だけど願いはかなわない 第十一話「女郎蜘蛛の暴走」
〜五年前〜
「それにしても、肩透かしなくらい素早い決着だったな。お前に頼んで良かったよ。」
離婚届の妻の欄に書かれた『鬼塚真央』という自筆サインを確認し、安堵のため息を漏らしながら礼を言った。
テーブルの向かいでは、熊似の男が小型のバケツみたいなサイズのカフェ・オ・レにせっせと角砂糖を投入している。
「いや~、今回は僕じゃなくても直ぐに和解に持ち込めたと思うよ~。鬼塚君ってば、諸々の証拠をちゃあんと押さえてたからねぇ。」
その熊が、いつもの間延びした口調で返した。熊は人間名をタナカタケシといい、俺とは大学時代のサークル仲間だ。弁護士らしからぬ見た目と喋り方なのだが、三代に渡って弁護士という家系で、仲間内では『困った時のタナカタケシ』という合言葉で重宝されている。
「そんな事は無いだろ、妊娠したなんて嘘つくようなタチの悪い女だぜ?実際、弁護士挟むまでは散々だったし。俺としてはもっと揉めるのを覚悟してたんだがな。」
言いながら、胸ポケットのタバコに伸ばしかけた手を止めた。壁の注意書きに、以前は無かった『店内禁煙』の文字がある。吸えると思ってわざわざこの店を指定したというのに、全く、喫煙者には肩身の狭い世の中だ。
テラス席への移動を提案しようとして熊の顔に目を向けると、何やら神妙な顔を浮かべて考え込んでいる様子だった。
俺の視線に気付いた熊が、ゆっくりとその口を開く。
「…彼女、鬼塚君から搾り取れないと分った途端、あっさり引き下がったよ。あれは天然のセミプロ詐欺師だ。」
熊はそこまで言うとカフェ・オ・レを一口味見し、不満げに角砂糖を一気に五個追加した。もはや『砂糖味の茶色い何か』に成り果てた液体を嬉しそうにすすり、そして再度神妙な顔を取り戻してから言葉を続ける。
「たまに居るんだよね~、そういう人間がさぁ。まるで息をするかのごとく他人を養分にするし、それを悪い事だなんてちぃっとも思ってない。怖い怖い。ただ、妊娠話を持ち出したのは、上手くいけばまとまった金が手に入るかもって程度の軽い気持ちだったんだろうねぇ。それが、まさかその日のうちに結婚までいくなんて、彼女はむしろ鬼塚君の底の見え無さに震えてたと思うよ~。」
アハハハハ、と、熊は自分の腹を揺さぶりながら笑った。
「おい、弁護士。依頼人の災難を笑うんじゃねぇよ。」
「ごめんごめん。とにかく、これで済んで良かったよ。僕の経験上、彼女みたいなタイプは金銭が目的じゃ無くなった時の方が怖いんだよねぇ。例えば、完全に支配下に置いたと思っていた相手が刃向かってきた時、モメにモメるの。しょせんセミプロ止まりなのは、そこ。プライドがズタズタになるんだろうなぁ~、現実を認めきれずに暴走しちゃう。鬼塚君に対しては、もともと自分がコントロールできる相手じゃ無いって肌で感じてたのさ。」
「そんなもんかね、ゾッとしねぇな。ま、俺はこれで縁が切れればそれでいいけどよ。つまりあれか、そういう人間にはナメられたら終わりって事か。」
熊は俺の言葉に「ふふふ、そうだね」と、温和そうに笑って答えたが、しかしその目だけは弁護士らしい静かな眼光をたたえていた。
・・・・・
「嬉しい…ハルキさんみたいな素敵な人と結婚できるなんて、夢みたい。」
結婚を決めた時、真央はそう言って涙を浮かべていた。
あれはただの演技なのか、それとも、その時の気持ちは少しくらいは本当だったのか、今となっては分らない。
真央は、自分の実家への挨拶はしないで欲しいと言った。虐待されて育ったと聞いていたので違和感は無かったけれど、おそらく今考えるとその話も嘘なのだろう。自分にとって都合の悪い事実が露見するのを怖れて、実家と僕の繋がりを持たせなかったのだ。事実、彼女はバツイチで前夫とは死別だったと言っていたが、結果それは嘘だったのだから。
