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【短編集】のどに骨、胸にとげ/よっつめのおはなし 「モンスターハウス」


「性別、知りたいんでしたっけ?」

 まだ年若い担当医は、私のお腹にエコーを当てながら、まるでいたずらっ子のようにわざと焦らして言った。

「前から言ってるじゃないですか、早く知りたいって。女の子希望なんです。もちろん、長男のおかげで男の子の可愛さも充分知ってますから、男の子でも嬉しいですけど」

 性別なんてどっちでもいい、元気に産まれてくれさえすれば。建前としては、そうだ。いや、違う、本音だって、男の子続きでも何でも、かけがえの無い我が子に変わりは無い。心の底から可愛いと思うだろうし、その誕生が待ち遠しい気持ちは本物だ。

 けれど、もともとハンドメイドが趣味の私は、娘と自分にお揃いのワンピースを作る事が夢で、女の子が欲しいと思っていたところに長男の光流みつるを授かり、次こそはという気持ちを捨てきれないでいた。

「……で、どうですか? 前回の検診では、次あたりにはっきりするんじゃないかって話でしたけど……」

 硬い診察台で横になったまま、受験生が自分の番号を確認する時のような、祈りにも似た気持ちで担当医の返事を待った。

 私を見下ろすその表情から、念願が叶った事は薄々気付いたが、それでも次の瞬間、はっきりと言葉で告げられると、私は妊婦の身でありながら思わず跳ね起きてしまいそうになったのだ。

「うん、ほぼ間違いなく女の子だと思いますよ」


・・・・・


「あら、あんさん、お帰りなさい」

「杏さん、なんだか良い事があったような顔してるね。お腹の子は順調みたいだね、良かった良かった」

 夫の実家に光流を迎えに行くと、義理の両親はいつもの明るい笑顔で迎え入れてくれた。

「ええ、おかげさまで順調なんです。それで……」

 一瞬、お腹の子の性別を話してしまいそうになったが、さすがに先に夫に教えてあげなければと思い当たり、あわてて口をつぐんだ。

 私のその不自然な様子は、姿の見えない我が子を探しているように映ったらしく、お母さんが光流の居場所を教えてくれた。

「みーくんなら、タカと一緒に裏庭で遊んでるわよ」

 タカというのは夫のお兄さんで、職業は体育教師だ。夫の実家は、駐車場側に大きな母屋もやがあり、裏庭を挟んで平屋の離れがある。その平屋はもともとは祖父母の住まいだったらしいがもう何年も前に亡くなり、一人暮らしをしていたタカさんが、実家近くの中学校に異動になった事をきっかけに住むようになったらしい。

 裏庭に続く勝手口を開けると同時、タカさんの笑い声と光流のはしゃぐ声がわっと耳に飛び込んできた。私の後ろでお父さんが、「楽しそうだな、私もまぜてもらうか」とウキウキした声で立ち上がる。

 まだ夫と付き合っていた頃のお盆の時期、初めてこの実家に招かれ、家族全員が底抜けに明るい事に驚いたのを思い出した。

 お堅い職業なのに、気さくでお喋り好きなお父さん。「私は家事が嫌いなの」と堂々と言ってのける、専業主婦の面白いお母さん。夫の五つ年上のお兄さんは、ハキハキと元気で爽やか、まるで子ども向け番組の体操のお兄さんと言った印象だった。

 こんな家庭で育った彼となら、心配性な私も上手くやっていけるんじゃないか。それから数カ月後に正式にプロポーズされた時、悪く言えば心配性、良く言えば慎重派の私が珍しく一切迷わなかったのは、そう感じていたからだった。

 そして妊娠する少し前、夫の地元に転勤が決まった。転勤の多い会社では無いので想定外だったが、本社から声がかかった形で、それははっきりとした栄転だった。取りあえずボロボロの社宅に引っ越したがすぐに妊娠が分かり、いっそ一戸建てを買おうかと話し合っていると、たまたま夫の実家から徒歩圏内に理想通りの物件が見つかった。

 夫は「杏が気を遣うだろうから、やめよう」と言ってくれたが、私の方からこの家に決めようと提案したのだ。

 義理の実家なんて遠ければ遠いだけ良いと言う人も居るが、心配性な上に寂しがり屋な私にとっては、なじみの薄いこの土地で、更に初めての妊娠中の身で、根っから明るい義実家が近くにある事はとても心強かった。

