いぬじにはゆるさない 番外編「サマーバケーション」 最終回・第六話



二十二歳の夏、俺はまだまだ子どもだった。

そして、同じくあいつも、周囲の友人達も、未熟でアホな子どもだった。

営業マンとして鍛えられ良くも悪くも変わった今、もしあの日の自分に一言伝える事ができるのならば、それはアドバイスではない。「お疲れ様」という、労りの一言だ。

あの夏の日、二十二歳の俺は、二十二歳なりに頑張ったのだから。


・・・・・


『完全にまずい流れが出来上がった』と、駆け引き下手な俺でもハッキリと分った。

ホト森の一言からの盛り上がりは止まるところを知らず、その後民宿に戻ってからの酒盛りとおふざけが大好物な友人達の手腕でもって、異様とも言えるゾーンに突入していた。

「ホトさん最高!大好き!!」

誰かが言ったその言葉を皮切りに、「皆大好きだよ~!」「お前等最高!!」「愛してる~!!」と、友人同士で讃(たた)え合い、愛を叫ぶ、謎の酔っ払い集団が出来上がったのだ。

その中心部で騒いでいるあいつをやっと散歩に連れ出した時には、ワインのハーフボトルを空にした後だった。

「話って何~!?めちゃくちゃ怖いんですけど!アレか!?白川さんが実はゲイとかそういう系か!?」

あいつは興奮気味に話しをしながら、松の木が並ぶ夜道をどんどん進む。

どんなに飲んでいても一応会話は出来るのが、あいつが酔っ払いになった時のパターンだ。なので、どこまでアルコールが回っているのか、周囲には判断が付きかねる。

どちらにしろ、今直ぐに「好きだ」と言ったところで、先程の友人達との流れの延長線上としか受け取られないだろう。俺はこの夜風があいつの酔いを覚ましてくれる事を願いながら、とりあえずは横に並んで会話する事を選んだ。

「…お前って、酒好きだよな。しゅっちゅう飲んでるのか?」

「ん~?お酒が好きなのは完全に遺伝だね~。でも、私はウチじゃ飲めないから、飲み会の時にこうして好きなだけ飲むワケだよね~。」

抑揚や言葉使いに多少の違和感はあるものの、キチンと呂律(ろれつ)は回っている。しかし、浴衣のたもとをブンブンと振り回している様は実に愉快そうだ。

「家で飲めないのか…まあ、お前ってお嬢だもんな。」

「和尚~?誰がお坊さんだって?」

酔っ払いゆえの聞き間違いなのか、お笑い的なボケなのか、判断に迷う。

「いや、お嬢…。育ちがいいじゃん。」

俺がもう一度そう言うと、あいつの足が止まった。向かい合ったその目は、心底不思議そうに見開かれている。

「え~?育ちがいいのはイイジマの方でしょ~?」

「俺んち?どこがだよ。」

やっぱり大分酔っ払っているなと呆れたが、あいつは俺を真っ直ぐに見ながら熟々(つらつら)と解説を始めた。

「だって、イイジマってお箸の持ち方綺麗だし、食べ物の好き嫌い無いし…いや、苦手な物でも嫌な顔しないって表現が正しいか…偉いよね~。脱いだ靴はキチンと揃え直すし、いっつも姿勢がいいし…『育ちがいい』って、そういう事でしょ。ウチなんて超放任主義でさ、躾(しつけ)とかいい加減だったもん。」

突然投げられたその直球を、どう受ければいいのか戸惑った。まさかそんな風に見てくれていたなんて。コイツの俺に対する興味なんて、もっと浅いと思っていた。

とりあえず「ありがとう」と礼を言うと、アイツは「何照れちゃってんの~?でっかいくせに可愛いヤツ!!」と笑いながらその場でくるっと回った。そして、「イイジマこそ警察官とか良さそうなのに、まさか営業とはね」と、俺の内定先に話を変える。

実際、公務員は考えた。警察官や刑務官なら俺の体格を活かせるだろうとも。けれど、もともと車が好きな俺は設計の道に進みたかったが、大学進学の際に理系から文系への転換を選択していた。せめて車に関わっていたいという未練と、不器用な自分に不向きであろう分野にあえて挑戦してみたいという思いもあり、ディーラーの営業職を受けたのだ。