最初の出会いは、友人からだまし討ちのようにして連れていかれた合コンだった。
ただの友人同士の飲み会だと聞かされていたので驚いていると、幹事が申し訳なさそうに耳打ちしてきた。
「スマン!独身で女受けがいいのってお前くらいしか残って無いんだよ、今日だけ付き合ってくれ!」
『元グラビアアイドルの卵達』だという女性陣は、確かに一般女子の中では頭一つ抜けて目立っていたけれど、合コンの場も派手目な女性も苦手な僕は、終始上の空だった。
帰り際に連絡先を聞いてきたのは真央の方からで、断るのも悪いかなという程度の気持ちで連絡を取り合うようになった。
度々、パソコンにうといので選ぶのを付き合ってくれませんかとか、僕が好きそうなお店を知っているので一緒に行きませんかといったお誘いを受け、二人で会う回数が多くなった。そのうちに、彼女が未亡人である事や被虐待児出身である事、それから、意外と料理好きで家庭的な事を知り、辛い過去があるのに明るく振る舞う姿勢や派手な見た目とのギャップから好意を抱き始めたのだ。
ーーーーー それらの話も、結婚前に見せていたしおらしい態度も、おそらく全部が嘘だったというのに。
…いや、少なくとも、料理好きな点だけは本当だった。
けれどそれは、熱がある日でも彼女の手料理を残せば泣いて責められ、僕の方が夕食を作れば「自分の方が料理が上手だって言いたいの?」と激しい怒りを向けられるような、悲惨な食卓だったのだけれど。
・・・・・
お粥を作ってきてくれるというスミちゃんの言葉に甘えて再び横になっているうち、大分薬が効いてきたらしく酷い倦怠感が和らいでいった。
それでも頭はクリアな状態とまではいかず、スミちゃんの家に居るという非現実感が手伝って、まるで夢でも見ているような気分だ。
夜通し外で過ごしたあの日以降、風邪をこじらせて仕事を休んでいた僕は、治りかけで出社した際に同僚からインフルエンザをもらってしまったらしく、それまでとは段違いの高熱に襲われた。そのタイミングでスミちゃんからお別れのメッセージが届き、半ば覚悟していた事とはいえその精神的ダメージはあまりに大きく、独り寝のアパートで潰れていた所、スミちゃんの同居人のあおい君から先日交換したままになっていたコートの件で連絡が入った。
高熱で今は動けない旨をたどたどしい文章で返すと、何と彼は直ぐにやって来て僕を受診させてくれ、その足でそのままスミちゃんと暮らす自宅に連れて帰ったのだった。
「帰っても一人でしょう?急変したら危ないから、俺の部屋で寝てて下さい。インフルエンザは侮れないです。」
そう言う彼に、僕は重い頭を必死に働かせながら「僕はもうフラれたようなのでダメです」と説得したが、彼は「俺が俺の家に友人を連れて行くのに何か問題でも?」と引かなかった。
これはあおい君の純粋な親切というだけでは無く、何か意図があっての事だと感じたが、とにかく、どんな理由にせよまたスミちゃんに会えた事は嬉しかった。彼女の態度から僕を心底拒否しているわけでは無さそうだと分かり、思わず嬉し泣きしそうになった程に。
ふと喉の渇きを覚え、まだ少しふらつく身体をゆっくりと起こしてリビングへのドアを開けた。途端、僕の詰まった鼻でもそれと分る程の焦げ臭さに襲われる。
リビングからL字型に突き出したキッチンの方へ慌てて向かうと、そこには焦げた鍋を水に漬けながら困り果てているスミちゃんの姿があった。僕に気が付き、バツが悪そうな顔を浮かべている。
「ハルキ君、ごめん。お粥失敗しちゃった…お茶漬けでもいい?」
「それよりスミちゃん大丈夫!?どうしたの!?」
「私…料理が苦手で…でも、お粥なら煮るだけだと思ったんだけど…何で失敗したのかも全然分らない…。」
いつもの凜とした雰囲気と違い、もじもじと恥ずかしそうにしているそのギャップに、思わず胸が跳ねた。
