だけど願いはかなわない 第九話「二人の夜(後編)」
スミちゃんは、お泊まりには絶対に応じてはくれない。
もちろん無理強いするつもりは無いけれど、僕と朝まで一緒に居たいとは思ってくれないのかなと少し寂しかった。
けれどそれには別の理由があるのだと知ったのは、ある日彼女が珍しくベッドの上でうたた寝をした時だった。
「最近仕事が凄く忙しくて、今日やっと一段落したの。」
その日、少し遅刻してきたスミちゃんが謝りながらそう言ってきたので、僕はいつもより時間をかけて丁寧なマッサージをしてあげる事にした。
マッサージの途中で可愛い寝息が聞こえ始めたので、よっぽど疲れているのだなとそっと布団をかけ、一緒に横になった。見惚れるように綺麗な寝顔を眺めていると、何だか凄くいけない事をしているような気分になり、一人ベッドから下りてトイレへ向かった。
僕が席を外していたのは、ほんの数分だ。
トイレで用を足し、洗面台で手を洗い、鏡を見ながら少しだけ髪を整え、そしてベッドルームに戻ると ーーーーー ドア付近の床の上、自分の膝を抱えるようにして座り込み、壁にもたれかかっているスミちゃんの姿があった。
「スミちゃん…!?」
気分でも悪いのかと驚いて駆け寄ったが、不思議な事に彼女はその姿勢のまま寝息を立て続けていたのだ。
その後すぐに目を覚ましたスミちゃんは、自分は睡眠に色々と難があって時折夢遊病のようにもなるのだと、恥ずかしそうに打ち明けてくれた。
数日後、書類に日付を記入していた時に、今日は祖父の飼っていた犬の命日だと思い至り、その犬がいつも祖父の帰宅時間になると玄関の横でじっと帰りを待っていた事を思い出した。
それから、そう言えばあの時のスミちゃんの姿は、まるでドアの前で誰かを待ったまま寝落ちしてしまったみたいだったなと、ふと思った。
・・・・・
イイ女と一晩一緒に過ごすのに、『ねない』という選択肢は、一体何のために備わっているのだろうか。
幸い、このインペリアルスイートルームはリビングと寝室の二部屋に分かれている。ルームサービスで夕食を終えたあと、ジュンは自分がリビングで寝ると言い張ったが、昨日倒れたばっかりのヤツは大人しくベッドで寝てろよと半ば強引に寝室に押しやった。
フロントに言ってエキストラベッドを用意してもらっても良かったが、充分なサイズのソファがあるのでそのまま寝転がる事にした。よくよく考えれば俺だけ帰宅するという選択肢もあったはずだが、すっかり酔いが回った今はそれももう億劫だし、ジュンが無事に帰宅するまでは見届けるべきなのだろう。
夕方、ホテル内のショッピングゾーンに入っている小難しい横文字の服屋を呼びつけた。ジュンに着替え一式を買ってやろうとしたのだが、金額に遠慮したらしく一番安いシャツと黒いレースのちっこいパンツを選んだきりだった。つまりあいつは、今夜はあのちっこいちぃっこいパンツを履くのだろう。
「買ってやったんだから、せめて見せてくれんもんかね。」
ヒマにかまけて冗談を呟いた直後、寝室のドアがノックされた。ヤバイ聞こえたかと焦りつつ、裏返った声で返事をしながら上体を起こす。
顔だけ覗かせるようにわずかに開かれたドアの隙間から、上気した肌にバスローブをまとったジュンがチラ見えした。
「あの…お風呂、どうされますか?」
そう言えば、さすがお高いスイートルームだけあってトイレは二箇所あるが、バスルームは寝室を通らないと行けない構造だった。
そんな事より、ジュンちゃんってばまさかそのバスローブの中は裸?それとも、あのちっこいちぃっこいパンツ一枚?