「就職が決まったのはオメデタイ話だけどさ…遠くにいっちゃうかもしれないんでしょ…?嫌だなぁ…。」

酔っ払いの発言と分っていても、ドキッとしてしまう。「必ずしもじゃ無いみたいだけど、最初の配属先は近場が多いらしい」と説明すると、更に心動かされる言葉が続いた。

「本当!?めちゃくちゃ嬉しい!!イイジマが居なくなったらさみしいもん。精神的にも、物理的にも、ぽっかり穴が開いちゃうよ~。」

無邪気にそう言う笑顔の裏に、特別な意味など含まれていない事は分っている。「もしや」と期待する瞬間は、今までだって無かったわけじゃない。その度に打ちひしがれて、でも想う気持ちは消えなかった。

知り合って、好きになって、四度目の夏。

長すぎる片思いは常にある種の諦めと共にあり、歪(いびつ)に成長した恋心は俺の心を不必要に強くした。けれど未だに慣れない事がある。それは、俺の言動でこいつが悲しむ事だ。どんなに些細な事であっても、どうしようもなく胸に刺さる。

本当はもっと優しくしたい。それが出来無い自分がもどかしい。だから、余計に強く当たってしまう。幼稚な自分を変えたい。

-----俺に自信を下さい。男として見て下さい。そうしたら、きっと変われる。

突如胸中に強い衝動が沸き立ち、ずっと言えずに居た言葉が外の世界に解き放たれたいと暴れ出す。

ーーーーー好きだよ。

草履(ぞうり)で歩きすぎて足が痛くなったのか、先程から自分の足下に視線を落としている、紫陽花(あじさい)柄の浴衣姿の小さな肩。

当り前の様に俺と並んで歩いてくれる、俺と笑ってくれる、俺と喧嘩してくれる君。

この一言で、失うかもしれない。もしかしたら泣かせてしまうのかもしれない。そして、もし付き合えても、結果上手くいかないかもしれない。

でも、好きだよ。ずっとずっと好きだったよ。モンちゃんと原付で二人乗りして警察に捕まっていた十八の君も、失恋したと大泣きしながらチホちゃんに抱きついて鼻水も流していたくせにそれからすぐに新しい彼氏が出来て高笑いしていた十九の君も、小汚いラーメン屋のチャーハンを笑顔で食べていたハタチの君も、デート中なのに俺のために駆けつけてくれた二十一の君も、今目の前に居る、馬鹿みたいに酔っ払った二十二歳の君も。

俺が身内以外で『お前』なんて呼ぶ女の子は、君だけだ。馬鹿で子どもな自分の、下らない照れ隠し。本当は、名前で優しく呼びたい。

「好きだ。ずっと好きだった。俺と付き合って欲しい。」

ーーーーー言い切った。

言い終わり、意外な程に冷静な自分に少し驚く。

(なるようになれ……。)

あいつは顔を伏せたまま、沈黙が二人を包んだ。波の音と虫の音(ね)が、時間が止まったと錯覚しそうになるのを正してくれる。

しばらくして、紫陽花柄の小さな肩が小刻みに揺れ始めた。

「…………う…。」

(…………う?)

小さく一言唸ったかと思いきや、先程までとは打って変わって素早い動きで俺に背を向け、道端の松林(まつばやし)に走り出すあいつ。

ああ。今この瞬間、俺より哀れな二十二歳大学生男子が、果たして日本に何人居るだろうか。

「うえぇええ………っ!!」

あいつの消えた木々の陰から聞こえてきたのは、明らかに嘔吐している声だった。



「…大丈夫か?」

背中を摩(さす)ってやりながら、果たして手を充てるのは帯より上の方がいいのか下の方がいいのかと戸惑う。

「…いーから…あっち……行ってて………。」

バツが悪そうな酔っ払いの言葉を、俺はキッパリはね除けた。

「居酒屋でバイトしてたから慣れてる。気にするな。」

水を持って来てやりたいところだが、野外に置き去りにする事になってしまう。吐き気が一通り治まったのを確認し、「立てるか?」と問うと、「大丈夫…」と答えながら立ち上がったあいつの様子は明らかに大丈夫では無く、途切れ途切れに後悔の念を口にした。

