からかばう必要が無くなったので、総合的には快適な新生活だった。母親は薬剤師で手に職があったので、離婚しても金銭的に不自由する事は無く、転校初日に人なつっこいヒロトと近くの席になった事をきっかけに新しい友人も沢山出来た。
ただ、大学からは東京に戻ろうと、漠然と考えていた。地元への未練もあったし、地方と東京では人生における選択肢の幅が違う。
けれど、その漠然とした考えの後ろ髪を引っ張っていたのが、ウウの存在だった。
保護者が不在がちな我が家は中学生の溜まり場に最適で、度々ヒロトやその周りの友人達と集まって受験勉強やゲームをしていた。その流れで、高校生になってからはウウも時々ヒロトと一緒に家に遊びに来るようになった。
ウウもヒロトも、大変に人なつっこい。いとことは言え異性なのに高校生になっても仲良くしている所からして、そういう部分がフラットな一族なのだと思う。
そしてヒロト曰く、「ウウは年の離れた兄ちゃん達にめちゃくちゃ甘やかされて育ったけん、末っ子丸出しやもんな」と。確かにウウは人に甘えることに一切の躊躇が無いし、ワガママでマイペースで、うるさいほどに明るい。そして、そんな自然体なウウと一緒に居ると楽しかった。
それから、末っ子丸出しなのにと言うべきか、末っ子だからこそ逆にと言うべきか、ウウはかなりの子ども好きだった。まだ小学生の俺の弟を何かと構ってくれて、なかなか福岡の生活に馴染めずにいた弟はあっと言う間にウウに懐いた。俺抜きでも弟と二人でゲームをしたり公園に出かけたりと、俺の母親も「あれ、ウウちゃんってあんたの彼女じゃ無かったの?いっそお嫁に来てくれればいいのに」と笑っていたくらいだ。
そんなウウに、俺は人知れず夢中だった。けれど、男女問わず友人の多いウウにとって、俺はしょせん“ヒロトのツレ“でしか無いという事は、その態度や言葉の端々で痛いくらいに伝わってきた。
ヒロトとウウの事はもしや恋仲かと疑った事もあったが、遠回しにヒロトに探りを入れると、「女のきょうだいが居ないヤツには分からんかもしれんけど、あいつは姉ちゃんや妹と同じったい!」と、心底嫌そうな顔をしていた。周りからカップル的な扱いをされる事はよほど心外で、ヒロトにとってのウウは異性というカテゴリーには含まれないらしい。
そして実際、それはウウの方にしてもそうだった。
ウウに一目惚れをして数ヶ月後、休日にヒロトと二人で出かけた博多駅の映画館で、二学年上の先輩とデートをしているウウを見かけたのだ。
「ふうこちゃーん。」
ウウなんてふざけたあだ名じゃ無い、ちゃんと本名を呼びながら駆け寄ってくる先輩に向けられた、可愛い照れ笑い。そしてそのウウは、俺達と一緒にゲームをしている時とは明らかに違う、“ちゃんと女の子“した装いだった。
その光景に呆然と立ち尽くす俺の隣で、ヒロトが言った。
「あー、何か先輩に映画に誘われたとか言いよったな。今日やったんか。あいつ、結構年上からモテるっちゃんね。」
そしてヒロトは、「でも、どうせすぐ駄目になるとって。あいつ、変な所で潔癖やけん」と、継げ足した。
どうやらウウは中学生の時にもデート相手が居た事があるらしいが、異性との交際でするような事、いわゆるキスやそれ以上の事全てひっくるめて、絶対的な拒否の構えを取るそうだ。そのくせ異性の友人は多く、いとことは言えヒロトともべったりだ。それは相手の男は心が折れるだろう、と。
“どうせすぐ駄目になる“のなら、いつかその順番が俺に回ってきてはくれないだろうか。
先にヒロトと親しくなった俺なら、ウウがヒロトと一緒に居ても気にならない。ウウが嫌なら、キスもそれ以上の事もできなくったって構わない。あの、吸い込まれるような大きな猫目で、可愛い博多弁を喋りながら、楽しそうに笑ってくれればそれでいい。だから、俺の彼女になって欲しい。