 そして、私のその時の決断は、間違いでは無かったと今も思っている。


「せっかくのお休みに、遊んでもらってすみません。いつも検診は平日なんですけど、今回はたまたま土曜になってしまって」

 勝手口から裏庭に降り、汗だくになるほど本気で四歳児の相手をしてくれていたタカさんにお礼を言った。

 タカさんは光流を肩車しながら、「いやいや、むしろ自分が遊んでもらってるので」と言って笑った。


・・・・・


「あれ、みーくん。みーくんの赤い車さん、どーこだ?」

 私がキッチンで鍋を洗いながらそう声をかけると、光流は執拗しつように触っていた自分の股間からパッと手を離し、お気に入りのおもちゃの車を手に取った。その視線は終始、子ども向け番組の録画に釘付けになったままだ。

 出来れば夫も一緒に夕食の席に着いて、その際にお腹の子の性別を伝えたかったが、土曜出勤中の夫からは夜も遅くなると連絡があった。支社の頃は考えられなかったが、本社勤務になってからは休日出勤も当たり前だ。

 ため息をつきながら光流を見ていると、右手で車をもったまま、左手はまた自分の股間を触り始めていた。

 私はタオルで手を拭いてからテレビの近くに座り込み、自分のお腹の負担にならないように気を付けつつ、光流を膝に抱き寄せた。光流は相変わらず子ども向け番組に夢中なまま、けれど左手は股間から離し、幼児らしく私にそっと甘えた。


 光流に性器いじりをする癖があると気付いたきっかけは、今通っている幼稚園への入園準備をしていた時の事。“お子さんの健康状態や普段の様子について教えて下さい”と記された書類だった。

 そこには、病歴やアレルギーの有無、予防接種の記録といった重要なものから、その子の平均体温、トイレトレーニングや発語について、普段の食事の内容や遊びの好き嫌いなどなど、かなり細かい部分に至るまで、数多くの項目が用意されていた。

 母子手帳やスマホの記録アプリを駆使しながら記入を進めていると、“以下の行動で当てはまるものがあれば全てに〇をして下さい”と書かれた設問の中、とある衝撃的な一文に、はたと私の手が止まった。

『性器いじり』

 この言葉を目にするまで、それがわざわざ幼稚園に報告をしなければならないような事だと思ってもいなかった私は、上手く言い表す事が出来ない種類のショックを受けた。

 例えるなら、「お子さんは、たまに泣く事がありますか?」なんて、ごく当たり前の質問を、それも、幼児相手のプロ達から浴びせられたような気分だったのだ。

 男の子なら、大なり小なり自分の性器を触るものだと思っていたが、私のこの認識が間違いなのだろうか。そもそも、“いじり“とは、どこからだろうか? 光流はしょっちゅう触ってはいるが、大体は手持ち無沙汰な時につかんでいる様子で、力を込めたり動かしたりはしていないように思える。

 この時の私は疑問を残したまま、取りあえずその欄には丸を付けずに流した。その判断が間違っていたとは思わない。この頃はまだ、いじりと言えるほどのはっきりとした行動は見られなかったからだ。

 それに心配性な私は、物事をつい大袈裟に、そして悪い方に考えてしまう癖がある。それを自覚しているからこそ、慌てないようにと自分に言い聞かせた。

 それで無くとも、初めての子育ては全てが手探りで、不安だらけだ。周囲の子と光流を比べては、喋るのが遅いのではないか、まだ歩かないけど大丈夫だろうかと、いちいち不安になっては騒いできた。

 そんな性格の私を、いつも明るく笑い飛ばしてくれるのが、夫だった。 

「もう、杏の悪いくせだよ」

 付き合っていた頃、明らかに夫の事を好きな後輩の女の子が居て、いつもその子に夫をとられないか心配していた私。新婚旅行先を決める時、ずっと憧れていたスペインに行きたいのにスリや引ったくりが怖くて踏み出せなかった私。

 けれど、いつも夫はそう言って、私の不安を吹き飛ばしてくれたのだ。

 光流の性器への接触は、入園後、慣れない環境へのストレスもあるのか、明らかに頻回になった。これはいわゆる「性器いじり」に該当するだろうと、専門家の判断など仰がずとも分かるほどに。

 以前の私なら、いちいち過剰に反応し、気に病み、右往左往した挙句に深刻な顔をして病院に連れて行った事だろう。

 けれど自分でも信じられない事に、私は今、驚くほど冷静にどんと構え、我ながら上手な対応ができていると思う。こんなにもセンシティブな悩みで、そして、私自身も二人目を妊娠している上に、夫は仕事が忙しくて相談もできないという、なかなか大変な状況なのにだ。