「ふ…不覚……飲んで、吐いた、事、無いの……自慢、だったのに…。」

「ワインはな、飲み合わせによっては悪酔いするんだよ。いいから喋るな、気持ち悪いんだろ?歩けないなら俺がーーーーー。」

俺が負(お)ぶってやる。そう言おうとして、相手が浴衣を着ている点に気付いて止めた。

そして一瞬だけ戸惑ったが、自分の中の自分に「今更何を恥ずかしがる事があるか」と笑われ、あいつの脚と腰に腕を回す。

「暴れんなよ!!」

そう言って持ち上げたあいつはやはり激しく抵抗し、「嘘!?ちょっと待って!!」と足をジタバタさせた。けれど、力勝負ならば百九十センチオーバーの俺の圧勝なのは言うまでも無い。

「私重いからヤダってば!降ろしてよ!降ろせ!!」

「全~然!軽い軽い!!何照れちゃってんの、お前こそ可愛いヤツ!!」

先刻言われた台詞を笑って返した。腕の力をガッチリと固めたまま抱き上げ続けていると、しばらくして観念したように抵抗が止んだ。民宿に向かって足を進めている間、俺の腕の中で小さくなっている酔っ払いは、起きているのか寝ているのかずっと黙っていたが、半分ほど引き返したあたりでポツリと呟くように言った。

「…かたじけない………。」

お前は武士かよと笑って返すと、「ところで話って何だったの?」と信じられない言葉が続き、俺は思わず吹き出した。一気に色々な感情がないまぜになって、腹の底から込み上げてきた笑いを止められなかった。

空には夏の星座達。周囲を包む、潮の香り。夜風がそよぐ松林。

俺は大好きな女を抱きかかえ、大声で高笑いしながら夜道を進んだ。

それは奇妙な高揚感に包まれた、不思議な不思議な時間だった。



民宿に戻るとまだ酒盛りは続いていたが、俺の腕の中で潰れているあいつを見たほろ酔いのチホちゃんが「あっちにどうぞ」と、玄関横の六畳間に誘導してくれた。薄暗がりの部屋の中には二枚の布団が敷いてあり、その布団それぞれに酔い潰れて気持ち悪そうにしているモンちゃんとシュウイチが寝そべっていた。

俺はシュウイチを脚で転がしてモンちゃんの方に押しやり、空いた布団にあいつを優しく降ろした。

腕を解(ほど)く直前、一瞬だけ軽く抱き寄せてみた。このまま『悪いイイジマ君』になってキスでもしてやろうかという思いが頭を過(よ)ぎったが、背後のモンちゃんが「シュウイチ…臭ぇ…」と呟いたので止めた。

台所に行き、ミネラルウォーターのペットボトルを手にして戻ると、あいつは少し落ち着いたらしく布団の上で上半身を起こしていた。水を受け取ったその瞳はまだ少し虚ろだが、具合は大分良さそうだ。俺は横にしゃがみ込み、聞いた。

「お前さ…白川先輩が好きなのか?」

唐突な質問に首をひねるあいつ。長考の末に返ってきた答えは、少々異質なモノだった。

「好きと言うか、『あーコレ私のだ』って。だから、また会ってみたいなと思ってる。」

「……好みのタイプとか、そういう事か?」

そういうのとはちょっと違うかな、と前置きをして語り出すあいつ。

「私ってさ、イイジマみたいに異性にモテるわけじゃ全然無いけど…というか、全くモテないけども。でも、好かれる人からはとにかく凄く好かれるんだよね。ゼロか百か、みたいな。」

豆電球だけが灯る古い六畳間。浴衣姿のあいつが、「見たら分るんだ」と、薄く笑って続ける。

「今までの彼氏とか、良い感じになった人は決まって皆そう。大体が優しくて、女の人からも普通に好かれそうなタイプなのに、私に目で言うの。『好きに振り回していいよ』って。」