そんな事を思うくらい、俺はウウに惚れていた。
そしてヒロトの言う通り、それからウウとその先輩は度々一緒に居る姿を目撃されていたが、「手を繋いでこられたんやけど、何か嫌やったっちゃんね~」というウウの言葉で、付き合う前に終わった事を知った。
けれどその後すぐ、ウウは同じ図書委員だった一学年上の先輩と本の趣味が合うとかで急激に親しくなり、二人はあっという間に校内でも公認の仲良しカップルになった。そして俺は、それからしばらくして告白してきてくれた女の子と付き合った。
OKしたのは、正直に言って心の隙間の埋め合わせと、そして産まれて初めて女の子から告白された事に対する舞い上がりだったと思う。けれどそれと同時、その初めての彼女を大事にしようと思う気持ちもちゃんとあった。
ヒロトが羨ましがるくらい可愛い子だったし、ウウみたいにキツい方言でもないので話しやすく、今時珍しいくらい控え目で良い子だった。けれど俺の胸の真ん中にはずっとウウが住み着いたままで、どんなに追い出そうとしても、あの猫目の笑顔が堂々と居座り続ける。
彼女と付き合って何ヶ月経っても、彼女からの「補習おつかれさま♥」という可愛らしいメッセージより、ヒロト達とのグループメッセージに送られてくるウウからの馬鹿で下らないお笑い画像の方を心待ちにしている自分が申し訳無さ過ぎて、結局、その彼女とは何の進展も無いまま別れた。
二年生の夏休み前、本格的に進路を決め始める時期になり、学校帰りに皆で寄ったハンバーガー屋で進路希望の紙を突き合わせながら話をした。ウウは、地元の女子大か短大に行って保育士になるらしい。女子大と聞いて何だか少し安心している自分に気付くと同時、どうせ俺には関係無いのにと心の中で苦笑した。
そしてウウから言われた言葉に、本当に今更ながら、ハッキリとしたショックを受けた。
「ヤブサカはウチやヒロトと違って、特進クラスやん?これからはあんまり遊べなくなるとやろね。でも、東京の大学に行きたいっちゃろ?頑張りぃ。」
とっくに分かっていたつもりだった。ウウにとっての俺は特別な存在でも何でも無い、異性も同性もひっくるめた友達の一人に過ぎないのだと。“それでももしかしたらいつかは”と、告白する勇気も無いクセに、未練たらたらに想っているのは俺の方だけだ。
なのに途端に空しくなって、そのままの勢いで第一志望の欄に記入済みだった『福岡大学 薬学部』の文字を消した。そして『日本大学 薬学部』と書き込もうとしていると、それを見ていたウウが焦って言った。
「え、福大に行くつもりやったん!?嘘、嘘、嘘!なんで消すと?あっちに帰りたいんやって思っとった。嫌やないんやったらずっと居(お)ってよ、福岡に。」
そして次に続いた言葉と猫目の笑顔に、俺の笑ってしまうほどに安いハートは再び射貫かれたのだ。
「ヤブサカが好きになってくれて、ばり嬉しい!」
もちろんウウが言ったのは俺の恋心の話ではなく、福岡の事でーーーーー。
けれどそれを百も承知の上で、それでも俺の方こそ“ばり“嬉しかった。
・・・・・
どうにかウウをなだめて乗った手こぎボートの上、程良い距離感に腰を下ろしている猫目はずっとそっぽを向いたまま、時折チラチラと横目でこちらを伺いつつ沈黙を貫いている。
「…そんなに意外だった?」
ボート小屋が遠ざかった頃、オールを漕ぎながら話しかけると、ウウはその質問には答えず、進行方向奥を見ながらまるで独り言の様に言った。
「このボート、カップルで乗ってあの橋をくぐると別れるってジンクスがあるとって…。」
「は…?いやいや、そんなのただの迷信だろ…。」
迷信と言いつつ慌てて舵を横に切った俺を意地悪く笑って、ウウはやっと正面を向いた。
俺は負けじと話を続ける。