 これは明らかに、夫の実家のおかげだろう。

 お父さんもお母さんも、いつでも気軽に光流の事を預かってくれるのに、ネットで良く聞くような家事や育児への干渉は一切無い。タカさんは、積極的に光流と遊んでくれる。何より心配性な私にとってありがたいのは、いつも皆があっけらかんとしていて、根っから明るい事だ。

 そんな義実家から帰った後の光流はいつも、「楽しかったー」と、義実家の皆のように明るく笑うのだった。

 それらは、精神的にも体力的にも、私に余裕を与えてくれた。だから私は、夫が不在がちなこの新居で、大きくなり続けるお腹を抱えながらも、光流の問題にきちんと向き合う事が出来たのだ。

 性器いじりを見かけても、親が動揺してはいけない。それから、決して叱らない事。なぜなら、強い罪悪感や性嫌悪につながってしまうから。また、叱ったからといっておさまる事でも無く、むしろ、隠れて行うという悪循環におちいってしまう。子どもが自分の身体に興味を持つのはごく当たり前の事で、悪い事でもいやらしい事でも無い。幼い子どもの性器いじりのほとんどは一過性で、優しく見守るうちに自然と治まる事が多いー----。

 ネットの子育て情報や、医師の書いた本などを読んだところ、大体は 「騒ぎ立てず、優しく見守る事」という意見でまとめられていた。

 ただ、他人に見られて傷付いたり嫌な目に遭う危険はあり、また、汚れた手で触る事によって膀胱炎ぼうこうえんなどを起こすリスクもあるため、言って聞かせられる年齢なら優しく話し合いをして、人前ではやらない等ルールを設ける手段もある。もっと幼い子であれば、やんわりと別の事に興味が移るように誘導する、といった対策も書かれていた。

 私はそれらのアドバイスを参考にし、ある程度は光流の自由にさせ、あまりに目に余る場合などはおもちゃ等に気をそらせるという作戦を実行中だ。

 気にしない、気にしない、と、自分に言い聞かせながら。


・・・・・


 やっとお腹の中の子の性別を告げる事が出来たのは、一週間後の土曜日だった。

 少し仕事が落ち着いたらしい夫が、珍しく土日どちらとも休めるという話だったので、久しぶりに家族三人水入らず自宅でゆっくりと過ごし、お昼の食卓を一緒に囲んだ際に打ち明けた。

 夫も二人目は女の子がいいなと言っていたので、手放しで喜んでくれた。

「聞いたか光流、ママのお腹に居るのは妹なんだってさ!」

 そう言われても、まだ私のお腹に本当に赤ちゃんが居るのかと疑っているような光流は、ピンときていない様子だった。

 久しぶりにパパと過ごせた光流は終始ご機嫌で、その手が股間に触れる暇も無いようだった。夜も、夫の寝かしつけで早々に眠った。夫婦二人きりになってから、私は光流の性器いじりについて打ち明けた。夫にも、ずっと話せていなかったのだ。

「……それで、最初は気になるほどでは無かったんだけど、最近は、かなりあからさまというか、その、自慰そのもののような時もあって……」

 自分では冷静に対応できていると思っていたのだが、可愛い息子のあられもない姿を改めて説明するという作業は、思いのほか精神的な負担が大きかったらしい。

 気が付くと私は、「私のせいで悪化したのかもしれない」「妊娠中で、前みたいに光流を構ってあげられないから」「下の子が生まれて、もっと酷くなったら、そのせいでお友達からいじめられたら、どうしよう」と、泣きじゃくっていた。

 けれど夫は、人によっては耳を塞いでしまうかもしれないこんなナイーブな話題であっても、すんなりと受け入れ、いつも通り明るく笑い飛ばしてくれたのだ。

「またそんな悪い方に考えちゃって。もう、杏の悪いくせだよ」

 そのいつもの言葉は私を優しく包み込み、不安の沼から一気に救い上げてくれた。

 ああ、こんな時にも明るく冷静で居てくれる夫で、本当に良かった。この人とならやっていけると思って結婚したのは、やっぱり間違いでは無かったのだ。

 その夜私は、久しぶりに夫に身を任せた。私の中にじわじわと広がっていた不安感が、根こそぎ消えて行くようだった。


・・・・・


「すみませーん、杏ですー。光流のお迎えに来ましたー」

 予定日を来月に控えたある日曜日、私達夫婦は夫の実家に光流を預けて、結婚記念日のお祝いを兼ねたランチに出かけた。「下の子が生まれたら、またしばらく夫婦でお出かけなんてできなくなるだろう」と、タカさんの方から申し出てくれたのだ。

