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だけど願いはかなわない 第六話「三者面談」(後編)


「あんた、イズミさんって言うのか…。」

初めて鬼塚さんの自宅を訪れた日、「わざわざこんなのいいのに」と言いながら私が持参した履歴書を手にした鬼塚さんは、そこに書かれた名字を口にしながら苦笑いした。

出水純(イズミジュン)、これが私のフルネームだ。

「…仕方ないか。じゃあ、イズミさん、ね。俺の事は先生呼びはやめてくれ。鬼塚さんでいいよ。」

本名に対して仕方ないとは随分な言われようだと、私も苦笑いを返しながら質問した。

「私の名字に何か問題でもありますか?」

「いや…まあ…。」

鬼塚さんは答え辛そうに頭を掻き、それからポツリと呟くようにこぼした。

「元女房の下の名前と同じなんだよな。」

想定外の答えに思わず吹き出してしまった私は、慌てて表情を取り繕い、その場をごまかす様に少し早口で言った。

「良かったら、私の事はジュンでどうぞ。」

その後鬼塚さんの元で働いていくうちに、三度の離婚歴がある事と、イズミさんは学生結婚をして一番長く連れ添った最初の奥様だったという事を知った。

未練というのとはまた違うのだろうが、離婚して十年近く経ち、その間に二回も結婚をしているというのに、未だこうして名前に反応するくらい特別で複雑な存在なのだろう。

私にとって『特別な人』は今も昔もただの一人だけなので、元夫婦や元恋人同士がお互いにどんな感情を抱くものなのか、想像でしか分らないけれど。


・・・・・


目を覚ますと病院のベッドの上で、腕には点滴の管が繋がれていた。カーテン越し、周囲の慌ただしい様子が聞こえてくる。ここは救急外来の処置室のようなところなのだろうか。入院用の病室とはまた違った雰囲気だ。

無意識に目を掻こうとしたが、持ち上げた右手がズキリと痛んだ。

ーーーーー ハルキ君とは、お別れをしよう。

その決意に迷いは無かった。彼の気持ちには気付いているし、それは半ば私がそうなるように仕向けたという事、そして私自身も憎からず思っている事は否定しない。

けれど、彼が好意を抱いているのは『スミちゃん』だ。私は彼に真摯に向き合うつもりは無いし、彼の前で創り上げた私の世界が壊れた今となってはこのまま関係を持つ気も無い。

あの可愛い童顔が捨てられた子犬のような表情になるのを想像して胸が詰まったが、横になったまま一つ大きな深呼吸をしてそれを吹っ切った。

とりあえず誰か人を呼ばなければと思い至り、ナースコールの存在に気付いて右手を伸ばしかけたところでまた痛みが走って止めた。左手は無事な様子だったので身体を反転させようとした瞬間、シャッと勢いよくカーテンが開く音が響いた。

「あら、良かった。気が付きました?」

柔らかい笑顔を浮かべた年配の看護師さんは、まず私の点滴のチェックを終えると、吐き気は無いか、痛むところはないかと矢継ぎ早に質問をしてきた。そして右手の痛みを訴えた私に、後で改めて診察があるのでその時に右手も診てもらいましょうねと前置きしてから、倒れた時に頭部を打っているので念のため今夜は入院になるといった事を一通り説明し、最後に「お連れの方を呼びましょうか?」と聞いた。

私は自分に気合いを入れるように彼女の目を真っ直ぐに見て「お願いします」と答え、看護師さんはカーテンの向こうに消えた。

ハルキ君と顔を合わせたら、まず何と言おうか。いや、もしかしたら彼の方から何か切り出してくるかもしれない。いずれにしろ、私の中でどうするかは答えが出ている。けれど、それをどう伝えるのがベストだろうか。

考えがまとまらないまま、カーテンは数分後に再び開かれた。

「お連れの方、トイレにでも行かれてるみたい。ずっと待合室に居らっしゃったみたいなんですけど姿が見えなくて。」

肩透かしを食らい、力が抜けた。少し冷静になった頭で、とりあえずこのまま一晩帰れないのならばすべき事があるなと気付く。

ベッドのすぐ横に置かれていた自分のバッグをたぐりよせ、左手でスマホを探した。この右手では長文は打てないだろう。

「すみません、同居人に電話をかけたいんですが…。」

通話可能な場所を聞こうとしたが、看護師さんは短時間ならここで大丈夫ですよと言ってから再び席を外した。

あおいちゃんの留守電にメッセージを入れ終わってから充電が残り少ない事に気付き、慌てて追加のメッセージを入れる。直後、もっと慎重に言葉を選べば良かったと後悔した。

あおいちゃんは、私に対して少々過保護なところがある。実際、過去の私は彼をそうさせる程の迷惑をかけてきたのだし、彼にとっても実の兄に失踪されているのだから、心配性になっても仕方が無い。