「東京の上野公園や石神井公園にも似たような噂があるよ。だけど、例えば大体の既婚者って、結婚する相手と出会うまでに何人かと付き合うケースが多いだろ。つまり、この世に存在する恋人同士はそもそも別れる方が多いわけ。アホらしい。」
「そうやね、彼氏彼女が別れるなんてよくある話やもん。ウチだって別れたばっかりやし。」
自虐的な笑いを浮かべ、ウウが言った。
ウウと先輩の仲は卒業後も続いていたが、先月破局した。ウウの方から別れを切り出したらしいが、まるで振られた側のような弱りっぷりだとヒロトが言っていた。五年も付き合った相手との別れなのだから、どんな形の終わり方にせよダメージを受けるのは当然かもしれない。
そう、五年。
その五年の間、俺の心の中ではずっとウウへの気持ちがくすぶり続けていた。
結局、福岡大学を選んだのは、東京の父親とは今更一緒に暮らす気にもなれなかったし、これから弟にかかる学費の事を考慮して一人暮らしを諦めたからで、決してウウの事だけが理由じゃ無かった。ただでさえ学費の高い私立の理系、それも薬学部で六年間もかかるのだから。
大学に進学してからも高校時代の友人達との付き合いは続いたけれど、もちろん会う頻度は格段に減った。ウウの事もきっと会わなかったら気持ちが薄れるだろうと、心機一転、彼女を作ろうと気持ちを切り替えた。
そして彼女はあっさりと出来た。入学式の日、SNS内の『福岡大学新入生限定』というコミュニティで既に知り合っていたメンバーで集まった際、その集合場所に現れた十数人の新入生の中、一人、ほんのちょっとだけウウに似た猫目の女の子が居たのだ。
つい気になって見ていると、相手の方から急接近してきた。あっという間に付き合うようになり、あっという間に初体験をして、そして夏が来て秋になる前に「もっと構って欲しかった」と言う理由で浮気されて終わった。泥沼にならずにあっさりと別れる決心がついたのは、結局俺の心の中にはまだウウが居て、彼女に対する罪悪感がずっとあったからだった。
その浮気した元彼女は、何故かしつこく復縁を迫ってきて、それから半年近くストーカーのようなつきまといに遭った。女性不信になりかけていた頃、バイト先の飲み会で酔い潰れた女性社員にお願いされて自宅アパートまで送った。相手から誘われ、半分自暴自棄だった俺は関係を持った。
「本当はずっと好きだったんだ。でも、私の方が年上で恥ずかしいから言えなかったの。」
翌朝、顔を赤らめてそう言った“あやねさん”が可愛くて、それから俺達はズルズルと付き合うようになった。
バイト帰りに時々泊まらせてもらうようになり、やがて合鍵をもらい、一緒に過ごす時間が増えた。少しギャルっぽい外見とは裏腹に照れ屋なあやねさんは、年上なのに甘え好きで、でもちゃんとしっかりと自分の意見を持っていて、料理上手で、優しくて。
俺は、初めて楽しいと思える恋愛をした。
なのに、五年も前に俺の心を射止めたあの矢はまだ刺さったまま、一切朽(く)ちてはいなかったのだ。
あやねさんと付き合いだして、数ヶ月が経った頃。久し振りに集まった高校の友人達との食事の席でウウと顔を合わせた途端、なぜか自分が酷く汚れた人間のような気がして、得体の知れない罪悪感に襲われた。もともと直視出来無かった猫目があまりに眩く、同じテーブルに存在する事すら許されないと感じたほどに。
こんな事があってたまるかと、自分で自分が理解出来無かった。そして同時に、認めるしかなかったのだ。
会わないまま時間が経とうと、どんな恋愛をしようと、俺はやっぱりウウの事が忘れられなくて逃れられなくて苦しくて痛くてーーーーーこの刺さりっぱなしの矢を抜くには、ちゃんと自分の気持ちに向き合うしか無いのだと。
その足でそのままあやねさんのアパートに向かい、一部始終を説明して土下座した。
あやねさんは泣き笑いしながら、「そんなの黙ってたら分からないのに、その子にフラれたらこのまま私と一緒に居ればいいじゃん」と言った。
