見出し画像

【短編集】のどに骨、胸にとげ/ふたつめのおはなし 「家族」


 時計の長い針が「12」を指すと、家の二階から目覚ましの音が聞こえて、そしてそれはすぐに消える。「1」になると、今度はお母さんが二階に向かって声をかける。それが「2」になって、「3」になって、お母さんの声がだんだん大きくなっても、そらお兄ちゃんは全然起きて来ない。

 だから、お兄ちゃんの部屋まで行って起こすのは、私の毎朝の仕事だ。

「お兄ちゃん、朝だよ。学校に遅刻しちゃうよ」

 私がそう言いながらスリスリと布団に体を擦りつけると、お兄ちゃんは寝ぼけまなこで必死に、でも少し嬉しそうに上体を起こした。

「うん……ウミ、おはよう」

 お兄ちゃんと一緒に階段を下りていく途中、すりガラス越しにさんさんと朝陽が降り注ぐ階段の踊り場を、でんと真っ黒な毛玉が占領していた。その毛玉が、空お兄ちゃんを見て「ニャー」と甘えた声を上げる。

「カイもおはよう」

 その言葉に、カイお兄ちゃんがもう一度ニャーと返した。

「空、やっと起きたのね」

 ダイニングテーブルにスタンバイしているのは、空お兄ちゃんのトーストと目玉焼き。その足元に、私とカイお兄ちゃんの朝ごはん。

「ウミ、いつも空を起こしてくれてありがとうね」

 お母さんの柔らかい手が、私の頭を優しく撫でる。私はそれが嬉しくて、毎朝頑張ってお兄ちゃんを起こすのだ。

「はい、皆、どうぞめしあがれ」

 カイお兄ちゃんはお医者さんに太り過ぎだと言われてから、ダイエット中だ。お母さんがお皿に乗せてくれるカリカリの量が前より少ないので、毎回恨めし気な声をあげる。

 ーーーーー今週末に投票が開始されるアメリカ大統領選挙は、事実上の一騎打ちと見られており……。

 ーーーーー先月末に急逝された、女優の西田しほりさんのお別れの会が、昨日午後一時より都内の〇〇ホールにて開催されました。

 別に誰もちゃんと観ていないのに、リビングのテレビからは朝のニュースが流れてくる。ニュースを見ながら朝の支度をするのはお父さんの習慣なのだけれど、そのお父さんは少し前から“せんだい”というところで一人暮らしをしながらお仕事をしていて、たまにしか帰ってこない。

 だから朝からテレビを観る人は居ないのに、お母さんはやっぱりニュースを点けるのだ。もしかしたら、少し寂しいのかもしれない。テレビの内容は私には少し難しいけれど、いつも可愛いスカート姿のお天気お姉さんを見るのが好きだ。

 ーーーーー今年の夏は、記録的な猛暑となりそうです。

 ーーーーー夜十時からのノンフィクション特集は、様々な理由で戸籍が無いままの人生を送る人々、『無戸籍の実態』について迫ります。

「ほら、もう夜の番組の告知の時間になっちゃった。空、早くしなさいよ」

 お母さんに急かされ、空お兄ちゃんは不満げに席を立った。歯磨きと洗顔と着替えを終えて、中学校の制服に身を包むと、私とカイお兄ちゃんを見下ろし、お決まりの言葉をため息交じりに吐き出す。

「いいなぁ……お前達には、学校が無くて」

 カイお兄ちゃんが、ニャーと抗議の声を上げた。私とカイお兄ちゃんには学校は無いけれど、外に出かける自由も無いのだ。私はお家が大好きだから不満は無いのだけれど、好奇心が強いカイお兄ちゃんは外の世界が気になるらしい。

 そんな事より私は、空お兄ちゃんに早く帰ってきて欲しい。そう思いながら、制服にスリスリと頭を擦りつけた。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい、今日も暑いからちゃんと水筒のお茶を飲んでね」

 玄関ドアが閉まる音がすると、お母さんはエプロンを外しながらカレンダーを確認し、「今日はカイの検診の日ね」と、独り言を呟いた。

 ああ、カイお兄ちゃんのお医者さんのところに行くのか。私達がお出かけをする、数少ないイベントだ。外は好きでは無いけれど、車でお出かけするのは楽しい。それに、私はいつも鍵のかかった車の中で待っているだけだから安心だ。カイお兄ちゃんは外には興味があるくせに車が苦手で、私と一緒じゃないと乗りたがらないから、いつも私が付き添いをする事になっているのだ。

