だけど願いはかなわない 第十話「来客」
ハルキ君には一切のトゲが無い。
ハルキ君は笑顔が可愛い。
ハルキ君は優しい。
ハルキ君の側に居ると、温かい気持ちになれる。
大人の男性としては異質な程の純粋さを持つ彼に対して、偽善者だとか男らしくないとか鼻につくとか、好ましくない印象を持つ人も居るだろう。実際、私も最初の頃は『好人物を演じているのではないか』という警戒をしていた。
けれど、彼と会っているうちにその疑いは自然と晴れ、そんな猜疑心を抱いていた自分自身を恥じたのだ。
それ程、ハルキ君には裏表や計算高さといったものが無い。
例えば、あれは何度目に会った時だっただろうか。
金曜日の夜、待ち合わせの駅で先に着いていたハルキ君を見付けると、いつもならすぐに私に気付いてくれるはずの彼の視線がそっぽを向いていた。その視線を追った先には、迷子らしき五、六歳ほどの女の子が今にも泣き出しそうな顔で立っていたのだ。
「スミちゃんごめん。僕は駅員さんを呼んでくるから、あの子と居てもらえないかな?」
自分では恐がらせてしまうのではないかという気遣いと、男性が幼い女の子に声をかける事で受けるあらぬ誤解を避けるための機転。そして、自分がその場を離れている間に女の子の姿が消えてしまわないように、私が到着するまではそっと見守り、私に託した後は自分はしかるべき所に知らせに行く。
完璧な対応だと思った。それから、終始冷静だったハルキ君を見て、それがとっさに出来るくらい他人に親切にする事に慣れているのだとも。
けれど、迷子に親切にするという選択自体は、そう少数派でも無いだろう。私がハルキ君の心根に衝撃を受けたのは、その後だ。
数時間後の深夜、同じ駅に戻った私達はちょうど会話が盛り上がっていたので終電まで立ち話をし、そしてお互いのホームに向かってお別れをした直後、私が彼の折りたたみ傘を持っている事に気が付いた。
ハルキ君が靴紐を結び直そうとした際、荷物で手が塞がっていては不便だろうと私が彼の鞄と折りたたみ傘を受け取り、そしてうっかりと存在感の薄い折りたたみ傘の方だけ返し忘れていたのだ。
慌てて引き返してハルキ君を探したけれど、ハルキ君の終電は私より早かった事に思い至り、これはもう間に合わないなと諦め掛けたその時、駅員さんと話し込んでいる彼の姿を見付けた。その駅員さんの顔に、見覚えがあった。迷子の件で対応してくれた人だ。
終電間際の雑踏に紛れて会話までは聞き取れなかったけれど、予想はすぐに付いた。何往復かの会話の後、駅員さんに軽くお辞儀をして振り向いたハルキ君は、喜びと慈愛と安堵感に満たされたような、極上の笑顔だったのだ。
ーーーーー ああ、この人は、あの女の子が無事に親元に帰れたと聞いただけで、こんなにも幸せな気分になれるのか。
それから私に気付いたハルキ君に傘を差し出したタイミングで、構内のアナウンスが彼の終電がホームに入ってくる事を告げた。ホームまでは、到底間に合う距離では無い。
ハルキ君は、苦笑いと照れが入り混じったようなバツの悪そうな表情を浮かべ、「ここからなら歩けない距離じゃ無いから歩いて帰るよ。その前に、スミちゃんをお見送りさせてもらってもいいかな?」と、私の利用するホームの方まで送ってくれたのだった。
窓越しに次々と消えていく夜の街を眺めながら、ハルキ君は終電を逃すと分っていてもとっさに女の子の安否を確認せずにいられなかったのだと思い返し、こんな人が存在するのだという衝撃と共に、何だか私まで幸せな気持ちになって、酔客だらけの列車の中で一人クスクスと笑った。
・・・・・
あおいちゃんがハルキ君を連れて帰って来たのは、私がハルキ君に『今までありがとう』というメッセージを送った翌日の土曜日、小雨が降り出した夕方の事だった。
彼自身の意思でやって来たわけでは無い事は、一目見てすぐに分った。消防士の逞しい肩を貸されて半ば運ばれているような状態のハルキ君は、我が家の玄関をくぐってすぐにあおいちゃんの部屋のベットに横たえられ、テキパキと看病された後、そのまま眠りに落ちたようだった。
「ジュン。インフルエンザの予防接種、今年もちゃんと受けたよな?」
あっけにとられている私に対し、あおいちゃんの口から出てきたのは説明の言葉では無く質問だった。
あおいちゃんは仕事柄毎年必ずインフルエンザの予防接種を受ける事になっていて、それは同居人の私も毎年の習慣になっている。
「してるけど…。」
「よし。ただし、予防接種をしててもうつる事はあるからな。春日さんと接する時はマスクを忘れずに。手洗いと換気もこまめにな。」