俺は、「好きな子にも自分にも嘘をつきたくない、そしてあやねさんにも幸せになって欲しい」という言葉と一緒に合鍵を返した。その夜なかなか寝付けずにスマホをながめていると、あやねさんから最後のメッセージが届いた。
『真面目だね。でも、そういうところが好きだった。ありがとう。』
しばらくしてバイト先で顔を合わせたあやねさんは、この数ヶ月間が無かったかのように、以前と変わらず笑顔で接してくれた。
結局、俺が腰抜けだったせいで、こんなに良い人まで傷付けたのだ。
とっとと振られていれば良かった。あの、どうしようも無いくらい子どもだった五年前、真っ向から傷付くのが怖くて、自分可愛いさに逃げた代償が今だ。
もう逃げない。例え男として見られていなくても、長い付き合いの彼氏が居ても、何がどうなろうと何年経とうと、俺はこんなにもウウが好きだ。いつまで同じ場所で足踏みを繰り返すのか。
このどうしようもない恋心は、当たって砕けて、屍になってしまえばいい。そして成仏させなければ、俺の人生は前に進むことが出来無いのだから。待っているのが奈落の底だろうとやぶさかではない、一歩、男として踏み出すのだ。
いざ告白しようと決心し、ウウに連絡を取ろうとしたその時、ヒロトからメッセージが入った。
それは、俺が早々と抜けた食事の席で肩代わりを頼んでいた会計の金額と、そして『あの後カラオケに行ったけど、先輩と別れたてのウウが慣れない酒を飲んで暴れて大変だった』という寝耳に水の報告だった。
俺はそのまま通話ボタンを押し、ヒロトを呼び出して全てを打ち明けた。
告白するだけで諦めようと思っていた。ウウには仲の良い彼氏が居るのだからと。だけど今、隣に立つことが許されるのなら、例え結果が変わらなくとも、たった一度でもいい、二人きりの思い出を作りたい。
そうしてやっと迎えた今日は、一ミリも無駄には出来無い。
・・・・
ボートの制限時間は三十分。あっという間に、その三分の一が経とうとしている。
向かいでむくれている猫目に、優しい口調で再度語りかけた。
「傷心中に誘って悪かったよ。でも、ちょっとでも気分転換になれば嬉しい。愚痴でも何でも聞くし、やりたい事があれば付き合う。」
俺のその言葉にウウが反応し、「愚痴やなくて相談やけど…」と切り出した。
「ウチは…これからどうしたらいいんやろうか。」
唐突に切り出されたその相談は、あまりにスケールが大きすぎて全く要領を得ない。俺は、ゆっくりとオールを漕ぎながら応じる。
「どうしたらって、何か困ってるのか?」
「ウチ、誰かと付き合って、それからいつか結婚するかもっていう、そういうビジョンが全く見えんの。まだハタチだからとかそういう事や無くって、その…。」
ウウはそこまで言って、急に恥ずかしそうに口ごもった。ウウの視線を追うと、進行方向に親子連れの乗ったスワンボートが接近していた。俺は方向転換してからウウの言葉の続きを待った。
「…絶対笑わんとってね。引いたりとかも、絶対せんって約束して?」
その言葉に俺が真剣な顔で頷くと、ウウは目線を逸らしながら話し出した。
「あのね、ウチ…その…先輩とーーーーーいや、えっと、その…ウチはーーーーー。」
歯切れの悪い言葉に耳を澄ますように、オールを漕ぐ手を止めた。
向かい合ったウウの背後、紅葉した樹々に縁取られた大濠公園の池の中、恋人や家族の乗ったボート達が思い思いに浮かんでいる。きっと俺達も、周囲からは恋人同士に見えるのだろう。思わずそんな事を考えていると、ウウが思い切ったように一気に言った。
「要するに、ウチはまだ処女とって!!」
その言葉の破壊力に、思わずオールを握った手がブレた。オールが受け側の支柱におかしな角度で当たり、ガチャリと大きな金属音を立てる。その瞬間、近くで水鳥が羽ばたいた。