 全く、空お兄ちゃんも、カイお兄ちゃんも、うちのお兄ちゃん達はどっちも手がかかる。


「カイは、拾った時にガリガリに痩せててね。明日死んじゃうんじゃないかって心配なくらいで。だから、大きくなってもつい食べさせ過ぎちゃって。でも、獣医さんに叱られるくらい太らせちゃうのはやり過ぎよね。ごめんね」

 運転席のお母さんが、独り言にしては大きく、私達に話をしているにしては小さいような声で言った。

 こういう時のお母さんは、今まで何度も聞いた事がある話ばかりを繰り返す。きっとこの後、カイお兄ちゃんが家族になった時の話をして、それから私の時の話をするのだろう。そう思っていたら、やっぱりそっくりそのままで、私は心の中でクスリと笑った。

 このお家に来る前のカイお兄ちゃんは、段ボールに入れられて小さな公園の隅に捨てられていたという。

 幼稚園からの帰り道、空お兄ちゃんがカイお兄ちゃんを見付けて、どうしても連れて帰りたい、この黒猫を自分の弟にするんだとお願いしたそうだ。お父さんもお母さんもペットを飼った事が無い上に、その黒猫は見るからに弱っていた。

 けれどお母さんは、「猫を飼いたい」では無く、「弟にする」と何度も繰り返す空お兄ちゃんに、ダメだとは言えなかった。空お兄ちゃんは一人っ子で、お母さんは病気で“しきゅう”を取ったからもう赤ちゃんは産めない。

「本当は、四人でも五人でも欲しかったのよ。私もお父さんも早くに親を亡くしていて、親戚もほとんど居ないでしょう? 家族を沢山作ろうねって約束して結婚したのに……」

 この話の途中に少し涙ぐむのも、お決まりのパターンだ。いつもの事だと分かっていても、お母さんが泣くと私も悲しい。

「もともと、どちらかと言うと猫は苦手だったの。でも、いざカイを迎え入れてみると、家族みんなで夢中になっちゃってね。こんなに可愛いなら、弟だけじゃなくて妹も欲しいねって。ウミの事は、旅行先で立ち寄った、田舎のホームセンターにあったペットショップで一目惚れしちゃって、もうこれは運命だと思ってそのまま連れて帰ったのよ」

 私が妹になったのは、まだミルクを飲んでいたような、何も分からない赤ちゃんの頃らしい。だから覚えているはずは無いのだけれど、そのペットショップの天井が綺麗な青色だった記憶がある。私はその天井を見つめながら眠りに落ちて、お昼寝から目が覚めると知らない場所-----多分、お父さんの車の中に居て、びっくりして泣いてしまったのだ。

 最初の頃は、前に居たところに戻りたくて、不安で不安でたまらなくて、沢山泣いたような気がする。けれどお母さん達はとっても優しくて、私の事を愛情いっぱい可愛がってくれた。今は、この家にもらわれてきた私はとっても幸運だったんだなと思う。

 だって、外の世界はとっても怖いのだから。

 お母さんの思い出話はまだまだ続いているけれど、私は別の事を思い出していた。

 ずっと以前、カイお兄ちゃんがお庭にやってきた小鳥を追いかけて、そのまま帰って来なかった事があったのだ。

 お父さんは近所中を必死に探し周り、お母さんは泣きながらポスターを作った。そんな毎日が続いたある日、まだ小学校三年生くらいだった空お兄ちゃんが、カイお兄ちゃんは私の姿を見たら出て来るんじゃないかと思い付き、お父さん達に黙って一人で私を連れ出した。 

 それを知ったお父さんとお母さんは、それまで見た事も無いくらいに激しく空お兄ちゃんを叱った。特にお母さんの怒りは凄くて、まるで叫んでいるような声だった。

「ウミを外に連れて行かないって約束でしょう!! 誰かに連れていかれたら、ウミはもう二度とうちに帰ってこれなくなるのよ!? ウミと家族で居たいなら、二度としないで!!!!」

 普段はあんなに優しいお母さんがこんなに怒るなんて、外の世界には私の想像もつかないくらい悪い人間が沢山居るに違いない。私がこの家の子で居られなくなるなんて、恐ろしくてたまらなかった。

 その翌日、近所のお年寄りの家に上がり込んでいたカイお兄ちゃんが無事に帰って来た。首輪も無いし、人懐っこい猫だったのでそのまま飼おうかと思っていたが、お母さんの作ったポスターを見かけて電話をくれたらしい。