クリーム色の大きめのパーカー、化粧っ気の無い顔、ラフに結った髪。僕が知っているスミちゃんと違う、けれどとても愛らしいジュンちゃんが、今、僕の前に居る。
このまま抱き締めてしまいたい衝動に駆られたが、自分の病名と、そして昨日スミちゃんから送られてきた『今までありがとう』というメッセージが頭をかすめ、自分を抑えた。
その後スミちゃんは、僕がお茶漬けを食べているテーブルの斜め向かいに座り、普段はあおい君が炊事担当で自分はたまにご飯を炊くくらいだとか、その代わり食器洗いや掃除は自分がしているとか、何だか言い訳のような話を必死にしてきた。僕はそんなスミちゃんに口元が緩みっぱなしだった。
「…別に、料理なんか出来なくっても死なないからいいもん。あおいちゃんだって、正直そんなに上手ってほどでもないから買ってくる事も多いし。」
その、「もん」というスミちゃんらしからぬ口調があまりにも可愛くて思わず吹き出すと、スミちゃんは笑われたと思ったらしく益々むくれて僕に背中を向けた。
僕はむせた喉を整えながらゴメンゴメンと謝って、それから ーーーーー 。
それから、彼女の背中を見て、ついこの間までこの腕の中にあったのに遠いなと、キュッと胸が詰まった。
「スミちゃん。」
その小さく華奢な背中に向かって、名前を呼んだ。スミちゃんは黙ったままそっぽを向いている。
僕が本当に「ゴメン」と言いたいのは、こんな事じゃ無い。
けれど、僕が彼女にした事は、謝る事すら許されないのかもしれない。相手の望まない謝罪は、時にただの自己満足にしか過ぎないだろう。
いや、自己満足どころか、何の非も無い相手に「許してあげなければ」という重荷を背負わせてしまう事すらあるのだから。
だけど ーーーーー それでも、今日を逃したら、僕はきっと一生後悔するだろう。
「スミちゃん、僕の話を聞いてくれますか?僕は、スミちゃんに謝りたい事が沢山あります。」
そっぽを向いたままの背中は僕の言葉に静止し、無言で固まった。
僕の口から次の言葉が出かかった、その瞬間。
スミちゃんのスマホの着信音が激しく響き、張り詰めていた空気は一瞬で吹き飛んだ。通話を受けたスミちゃんは、一言二言交わすとスマホを片手に持ったまま立ち上がり、慌ただしくリビングのカーテンを引いた。
スミちゃんは通話の相手に「分かった、ちょっと待ってて」と言い、今度は僕に向かって「ハルキ君はそこに居てね、窓際には絶対行かないで」と言うと、小走りにあおい君の部屋に入っていった。再度、カーテンが引かれる音が聞こえる。
それから、スミちゃんはリビングを挟んで反対側の、おそらくスミちゃんの部屋のドアを開けた。薄いブルーの壁紙のその部屋は、ちょうど僕の座っていた位置からよく見え、思わず視線が釘付けになる。
部屋の中心に陣取っている、彼女が一人で使用しているにしては不自然なサイズのベッド。それを囲むように、女性向けらしからぬデザインのウッディ調の重厚な本棚が壁一面に設置され、和洋様々な書籍が敷き詰められている。そして、その本の合間やベッドサイドに飾られた、アメリカドラマで見るような、沢山の写真、写真、写真。
それらは遠目にも、おそらくほとんどは同じ人物が、あるいは一人で、あるいはスミちゃんらしき女性と写っている事が見て取れた。
三度目のカーテンを引く音が響いてスミちゃんが姿を現し、後ろ手でパタンとドアを閉めると、その部屋の独特な空気は舞台の幕を下ろすようにシャットアウトされた。
それからスミちゃんは、僕の方を向き直り、通話の相手はあおい君だと説明した後、自分を落ち着かせるようにして一呼吸置いてから、言った。
「ハルキ君の奥さんが、このマンションの前に居るみたい。今も。」
つづく
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