慌てて体勢を立て直し、必死に平常心を装う。
「あー…えっと、その…。」
けれど上手い言葉が見付からず、まるで先程までのウウの歯切れの悪さが今度は俺に移ったかのように入れ替わり、ウウはそのまま饒舌に語った。
「ウチ、歳の離れたお兄ちゃんばっかり三人居(お)って、自分でも甘やかされて育ったって自覚があるくらいブラコンなん。それで、彼氏が出来ても、お兄ちゃん達にするみたいに甘えるのは出来るんやけど、でもーーーーーだって、それって変やろ?お兄ちゃんとはそういう事、絶対せんやん?だから、先輩とも、そういう関係になれんくって…。」
「その状態で五年も付き合ってたのか!?」
思わず俺の口を突いて出た疑問に、ウウは半ばやけっぱちな態度で答える。
「それで先輩に申し訳無くなって別れたんやもん!それが何か悪かと!?」
「ごめん、ちょっとびっくりしただけだって。悪くない、悪くないから一旦落ち着けよ…。」
興奮状態のウウをなだめようとしたが、俺のキャパオーバーギリギリの頭は上手く回らない。ウウの暴走は止まらず、一際大きな声で続けた。
「ウチだって…ウチだって、興味が無かわけじゃないもん!いつかは子どもも欲しいと思っとるし、彼氏とちゃんとエッチしたかとってば!!」
気が付くと俺達は周囲のボート客の注目の的になっていて、気まずさの固まりになったボートの上で動けずに居ると、一人乗り用のサイクル式アメンボボートに乗ったサラリーマン風の男が口笛を鳴らし、「兄ちゃん、がんばりぃ~」と笑いながら颯爽と消えていった。
その直後、池の周りに設置されたスピーカーから俺達のボートナンバーが呼ばれ、終了時間まであと十分を切った事が告げられた。
・・・・・
「とにかく、ウチの事は諦めて!ウチにはまともな男女交際とか無理とって!」
逃げるようにボートを降りたウウは、一度もこちらを振り返らないまま、どんどん公園内の歩道を進む。並んで歩こうとすると逃げるので、その少しだけ小走りの歩調に合わせつつ、半歩だけ引いて追った。
諦めてと言われて諦められるくらいなら、今日の俺は今ここには居ないだろう。ウウの背中に、負けじと応戦する。
「俺を断る理由がそれだけなら、諦めない。」
「しつこかとって!福岡は“女余り“の街なんやけん、女の子なんて他にいくらでも居(お)るやろうもん!」
「関係無い!俺はふうこちゃんが好きだ!」
「それ、恥ずかしいけんやめて!!」
名前に反応したウウが、やっと足を止めて俺を振り返った。急に立ち止まられ、まるで抱き寄せたように軽く身体がぶつかった。至近距離でこちらを見上げる卵形の綺麗な輪郭の中心、大きな猫目が俺を見上げている。
「分かった、そんなに嫌なら名前は呼ばない。ウウでもふうこちゃんでも何でもいい、とにかく俺は、本当はずっと好きだった。諦めたくないし、もし先輩と別れたばかりで気持ちの整理がつかないって言うならいくらでも待つ。だから、俺の事が嫌いじゃないなら一度考えてみて欲しい。」
「…ヤブサカ…皆、こっち見とるよ…。」
秋晴れの空の下、休日の公園は当然のように沢山の人達で賑わっていて、近くのベンチで談笑中だった女の子達も、ウォーキング姿でストレッチ中のカップルも、遠巻きにこちらの様子を伺っている。
人目なんか今更だ。気にしている場合じゃ無い。一番伝えたかった事をきちんと言い切り、ウウの返事を待った。
ウウは赤い顔のまま黙って、周囲の視線に耐えかねたようにゆっくり歩き出した。
返事は無い。
だけど、今度は俺が隣に並んで歩いても逃げなかった。
やがてメインの歩道から逸れ、樹々に囲まれた遊歩道に出た。周囲の人影が一気に少なくなり、呟くようにウウが言った。
「ずっとって…いつからと?」
「高校一年の時、入学式で初めて会ってから。」
俺がそう答えるとウウは驚きの声を上げ、そして再び立ち止まり、言った。