「たまたま良識のある優しい人で、本当に良かった」

 お母さんが、久しぶりに家に帰って来たカイお兄ちゃんを抱きしめながら言った。私にはよく分からなかったけれど、お兄ちゃんが無事に帰ってきてとても嬉しかった。

 もしその人が優しい人じゃ無かったら、カイお兄ちゃんはどうなっていたのだろう? そう考えていると、お父さんがまるで私の頭の中を見透かしたように言った。

「そうだね。カイを探している事を知ってもそのまま黙って家で飼う人だって居るだろうし、返す代わりにって高額なお金を請求するような人だって、きっと居るよね。いや、もっと酷い人だったら、遊び半分で命を奪われていたかもしれない」

「あぁ、考えただけでもゾッとしちゃう……。今度、あのお宅にきちんとお礼に行きましょう。それと、外に出すつもりが無かったから考えていなかったけど、カイもウミもちゃんと首輪を着けた方がいいわね」

 やっぱり外は怖いんだ。またカイお兄ちゃんが居なくなったらどうしよう。その日は不安でたまらなくて、カイお兄ちゃんに寄り添って眠った。

 次の日、元気が無い私を心配してくれたのか、お母さんが可愛い首飾りを着けてくれた。そしてそれは、毎年私の誕生日に新しくなる。今だって、私の首にはピンクの首飾りがあるのだ。今年のものは、デザインがとっても可愛いらしい。お母さんがたまたま街で見つけて、少し高いけど私に似合うと思って買ってくれたらしい。今までで一番のお気に入りだ。

 私は、運転中のお母さんの背中に、心の中でそっと呟いた。

 お母さん、大好き。

 お父さんも、空お兄ちゃんも、カイお兄ちゃんも、皆大好き。私が大人になっても、空お兄ちゃんがお父さんくらいになっても、ずっとずっと、皆でこの家で暮らせますように。


・・・・・


 暑い、苦しい、暑い、苦しい。

 何、何、何が起こっているの?

 おかしいよ。いつもカイお兄ちゃんを待っている間、車の中はひんやりと涼しいのに、今日だけ違う。

 お母さん、お母さん、まだ?

 どうしてこんなに暑いの。車の中にはお水も無いし、息をするにも熱が喉にまとわりついて、もうこれ以上耐えられない。

 だめだ、もう、頭がーーーーー。



 ーーーーー誰か、泣いてる。



「お願い……それはやめて、やめて……お願い……」

 お母さんだ。お母さんが泣いてる。あれ、お家だ。いつ帰ってきたんだろう。これは、夢?

「お母さん、僕、知的な障害があるよね。でも、ちょっとだけだ。もう、中学生だから。何も知らない子ども、違う、それは違うよ。うちが、おかしいって、ちゃんと、分かっているよ。お母さん達が、人に言えない事を、した、それも、分かってる」

 空お兄ちゃんが何か言っているけど、頭がぼんやりして、よく聞き取れない。ああ、目も上手く開けられない。カイお兄ちゃんは、どこ?

「お願いよ、空。ウミは息はあるから、きっと大丈夫よ。電話をしたら、ウミはきっとそのまま戻ってこない。もうウミと家族で居られなくなってもいいの?」

 何? お母さん、何だかとっても怖い事を言っている。

 嫌だ嫌だ、止めて止めて。

 目の奥がズキズキする。とんでも無く気持ちが悪い。ああ、また頭がぼんやりする。お母さんと空お兄ちゃんが何の話をしているのか、良く分からない。

 けれど、最後に聞いた空お兄ちゃんの言葉だけは、私の耳にはっきりと届いた。

「ウミの命、大事。何より、大事、だよ」

 その声は、お母さんよりもっと泣いているように聞こえた。


・・・・・


 窓の下、街を行く人達は、長袖のお洋服が増えてきた。あの日救急車で運ばれてから、どのくらい経ったのだろう。私は、まだお家に帰れていない。

 お母さんは救急車に一緒に乗って来たらしいのに、私が起きた時にはもう居なかった。どうしてかは分からないけれど、ここに会いにも来てくれない。お母さんだけでなく、お父さんや空お兄ちゃん、カイお兄ちゃんも。

 最初の頃は毎日泣いていたけど、ここに居る沢山の看護師さんや、何度もやって来る警察官の女の人、“じどうそうだんじょ”の人、皆、とっても優しくしてくれるので少しずつ慣れてきた。