もしかしたら、留守電を聞くなり病院に駆けつけて来るかもしれないなと思った。けれど、これ以上何か留守電を入れてもキリが無いし、かえって刺激してしまいそうなので止めた。

しばらくすると、先程の看護師さんが誰かに話をしている声が聞こえてきた。彼女はカーテンの隙間からひょっこりと顔を見せ、そして私に告げた。

「あの…別の連れの方が見えられたんですけど、お通ししても大丈夫ですか?」

まさか今の今で駆けつけることは不可能だと分っていながらも、一瞬、あおいちゃんの顔が脳裏をよぎる。

しかし、私が戸惑いつつも受け入れると、開かれたカーテンの向こう側から現れたのは、明らかに寝不足な顔をしたボサボサ頭の鬼塚さんだった。


・・・・・


滅多に見られない救急外来の雰囲気を観察して、ついでにジュンの食事相手とやらを拝んで心の中で野次馬しつつ、ジュンの無事を確認する。それから忘れ物のカードケースを手渡し、「鬼塚さんってば、意外と優しいところがあるのね!」と感激された後はとっとと帰宅して再び眠りに就く。

それで終わりのハズだった。それ以外の予定を強いて言うなら、せっかくなので寝る前にナース物のAVでも観てやろうかと思ってた事くらいだ。

なのに、何がどうなったのか。「患者さんは入院病棟に移りますから」とつまみ出された俺は、悪人顔の細マッチョと子犬みたいな面をしたスーツ野郎の初対面の男三人、病院向かいのファーストフード店で冷めていくコーヒーを囲んでいた。

「…だから、俺が病院でジュンの婚約者を名乗ったのは、お互いに緊急事態が起きた時はそう言うと決めているからで、それはただの同居人に比べて法的に出来る事が変わってくるからです。ジュンとは親戚同然の親しい間柄だし一緒に住んではいるけど、俺はゲイだから貴方の考えているような関係じゃ無いです。」

ジュンの同居人の細マッチョはサラッとカミングアウトをかまし、ぎょろ目の三白眼で子犬を睨んだ。いや、睨んだように見えるだけでおそらく敵意は無いのだろうが、その凄まじい程の目力に子犬が少し怯む。

この子犬ちゃんがジュンに惚れている事は、ジュンのベッドサイドで顔を合わせた時に俺に見せた複雑な表情で直ぐに分った。そしてジュンを交えて話をしているうちに、この同居人の細マッチョを案内してきた受付のスタッフが婚約者と言ったので更にややこしくなったのだった。

「それは…その……ナイーブな話なのに、言わせてしまってすみません。打ち明けていただいて感謝します。」

必死に動揺を隠しつつも、優等生さながらの返事をする子犬。

全貌が見えないこの三者面談にしびれを切らし、俺は話しを切り出した。

「で、話しって何?」

もう、社会人としての言葉遣いや気遣いなんかどうでもいい。どうせ俺が一番年上だし、とっくに通り過ぎていた眠気が再び俺を襲い始めているのだ。
ジュンに男が居ようが居まいが、俺の知った事では無い。そんな事より、俺達をここに誘ったのはこの子犬なのだからとっとと本題に入って欲しかった。まさか女子中学生じゃあるまいし、俺とジュンの関係もわざわざ確認したいとでも言うのか。

(…だとしたら、ちょっとアレなヤツだな。)

警戒しながら改めて子犬の横顔に目をやると、その顔は半ば青ざめ、冷や汗がにじんでいた。

「この話は、彼女の近しい方々に知っていただきたい事です。生活や仕事を共にされている方であれば、特に。とても言い辛いのですが…。」

長い前置きをして語り出した子犬の話は、自分が既婚者である事を隠してジュンと会っているという、その人畜無害そうな外見には不似合いな内容だった。少しは面白そうな話だが、それがどう俺に関係すると言うのだろうか。