「ヤブサカはそこで止まっとって!!」
そして何を考えているのか突然走り出し、池に沿って少し曲がっている遊歩道の、その曲線の先端部分で足を止め、くるりとこちらを振り返る。
「この道、このまま真っ直ぐ行ったら幼児向けの遊具があるところに出るとよ。そこがゴール。今から“じゃんけんグリコ”して、もしヤブサカが先に着いたら考えてみる。でも、ウチが勝ったらきっぱり諦めて。」
小学生かよという言葉が口を突いて出そうになったが、思いがけず降って湧いたチャンスを逃すものかと必死に口をつぐみ、激しく首を縦に振った。
きっとこれは、俺を諦めさせるための口実だ。けれど、思い切りハンデを付けられていようと、もとからフラれる覚悟で今日に挑んだこの俺は、全力でウウの提案に乗るしかない。
ーーーーーさーいしょーはグー。
ーーーーーじゃーんけーん…ぽい。
初回はグーで負けたが、その後は二回連続でチョキで勝ち、人生最大の大股開きで“チ・ヨ・コ・レ・イ・ト”と二度飛び跳ねた。進んだ先、ウウの背後に曲がり道の先の光景が見えた。
やたらと子どもの声が聞こえるなとは思っていたが、ウウの言った“幼児向けの遊具があるところ“は想像よりずっと近く、俺が十回も負けてしまえばそれで終了という距離だった。
そんなに俺を諦めさせたいのかと少し重い気持ちになりながら、次のじゃんけんをするために手を挙げた。
ーーーーーじゃーんけーん…ぽい。
パーであいこ。
その時、俺はやっと気が付いた。
ウウが出しているのは、ずっとパーだけだ。
ーーーーーあーいこーで…しょ。
信じられない思いで、チョキを出した。
ウウはやっぱりパーのままだ。
そのまま何度目かのじゃんけんでウウを追い抜き、俺の方が振り向く形になった。
ウウは照れた表情を浮かべたまま、パーを出し続ける。
まるで、夢をみているようだった。
やがて俺はゴールをすると、余韻を楽しむ時間すら惜しいと即座に踵(きびす)を返し、ウウのもとに全速力で引き返した。
ゴールテープを切ったマラソンランナーのように抱きしめたい衝動に駆られたが、必死に自分を抑えながらウウの目の前で急停止して思わず名前を叫ぶ。
「ふうこちゃん!!」
「恥ずかしいけんやめてって!」
「ごめん。でも、その、俺、めちゃくちゃ嬉しい!ありがとう!!」
「“考える“だけやって!その…ヤブサカの事は友達としか思っとらんかったし…でも、やけん、お兄ちゃんみたいとか思った事も無いけん、もしかしたら上手くいくかもって…。あくまで考えるだけで、付き合うとは言っとらんけんね!」
そう言って、真っ赤な顔で口を尖らせている猫目が可愛すぎて、俺は我慢出来ずに向かい合ったまま両手を取った。
「それで充分!!」
振りほどかれるかと思った両手はそのままで、そしてほんの少し、ともすれば気付かないような本当にほんの少しの力で、そっと握り返してくれた感触が伝わってきた。
「やっぱりふうこちゃんって呼びたい!ふうこちゃん!!」
俺は勢いに任せて名前を呼んだ。
ウウは観念したように拒否するのをやめて、「ウチが名前で呼ばれて、ヤブサカが名字のままじゃ変やろ」と言って、小さい咳払いを二回し、じっと俺の顔を覗き込んだ。
両手を繋いで向き合ったまま、大きな猫目が、真っ直ぐに俺を捉えて言った。
「シュウ君…。」
それは消え入りそうなくらい小さな声で、けれど今まで聞いた全ての言葉の中で一番大きな幸せを俺の耳に運んでくれた。
前途多難な恋かもしれない。
やっぱり無理だと、明日にも断られるかもしれない。
それでもーーーーー。
「ヤブサカ」では無くなったこの日を、俺は絶対に忘れない。
ヤブサカ君はやぶさかではない・完
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