 しかし、お迎えの時間になり、いつも通り母屋のインターフォンを鳴らしてから玄関扉を開けようとしたところ、普段ならお迎えが来ることを見越して開けてくれているはずの鍵がかかったままだった。

 何度もインターフォンを鳴らし、声をかけても反応は無い。

 夫が自分のキーケースを取り出し、実家の鍵を持っていないか確認したが、「そうだ、親父おやじがカギを落とした時に、俺の持ってたやつを渡したんだった……」と、言い、その流れで胸ポケットのスマホを取り出した。

「ごめん、気付いて無かった、俺の方に連絡来てたよ。両親はちょっと買い物に出かけるから、光流はタカと離れに居るってさ」

 ぐるりと母屋を回り、裏庭に出る。

 私は、離れの事はいつも外から見るだけで、中に入った事は無い。改めて離れの玄関の前に立つと、今時珍しい、おそらく音が鳴るだけの簡易的な呼び鈴が設置されていたが、夫が「これ、壊れてるんだよ」と言ってそのまま玄関を開けた。

 古めかしい外観とは裏腹に、綺麗にリフォームされた室内は、古民家風の雰囲気を残しつつ、お洒落な空間に仕上がっていた。 

 玄関から真っすぐに廊下がのびており、おそらく突き当りが水回り。それより手前に、クラシカルな引き戸の二間ふたま。その奥の方の部屋から、タカさんの笑い声と、光流のはしゃぎ声が漏れてきている。

 私が声をかける隙も無く、夫が「おーい」と言いながら、ずかずかと廊下を進む。夫の声はタカさんの笑い声にかき消され、おそらく二人には届いていない。夫は返事を待たずして、そのまま引き戸を開けた。

 一瞬、何が起きているのか、私はそこで繰り広げられている光景が理解出来なかった。

 いつのもように、子ども向け番組の体操のお兄さんのようにハキハキとしたタカさんが、まるでダンスの見本でも見せているかのように堂々と、下半身に何も身に着けず、自分の股間を激しく擦っていた。

 光流は、まだ四歳の、何も分かっていない、いたいけな私の光流は、それをニコニコと見つめながらはしゃぎ、一緒に自分の股間を擦っている。

「やめてー---------!!!!!!!!」

 私はそれまでの人生で一番の大声をあげて、光流をひったくるようにして自分に抱き寄せた。お腹が張った感触がしたが、今はその事を気に留める余裕などない。

 足元の畳に、ぼたぼたと私の汗が流れ落ちた。ああ、人間って一瞬でこんな量の汗をかけるのだなと、どうでも良い思いが頭をよぎる。

 私は獣のようにタカさんを睨みつけながら、必死に光流を腕で抱きかかえ、おぼつかない足取りで、ジリジリと玄関に向かって後ずさった。

 タカさんは、そんな私の様子をぽかんとした顔でただただ見つめている。

「け、警察! あ、あなた、け、警察を、よ、呼んで!!」

 私が絞り出すようにして夫に言うと、私の腕の中、光流が火が付いたように泣き出した。ああ、光流、光流、いつからこんな目に遭っていたの、ああ、気付かなくてごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

「落ち着いて、杏」

 夫の声に振り向くと、そこには、私をなだめる時の、あのいつもの落ち着いた夫の表情かおがあった。

「男同士だから、悪ふざけくらいするよ。うちじゃ、このくらいのスキンシップ当たり前だって。またそんな悪い方に考えちゃって。もう、杏の悪い癖だよ」

 私は必死に正気を保ちながら、大きなお腹で光流の手を引いた。半ば腰の抜けかかった足を死に物狂いで動かしたが、不覚にも私の意識は徐々に白くなっていった。最後の方で、お父さんとお母さんがやってきた気配がしたが、二人とも何か馬鹿みたいに笑っていたようだった。

 -----ああ、お腹が張る。

 そのお腹の中の子の性別を、今の私はもう喜べなかった。






「モンスターハウス」 おわり


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【短編集】のどに骨、胸にとげ/いつつめのおはなし 「同棲日記」 |ふたごやこうめ (note.com)



「のどに骨、胸にとげ」まとめ
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