一方的に注意事項を伝え、先程ハルキ君から剥ぎ取ったダウンコートを吊して除菌消臭スプレーをかけるあおいちゃん。そういえば、そのカーキ色のコートはあおいちゃんのものだ。どうしてハルキ君が着ていたのだろうか。
それからあおいちゃんは、別の上着とボディバッグを手にし、玄関へと足を進めた。小雨が降っていることを一瞬忘れたのか、いつも玄関に出しっぱなしのお気に入りの皮のエンジニアブーツを履きかけ、別の靴に換えながら背中越しに言葉を続ける。
「キッチンに処方薬を置いてるから、夕食後にまた飲ませてやってくれ。」
そう言いながら手を伸ばしたのは、私が彼の誕生日にプレゼントした長傘。それをとっさに奪い、引き留めた。
「夕食後にって、あおいちゃん…夜まで帰らないの?…ううん、そもそも、どういうつもり?」
私に手の平を差し出し、傘を返すようジェスチャーで示すあおいちゃん。『消防士というよりは放火する側』と称される彼のギョロ目は、こうやって無言で向かい合っているだけで凄まじい程の迫力を放つ。
けれど、産まれた時からの付き合いの私にその目力は通用しない。両手でギュッと傘を掴んで睨み返した。
あおいちゃんは困ったようにして右手で自分の両目を覆って小さなため息をつくと、それから真っ直ぐに私に向き直り、言った。
「ジュン、俺達だっていつまでも一緒には居られないだろ。結果がどうであれ、春日さんとはちゃんと話し合え。」
それから、「今夜は俺はデートだから連絡するなよ!」と吐き捨てるように言い、傘を持たないまま玄関扉の向こう側に消えた。
話し合えと言われても相手は眠っていて、ハルキ君がこの家に居る違和感に慣れないままリビングで所在無く時間を潰した。
何より、あおいちゃんの口から飛び出した言葉があまりにショックで、思考がまとまらない。
ーーーーー いつまでも一緒には居られない。
あおいちゃんは、この家を出て行く事を考えているのだろうか。もしかしたら、今日のデート相手と一緒に暮らしたいのかもしれない。
あおいちゃんの恋愛において、私の存在がお荷物なのではという心配は、今までだってしなかったわけじゃ無かった。けれどあおいちゃんは何も言わなかったので、それに甘えてしまっていたのだ。
あおいちゃんがプレゼントしてくれたクッションを抱きしめると一気に涙腺が崩壊し、自分でも呆れる程、子どもみたいに嗚咽を上げて泣いた。
木製のドアを一枚隔てた先にハルキ君が居るのは分っている。けれど、どうしようもなく我慢が出来無かった。
五月十七日、私とあおいちゃんの誕生日。同じ日に生まれた私達は、毎年プレゼント交換をするのが恒例だ。今年は、私は駅前の雑貨屋さんで購入した傘を、あおいちゃんはバーバリーのクッションを用意していた。
それはバーバリーにしては珍しいデザインの真っ白い編み込みのクッションで、一緒に見た映画の中で小物として使用されていたのを私が可愛いと言っていた物だった。等価交換にはほど遠く、腰が引き気味の私にあおいちゃんはぶっきらぼうに言った。
「他に思い付かなかったからいいんだよ。」
私の趣味嗜好を知り尽くしているあおいちゃんに限ってそんな事は嘘に決まっていて、私はもちろんそのクッションも物凄く嬉しかったけれど、こんなに素敵な親友が居る事をこそ改めて嬉しく思ったのだ。
次から次に涙が溢れ、私の両耳が私の泣き声で覆い尽くされた頃、「スミちゃん…」と、か細い声がしてあおいちゃんの部屋のドアが開いた。
「泣いてるの…?大丈夫?」
ドアの枠に背中を預けるようにしてやっと立っているハルキ君は、見るからに具合の悪そうな顔をしていて、それでも私に向けられているその瞳はあくまで優しさに溢れている。
知ってる。貴方は優しいって。
結婚していたのを黙っていた事だって、ただの既婚者の女遊びとは違って貴方なりの事情があるのだとすんなり受け止められるくらいには信用している。出会ってからのこの数ヶ月、私達はただ肌で温め合うだけの関係では無くなっていたのだろう。私は貴方から沢山の愛情を注いでもらい、そしてそれは私に柔らかな気持ちと安心感を与えてくれた。
けれど、私とシロさんのこの家で、当り前の様に存在していい男の人はあおいちゃんだけだ。
あおいちゃんがお節介で連れてきた事は承知の上なのに、私はハルキ君に八つ当たりする自分を止められなかった。
「ハルキ君、あおいちゃんに何言ったの?ハルキ君なんか、大っ嫌い!」
あおいちゃんの幸せは、誰よりも願っている。けれど、離れる事を考えただけでこんなにも寂しいなんて。