俺は一体、何の話をされているのだろう。見慣れているはずのアイツがまるで別人のようだ。

「私の事を好きになる人って、ある意味で皆変態なんだろうなと思ってる。」

その言葉を聞いた瞬間、俺の胸中はストンと綺麗な音を立てて、正(まさ)しく“腑(ふ)に落ちた”。弱めの電流に貫かれたように、脳と身体がジンジンする。その余韻が冷めないうちに、あいつは更に続けた。

「単純に好きかどうかで言ったら、イイジマ達の方がずっと好きで必要だよ。きっと私ってまだ子どもなんだよ。彼氏には彼氏の良さがもちろんあるけど、一緒に馬鹿やってくれる友達の方が一緒に居て楽しい。」

その顔は、すっかり普段の呑気(のんき)そうなあいつに戻っている。それからあいつは、満面の笑みでこう言った。

「だからイイジマ、遠くに行かないでね。もっと一緒に遊んで!」

いつもそうだ。

独占欲より、嫉妬より、想いが伝わらない惨めさより、ふいに抱きしめたくなる衝動より、理屈抜きで圧勝するのはこの笑顔だ。

もう、何でもいい。この想いが通じない事くらい、些細な事だ。けれど一つだけ、俺の願いよ、叶ってくれ。俺を男として見てくれなくてもいい。でもせめて、俺より優しくて君の笑顔を守ってくれる男を選んで欲しい。


君が笑っている事が、俺の幸せだ。


・・・・・



二十二歳の夏、俺の告白は不発に終わった。

けれど、それでいいのだと、俺の胸の内は実に穏やかだった。あの時、高笑いしながらあいつを抱きかかえて歩いた夜道で、俺は何本かの頭のネジを落としたのだと思う。

それから俺は大学を卒業し、社会人になった。「ウチは最初はなるべく実家から通ってもらう方針だから」という前置きとともに告げられた配属先は、地元からすぐの店舗だった。

ところであの夏、「俺の学生最後の夏をエンジョイさせてくれ!」と言っていたモンちゃんは単位の計算ミスで前期のみの留年を余儀なくされ、東京で決まっていた内定も取り消しになり、半年後に地元で就職をした。余談だが、あれからヒナコちゃんに告白はしたもののフラれたらしい。

俺とあいつとモンちゃんとの腐れ縁はそのまま続き、そして二十六になったある日、趣味でバンドをやっている友人のライブの打ち上げとその友人の婚約祝いを兼ねた飲み会で、あの男に出会った。

閉演後の小さなライブハウスが会場だったその宴席で、たまたま舞台裏で痴話喧嘩のような会話を繰り広げる男女を目撃した。その小一時間後、その男の方があいつの横に立ち、二人で映画を観に行く計画を話していたのだ。

「だらしなさ」を絵に描いたようなその男に、ハッキリとした怒りが湧いた。お前みたいないい加減な男がどうこうしていい女じゃ無いんだよと、掴みかかりたい衝動を必死に押さえる。

その男が立ち去った後、「今の、彼氏か?」と訪ねると、「別に付き合ってるとかじゃ無いよ」と、曖昧な返事が返ってきた。

(お前が笑顔でいるために手を引いたのに、ワケの分らない男に引っかかりやがって。何してくれてるんだよ!!)

言い表し様の無い感情を胸に抱えたまましばらく過ごしていると、ある日の仕事中、先輩が「昨日ちょっと変な客に当たった」と笑い話をしてきた。


「社用車を4台まとめて買ってくれるって事で話が進んでたけど、あっちの提示してきた値引率がえげつないの。で、俺がシブってたら、『うちの女子社員と合コンセッティングしてやるから』とか言うわけ。で、俺が気になってる人が居ますからって言ったら、『じゃあその相手に告白したら割引無しで買ってやるよ』ってさ。」


それを聞いた瞬間俺は私用の携帯を手に取り、先輩に「その話、いただきます!」と言ってあいつに連絡を取った。





~おしまい~

…and

~本編へつづく~

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