「お前…誘ってんのか?」
「それ、セクハラですから。」
「ハイすみません、もう言いません。風呂はいらん。まあ、お前が俺と一緒に入りたいって言うなら喜んで応じ…。」
俺の台詞が終わらないうち、ドアはバタンと勢い良く音を立てて閉ざされた。
時間はまだ夜の九時過ぎ。今時の小学生でもこんな時間には寝やしないだろう。ソファに寝転がったまま酒を飲み、大画面のテレビで適当に映画を流した。
二本目のフランス映画が中盤に差し掛かった頃、再び寝室のドアがノックされた…ような気がした。
小さく遠慮がちなそのノック音らしきものは、酔いも加わっているため映画の音声との判別がつきかね、返事をするべきか迷う。
「…まだ起きていらっしゃったんですね。」
そっと開かれたドアの向こうから、毛布を抱えたジュンが現れて言った。どうやら、俺の睡眠を邪魔する可能性を考慮した上で小さなノックをしたらしい。
「気が回らなくてすみません。これ、使って下さい。」
ジュンの言葉を受け、腹の上に乗せていたクッションを頭に敷き直し、毛布を掛けてくれとジェスチャーで示す。
ふわりと空気を包みながら、毛布が俺の身体に落ちる。前屈みになったジュンは既にバスローブ姿では無く、備え付けのパジャマの存在に気付いて着替えたらしい。更にその中にシャツを着込んでいたので、残念ながら谷間は見えなかった。つまんねぇの。
「サンキュー。じゃあな、お休み。」
そう言って手を振ったが、ジュンはまだ何か言いたげに立ち尽くしている。
薄暗がりの中、TVの明かりを受けてわずかに見えるその表情は、いつものポーカーフェイスとは違って少しだけ照れているようにも思えた。
まさかこいつ、何のかんの言って本当は俺に惚れてるのだろうか?それとも、女のプライドとやらで手を出されない事が不満だとでも?そっちがそのつもりならば、こちらはやぶさかでは無いのだよ、ジュン君。
しばしの沈黙の後、先に口を開いたのはジュンの方だった。
「あの…。」
色っぽいセリフが出てくるのかと期待したが、ジュンが口にしたのは、自分には夢遊病の気があるので寝室で物音がしても気にしないで欲しい、驚かせてしまったらすみませんという想定外の言葉だった。
「俺のイビキの方がやかましいだろうから心配すんな。」
俺がそう言うと、ジュンは安心したように少し笑った。
いつもすまし顔のジュンだが、笑うと急に幼い印象になる。いつだったか、若手編集者の及川のヤツが、その瞬間のジュンがたまらなく可愛いのだと言っていた事を思い出した。
それからまだ何か言いたげに立っている横顔を改めて見上げると、その整った顔立ちの中、一際強い印象を放っている綺麗なアーモンド・アイに、うっすらとクマがある事に気が付いた。すっかり忘れていたが、そう言えば医者から軽い不眠症状だと言われていたのだ。
そうか。こいつ、眠れないのか。
「ルームサービスでホットミルクでも取るか?」
俺の言葉に、ジュンの大きな瞳が更に大きく見開かれ、それから及川の言っていた幼い顔になる。
「鬼塚さんって、本当は優しいですよね。」
『本当は』は余計だと笑って返し、ジュンの返答を待たずに内線でルームサービスを注文する。ホットミルクを待っている間、ジュンが「あれから改めて考えてみたんですけど」と、切り出した。
「今回の事は、鬼塚さんはただ私に巻き込まれただけですよね。それなのに、お金も時間も使わせてしまって本当に申し訳ありません。」
「ああ…まぁ、相手が相手だからな、俺も全くもって無関係ってワケじゃ無い。金の事は俺の自己満足だから気にするな。普段引きこもりで使わないからな、たまにこうしてドカッと無意味に使うのもストレス発散になる。」
俺はそこまで言うと、まだ申し訳なさそうにしているジュンに向き直り、真面目な顔を整えてから言葉を続けた。
「それにな、ジュン、お前は俺の末の妹と同い歳なんだ。妹は七歳で死んじまったから、女としての贅沢も知らんままだ。お前が代わりに味わってくれたら俺も嬉しいさ。」
目の前の綺麗な顔がぐにゃりと歪み、「鬼塚さん…」と悲し気な声で何かを言いかけた途端、俺は我慢できずに吹き出した。
「嘘に決まってんだろ!」
泣き出しそうだった顔は、みるみるうちに真っ赤に染まる。
「もう!貴方は小学生ですか!」
「俺の職業何だと思ってんだ、作家だぞ作家!」
今にもクッションを投げつけそうだったジュンにそう言うと、今度はジュンの方が吹き出した。
それから、金の事はこのホテル代を経費で落とす方法を一緒に考えてくれたらそれでいいから言うと、それを聞いたジュンがまた笑った。
斜め向かいの一人がけソファの上、真っ白なホットミルクを手に取ったパジャマ姿のジュンはすっかり幼い少女のような顔を浮かべていて、こちらの毒気まで抜かれるようなあどけなさを放っている。
きっと、あの仲の良さげなゲイの兄ちゃんの前では、いつもこんな顔をしているのだろう。
ーーーーー あの、嘘つきの子犬野郎の前でも?