勢いに任せてハルキ君を怒鳴り散らした後、急激に罪悪感に襲われ、改めて彼に目を向けた。しかしそこにあったのは、想像を遙かに超えた照れ笑いのような表情で、それはうっすらと喜びの色すら感じさせるものだった。
「…何で笑ってるの……。」
私が自分の息を落ち着かせながら質問すると、ハルキ君は大きく咳き込み、それから途切れ途切れに答えた。
「ごめん…何だか……こんなスミちゃん、初めて見たから……可愛くて、つい……。もう会えないと思ってたから、嫌いって言われても嬉しい…。」
ーーーーー ああ、この人は、本当に何て馬鹿なんだろう。
私の事なんか、どんなに好きになっても報われないのに。
私は「何それ」と少し笑ってから、ハルキ君の身体をゆっくり押すようにしてあおいちゃんのベッドに彼を戻した。
「お腹空いてない?お粥作るから、それまで寝ててね」
そう言ってそっと布団を掛けると、ハルキ君はよっぽど体調が悪いのかすぐにまぶたを閉じた。
・・・・・
女(異性)と一緒に住んでいると言うと、ゲイ・コミュニティでは白い目で見られる事もある。それは、『ズルイ』という嫉妬からくるものだ。
自分に惚れている女を隠れ蓑として利用している、もしくは男女両方に性的な興味を抱くバイセクシャルで普段はすっかりノーマルのフリをしている。そういった想像で勝手な決め付けをして、見当違いの敵意を向けてくる奴が少なからず存在する。
俺は、これは裏を返せば、そいつがそれだけ生き辛さを抱えているという事の現れだと思っている。
異性愛者に比べて不自由な思いをする事の多い同性愛者だが、実際、そのハードルは身近に理解者が存在するかという一点でかなり違ってくるだろう。俺は、そこに関してはかなり幸運な部類だという自覚がある。
特に、学生生活において何より大きかったのがジュンの存在だった。
ジュンは、不思議と幼い頃から俺のセクシャリティを当たり前の事として受け止めていて、そしてそれと同時に何かとフォローをしてくれた。
「シロさんの事を知らない相手になら、私を彼女だって言ってもいいよ。」
そう言うジュンに、俺とお前じゃ釣り合わないからかえって不自然だと苦笑した事がある。当時の俺は肥満体のニキビ面で、同性愛者であろうが無かろうが恋愛から縁遠い外見だったからだ。
中三の夏、大失恋をした。相手は兄貴の家の近所に住む二つ年上の中華系アメリカ人で、俺は初めて肉体関係を持ったそいつに夢中になった。けれど、そいつにとってそれは、不細工な俺をもてあそんでせせら笑うための悪趣味なゲームだったのだ。
ズタボロになったプライドに自分でムチを打ち、一心不乱に筋トレに打ち込んだ。体型はみるみるうちに変化し、新陳代謝が良くなったおかげでニキビが治り、やたらと腫れぼったかったまぶたがスッキリとして自分の本来の目の大きさに驚いた。自然と自信が付き、男子からナメた態度を取られる事は無くなったし、女子からも告白されるようになった。
周りの俺を見る目が次々と変わる中、だけどジュンは何一つ変わらなかった。
「あおいちゃんは、ずーっとカッコ良かったよ。私の自慢の幼なじみだもん。」
決してからかいでは無く、真顔でそう言うのだ。
ジュンと一緒に住むようになった経緯をゲイ仲間に話すと、いくら幼なじみで亡くなった兄の恋人とは言え、もっと自分自身の人生を大切にしろと諭される事がある。けれどそれは、見当違いの説教だ。
ジュンを手放せないのは、むしろ俺の方だと思う。
同じ日に同じ産院で生まれ、一緒に育った幼なじみ。どんな時でも俺を全肯定してくれる存在で、俺の心の拠り所。
普通、異性の友人というのは大人になるに連れて疎遠になるものだろうし、どちらかが結婚でもすればそれまでの関係を維持する事は困難だろう。けれど、異性が恋愛対象になりえない俺と、そして俺の兄と親公認の恋愛関係にあるジュンは特殊な間柄で、俺もジュンも当然のように、まるで幼かった頃の二人のままの親密さで居られるのだと疑っていなかった。
身内のようなものでは無く、本当の身内になる、と。
それから、自分の子どもを一生持つことが無いくせに子ども好きの俺にとって、ジュンは密かな希望でもあった。時折、俺の母親が「ジュンちゃんの子どもなら美形に決まってるから、早く孫の顔が見たいわ」と冗談半分で言っていたように、俺もいつか甥か姪を可愛がることが出来るのかもしれないと。
だけど、願いは叶わない。
兄貴の居ない今、ジュンをいつまでも俺の家族に縛り付けているわけにはいかないのだと、インターネットカフェのフラットシートに横たわりながら自分に言い聞かせた。
つづく
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