疑問に思っていると、既婚者ではあるが以前から別居をしていて離婚調停中である事、その理由は相手が理屈の通じない危険人物である事、親しくしている女友達が居ると知られた場合、その相手の身にも危険が及ぶ可能性が充分にある事など、話は段々と穏やかで無い方向に進んでいった。

「妻は、あの病院で医療事務をしています。ただ、昼間の外来の会計担当なので、夜は居ないはずです。けれど…病院のスタッフの中に、一人だけ見覚えがある人が居ました。妻とプライベートでも親しくしている人で、あちらも僕に気付いたと思います。」

「ふざけんなよ!」

それまで黙って聞いていた細マッチョが声を荒げた。今度は気のせいでは無く、明らかに怒りの形相を浮かべている。

「あんた、ジュンに何かあったらどう責任取ってくれるんだ!もういい、俺が今から別の病院に連れてく!」

息巻いて立ち上がる細マッチョ。子犬は申し訳無さそうに頭を下げて、すっかり萎縮してしまっている。俺も内心(すげぇ怖い…)とビビっているのを隠しつつ、一応は年長者なのでその場を収める努力をした。

「まあまあ、店の中だしちょっと落ち着こう。この話をそっくり信じるとしても、その奥さんがわざわざ職場で危険な橋を渡るかは疑問だな。それに、救急外来なんて今時どこも混んでるし、ジュン…さんに、本当に治療や検査が必要なら無理矢理退院させるのが得策とも言えないんじゃないか?」

細マッチョは俺の言葉に真剣に耳を傾けている。顔は怖いが、話の通じない相手では無いらしい。ジュンに以前聞いた話から察するに、本当に身内のような感覚で心配しているのだろう。

「それは確かにそうかもしれません…でも、俺は明日は仕事が休めないし、仮にこの人に付き添いをさせれば余計に危険です。」

細マッチョはそう言うと、その精悍な身体と動きで、警察官を思わせるような、思わず見事と言いたくなる程の綺麗なお辞儀をして俺に言った。

「先生がお忙しい事は重々承知の上でお願いします!どうか、ジュンに付き添ってやって下さい!」

明日は一日寝ていたい。いや、そもそも俺が付き添うのはかなり不自然だし、ジュンの方だって落ち着かないだろうよ。そして、この事をジュンにどう説明しろと言うのか。

言いたい事は山ほどあったが、万年運動不足の根暗中年の俺は、この細マッチョの気迫に飲まれて首を縦に振る事しか出来無かった。

ともかく、やるべき事が決まったのなら対処するしか無い。

俺はとりあえず、申し訳なさで死にそうになっている子犬に対し、奥さんの名前を尋ね、写真もあったら見せてくれるようにと促した。

そして ーーーーー 慌ててスマホを取り出した子犬がその画面を俺に差し出すと同時に口にした名前に、まさか今度は俺が死にそうになるとは。

「橋本真央(ハシモトマオ)。橋本は旧姓で今は僕と同じ春日ですが、職場ではそのまま橋本で通しているはずです。」

スマホに映し出された写真と子犬の顔を思わず交互に見比べ、引きつりそうになる口を必死に動かして言った。

「あの…多分なんだけど…。この人、一瞬だけ俺と夫婦だった人…。」

細マッチョと子犬が、声にならない声を同時に上げる。

スマホの画面に出現した顔は、虚偽の妊娠話をもちかけて俺の二番目の妻になった女のものだった。いや、顔なんて忘れかけていたのだが、名前とセットで提示されてしまっては流石に記憶が蘇る。そうか、こいつなら嫉妬した相手に危害を加える事もやりかねないだろう。

あまりの衝撃に、俺は思わずいつもの調子で下品な軽口を叩いた。

「マジかよ…。あんた、俺と『兄弟』なのぉ?嘘だろおい。俺、絶対ジュンには手ぇ出さないでおくわ。これ以上濃密な関係になったらたまんないからな。」

それに対し、俺を真顔で見つめる子犬と細マッチョ。

「冗談だから!笑えよ!ジュンとそういう関係になる気は更々無いから安心しろ!」

必死に弁解しつつ、何だ、俺って意外と他人に気を使えるじゃんとどうでもいい事を少し思った。

それから、コイツ、ジュンの事騙してるクセにやっぱり寝てんのかという思いが頭をよぎり、何故やら少しだけイラッとした。





つづく

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