 ずっと、外は怖い人だらけだと思っていた。けれど、ここの人達はそんな事は無い。きっと私は、家を飛び出した時のカイお兄ちゃんみたいに運が良かったんだろう。

 特に、“しんりし”の桜田さんは、毎日のように私と遊んでくれる。

「ウミちゃん、今日のおやつはクッキーだよ」

 桜田さんとお話をする時のお部屋に行くと、お皿の上にチョコチップの付いた美味しそうなクッキーを用意してくれていた。

「どうぞ、食べて」

「ありがとう」

 私はお礼を言いながら両手でお皿を持ち上げたが、それはいけない事だと気付き、焦りながら桜田さんの顔を見た。怒られちゃうかもしれないなと身構えたけれど、桜田さんはいつも通り優しかった。

「いいよ、大丈夫だから。おやつくらい、たまにはウミちゃんの好きなやり方で食べてもいいんだよ。急に全部は難しいよね。ご飯の時はテーブルで食べられるように、頑張っていこうね」

 私はその言葉に安心して、クッキーの入ったお皿を床に置き、家にいた頃のようにして食べた。

 甘いクッキーを食べ終わり、大好きな牛乳も飲み干すと、何だか少し勇気が湧いてきて、私はずっと聞けずにいた質問を口にした。

「ねえ、桜田さん。どうしてお母さんは会いに来てくれないの? もしかして、ウミが何か悪い事をしてそれで怒ってるのかな? ウミ、お母さんに嫌われちゃったの?」

 一瞬、桜田さんの口の端が下がり、への字になったのを私は見逃さなかった。心臓がドキリと音を立てる。けれど桜田さんは、すぐにいつもの笑顔に戻り、言った。

「ううん、そんな事は無いよ。ウミちゃんは何にも悪く無いし、ウミちゃんのお母さんはウミちゃんの事が大好きだからね」

「うん……本当……?」

「ねぇ、ウミちゃんって、ずっとお家に居て学校も病院も行った事が無かったのに、沢山言葉を知ってるし、凄く賢い子だよね。虫歯だって全然無い。それって、お母さんがウミちゃんを大事にしていた、何よりの証拠だと思うの」

「うーん、そうかぁ……よく分からないけど、お母さんが怒っていないのなら良かった」

「うん、大丈夫だよ。さぁウミちゃん、今日はね、後でまたお医者さんの林先生とお話をして欲しいんだけど、それまで私と病院の中を散歩しよう。一階って、まだ行った事ないよね? 林先生が、少しくらいならもう行ってもいいよって」

 この大学病院というところの一階は、外からのお客さんも沢山来るので、“よぼうせっしゅ”が終わるまで行ってはいけないと言われていた。私は、私と同い年くらいの子が皆している大事な注射を全然していなかったらしい。

 ここに来てから、毎日のように新しい経験をしている。この前は、私に“こせき”が出来た。新しい名前にもできるよと言われたけど、ウミはウミなので、そのままにしてもらった。

 でもその時に、もしかしたら後でまた違う“こせき”になるかもしれないと、よく分からない説明をされた。私の古いのが見つかって、そっちになるかもしれないって。“こせき”って、古くなるとボロボロで汚くなっちゃうのかな? それなら、新しい方がいいな。


 初めて行った一階は、他の階よりずっと天井が高くて、びっくりするくらいに広かった。想像よりも沢山の人が居て、郵便ポストやお店もあった。数えきれないくらいに沢山のテーブルと椅子がある部屋には、お年寄りやスーツを着た人や小さい子ども、色んな人が居て、お喋りをしたり何か食べたりしていた。テレビの中の世界みたいだ。

「そろそろ、戻ろうか」

 桜田さんと手を繋いでエレベーターの方に向かって歩いていると、反対側からベビーカーを押している女の人がやって来て、壁に大きく書かれている病院の地図の前で足を止めた。

 本物のベビーカーも赤ちゃんも、初めてだ。私は、ついついベビーカーの中を覗き込んだ。

 寝ているのかなと思ったけれど、赤ちゃんはぱっちりと目を開けていて、真っすぐに天井を見上げていた。小さくて、ほっぺがふっくらで、とっても可愛い。一体、何を見ているんだろう? 私は、赤ちゃんの視線を追った。

 そこにあった天井はただただ真っ白だったのに、私はなぜか、あのペットショップの綺麗な青い天井を思い出した。






「家族」 おわり


↓次のおはなしはこちら↓
【短編集】のどに骨、胸にとげ/みっつめのおはなし 「山口店長」 |ふたごやこうめ (note.com)



「のどに骨、胸にとげ」まとめ
https://note.com/futagoya/m/m0e3cc7f1d60d

ふたごやTwitter
https://x.com/umejimtan?s=21


いいなと思ったら応援しよう!