ふいに沸いた小さなイラつきをかき消すように、つけっぱなしのTVに目をやった。フランス映画は劇中で起こった出来事を一切解決しないまま終盤を迎え、主人公の女が微笑んだ瞬間に『Fin』の文字が出現して唐突に幕を閉じる。
「…フランス映画は相変わらず意味が分からんな。」
「私は好きですよ、ファッションとか可愛いじゃないですか。そもそも、鬼塚さんみたいな中年男性がターゲットの映画では無いでしょう。女心のお勉強ですか?」
「女心、なぁ…。フランス映画より難解過ぎるだろ、そんなもん。俺の最初の女房なんか、作家と結婚しておきながら『嘘の話ばっかり書いて』って言いやがったんだぜ。」
笑い話のつもりだったが、それを聞いたジュンは「ああ…」と小さく呟いてから口ごもった。
その歯切れの悪い態度が気持ち悪かったので、言いたい事があるならはっきり言えよと迫る。
「言いたい事というか、ただ、何となく…奥様がおっしゃったのは、そういう意味では無いのでは、と…。私はもともと、鬼塚さんの小説しか知りませんでした。脚本を手がけられたドラマを勉強して ──── もちろん、どれも素晴らしく面白いものでしたが、随分作風が変わったなと驚きました。」
ジュンの顔がみるみるうちにいつもの有能マネージャーの顔つきになり、一気に語り出す。
「上手く言えないんですが、小説は『作者の思い』を書かれたもので、ドラマのお話は、エンタメとして完璧に創り上げられたものというか…。それはそれで才能を感じましたし、引き込まれるように夢中になりました。なので、決して面白さを比べられるものでは無いんですが、私個人としてはあの小説の方が作者の人柄に触れるようで好きです。声をかけていただいた時、あのお話を書かれた方の元でなら働いてみたいと思いました。」
言い終えたジュンは、黙ったままの俺と目が合うとハッとした顔で「出過ぎた事を言いました、すみません」と謝り、残りのミルクを飲み込むとそそくさと立ち上がった。
寝室に向かう背中に、いつもの軽口を投げかける。
「いつでも添い寝してやるから呼べ。」
「それ、セクハラですから。」
そのいつのも台詞の後、ジュンは振り返らないまま小さな声で続けた。
「…ありがとうございました、おかげで少し眠れそうです。」
俺がお休みを言う前に、ドアは音を立てて閉じた。
・・・・・
その昔、『田舎の天才児』だった俺は、大した努力もせずに勉強が出来る自分を特別な人間だと思い込んでいた。
しかし、県内ナンバーワンの東大合格率を誇る高校に進学するとそこは本物の天才児だらけで、地頭の良さに奢って努力をしてこなかった俺はあっという間に落ちこぼれた。自分はただの井の中の蛙だったと、嫌と言うほど思い知らされたのだ。
そんな天才集団の中でどんどん捻くれていった思春期の俺は、現実逃避のように頭の中で物語を創り上げるようになり、いつしかそれを文章として形にしていった。
二十一歳になり、世間一般からしたら充分に名の通った私立大学に通いながらもこんなはずじゃ無かったと悶々としていた俺に、小説を投稿するように勧めてきたのが当時付き合っていた同じ大学のイズミだった。
最初の結婚の話をすると、大抵のヤツは「鬼塚先生の奥様なら美人さんだったんでしょうね」と言うが、イズミはどちらかというと不細工と言っていい部類の外見の女だった。
女にしては珍しい百七十オーバーの長身で、ソバカスだらけの顔はいつもスッピンだった。よく男に見間違えられていたのでせめて髪を伸ばさないのかと言うと、「ヘルメットの邪魔になるからいい」と、愛車のバイクを撫でながら笑っていた。イズミは自由な女だった。その自由さが面白く、そしてそうやって心底楽しそうに笑う瞬間、健康的なお色気というのか、独特な雰囲気があって、俺はそこを気に入っていた。
イズミに勧められて新人賞に応募はしたが、それはたまたま手元に書き終えたばかりの原稿があったからで、誰がこんな素人が暇つぶしに書いた小説を読みたいものかと、結果発表の期日すら忘れてしまっていたくらいだ。
だが俺は、それをキッカケにして『現役大学生小説家』としてデビューを果たしたのだ。
ずっと疎遠だった高校時代の教師や同級生どもが、途端にすり寄って来やがったのが笑えた。
俺は就職の内定を意気揚々と辞退し、その勢いのままイズミのアパートに走った。
俺の幸運の女神だ、コイツとなら面白い人生が送れるだろう、何不自由ない生活をさせてやるぞとプロポーズをした。その瞬間の俺の人生は、正に眩しい程に輝いていた事だろう。
だけど、願いは叶わない。
それから『売れない小説家』の俺を何年も見放さなかったイズミは、『売れっ子脚本家』になった俺の元を去って行った。
スイートルームのソファの上、女心の難解さに頭を抱えながら眠りに落ちた俺は、久し振りに妹の葬式の日の夢を見た。
小さな棺の中に収められた妹はまるで眠っている様で、火葬場で母親が「あの子を燃やさないで」と半狂乱で泣きわめいている。高校生の俺は、その夜次から次にあふれ出てくる感情を処理出来ず、机に開きっぱなしだった数学Ⅲのノートにペンを走らせ、何かに取り憑かれたかのように一晩中物語を書き続けた。
夢の途中、ふいにジュンの声が聞こえた。
「おかえりなさい。」
ジュンは誰かにそう言いながら泣いている気がしたが、それも夢なのか現実の声なのかは分からなかった。
つづく
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