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【短編集】のどに骨、胸にとげ/さいしょのおはなし 「あの子」

あらすじ
 どこから読んでも、“イヤ~な話”の短編集。
 小さな魚の骨が喉に刺さった時のような、思い出す度に胸がチクリと痛む記憶のような。何とも言えない嫌な気分になる話を詰め込んだ、オムニバス小説。
 第一話、「あの子」。不器用で真面目な主人公は、十代の若さで祖母の介護とスーパーのアルバイトに明け暮れる日々を送っていた。そんな中、高校の同級生がバイトの後輩として入って来る。人付き合いの苦手な主人公だが、自分と同じく祖母の介護をしているという元同級生とは打ち解けていく。


 仕事帰り、思いがけず空いていたバスの中で手持ち無沙汰になり、スマホでニュースサイトの流し読みをしていると、出身高校のテニス部が今年も全国大会で優勝した事を知った。

 地元を離れて、もうすぐ二十年。出身校どころか、自分の実家や両親がどうなっているのかも知らない。同級生の連絡先だって一つも知らないし、特に会いたいと思う人も居ない。

 けれど時折、ただ一人、ふとした瞬間に思い出す女の子が居る。

 いや、女の子と言っても、相手は私と同い年だ。だから、彼女も今では四十歳手前。私と同じく、「中年」が始まっているのだろうけれど。

 約二十年前、高校を卒業した私は、進学も就職もしないまま、在学中からアルバイトをしていた地元のスーパーでそのまま働いていた。そして、夏の終わりに差し掛かった頃、そのバイトの後輩としてやってきたのが元同級生の女の子、水原エリだった。


・・・・・


「……ですって。まあ、それでも居ないよりはずっと良いわよね。土日の人手が増えるの、助かるわぁ……」

「そうよね、私達、土日両方ともシフトに入るのは厳しいものね。……あら、中田さん、今日は早出だったの?」

 ロッカールームでエプロンを脱いでいると、仲良し主婦コンビの猿渡さるわたりさんと猫柳ねこやなぎさんが、お喋りをしながら入室してきた。

「あ、お疲れ様です」

「お疲れ様。これから帰って食事の支度なんでしょ? まだ若いのに家事もして、おばあちゃんの介護もして、偉いわよね」

「ほんとほんと、うちのバカ娘に中田さんの爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらいだわ」

「そんな、当然の事をしているだけですから」

 口ではそう言いながらも、やはり改めて褒められると満更でもない。

「あらぁ、そういうところが偉いのよ。うちの娘なんてさ、何でもかんでも親にやってもらって当然って態度でさ、感謝なんて一言も無いの。この間だって、レンタルしてるビデオ……じゃ無かった、あれ、何だっけ、CDみたいなの。あの返却日が今日だったなんて、夜中に言い出してね……」

 猿渡さんの話は、いつも長い。そして、会話が苦手な私は気の利いた返事も出来ず、ニヤニヤと引きつり笑いを浮かべるのみだ。そんな私を察してか、猫柳さんが間に入ってくれた。

「ちょっと、猿ちゃん。あんまり中田さん引き止めちゃ悪いわよ、忙しいんだから」

「ああ、そうねそうね。じゃあ、中田さん、お疲れ様」

「あ、はい、お疲れ様です。お先に失礼します」

 挨拶を返し、ぺこりと頭を下げてからロッカールームを後にした。通路に出た後、ついうっかりとスーパーの店内に直結している方の扉に向かいそうになり、従業員用の出口に向かってきびすを返す。

 真っすぐに延びた通路の行き止まりにあるスイング・ドアが、従業員の通用口だ。そのドアからドンと低音が響き、台車とともに仏頂面の店長が入ってきた。それから、その店長を追うようにして、中学生くらいの女の子の姿が。

「お、お疲れ様です」

 すれ違い様に私が頭を下げると、店長は「ぉお」と、唸り声とも返事ともつかない音を口から発した。横柄な店長とは対照的に、女の子が深々と私に頭を下げ返す。

 そして上げられた顔を改めて見てみると、おぼろげではあるが見覚えがあった。痩せっぽちで背の低い、今時珍しいような分厚い眼鏡をした女の子。化粧っ気の無いほおに、薄っすらとそばかすが浮かんでいる。ぱっと見は年下に見えたが、確か、高校の同級生だ。

 ガラガラと音を立てて、店長と台車が進む。その速度はやたらと早く、女の子は慌てた様子でその後を追った。私は二人の背中を見送りながら、多分あの子が新しく採用されたバイトであろう事と、それから何となく良い子かもしれないなと、ぼんやりと思った。

 翌日のシフトは休みで、二日後にバイトに出勤すると、タイムカードを切る直前に猿渡さんにつかまった。

「ねえねえ、中田さん。新しいバイトの子、えっと、水原さんだっけ? もう会った?」

「あぁ……あの、多分なんですけど、この間、ちらっとだけ」

「そうなのねぇ。私、社員さんから履歴書見せてもらったんだけど、若葉台高校って、中田さんと一緒よね?」

「あ、はい。でも、クラスとか違ったし、顔は何となく分かるんですけど、知り合いってほどでも無くて」

「ああ、あそこ生徒数多いものね。うちの娘の女子高なんて、もともと規模が小さいのに定員割れだったのよね。私は本当は公立に行って欲しかったんだけど、落っこちちゃってさぁ。その上、卒業したらネイルの勉強が出来る専門学校に行きたいなんて言ってるのよ。ネイルなんて、そんなところに通わせて就職できるのかしら? こんな事なら、商業高校にでも行って欲しかったわよ……」

 猿渡さんのお喋りは止まらない。その背中越しに見えるタイムカードレコーダーの時計が、あと二分ほどで私の始業時間になる事を示している。

「あの、すみません……わ、私……」

 タイムカードがまだなので、ちょっとすみません。そう言って会話から抜け出すだけなのに、そんな簡単な事すら普通にできない自分が嫌になる。

「お、おはようございます」

 あせりの中、ふいにかけられた第三者の声に振り向くと、声の主はくだんの水原さんだった。

「あら、おはよう」 

 猿渡さんの意識がそれた隙をついて、タイムカードレコーダーに走り寄り、カードを切った。

 遅刻扱いにならずに済んだ事にほっと一息ついたその直後、水原さんを無視したような形になってしまったと慌てて振り返り、改めて挨拶を返した。

「あ、お、おはようございます」

 自分でも分かる。こういう時の私は、いつもより余計にぎこちない笑顔になってしまう。重ね重ね不器用な自分を歯がゆく感じたが、しかし、水原さんは全く同じ笑顔を私に返してきた。

「おはようございます。あ、あの、新しく入った水原と言います。よろしくお願いします」

 店長と一緒に居るのを見かけた時から何となく感じていたが、不思議な安心感が私を包んだ。

「あ、私は中山です。よろしくお願いします」

 私が名乗りながらおじぎをすると、水原さんは更に深く頭を下げた。私はどうして良いか分からなくなり再度おじぎをしたが、水原さんもそれに被せるようにまた頭を低くする。

「ちょっとちょっと、あなた達、何やってるのよ。もう、おっかしいんだからぁ」

 私達のやり取りに、猿渡さんが堪らず笑い出した。

「水原さんって、中山さんと似たタイプなのね。同じ高校だったからかしら?」

 その言葉に、水原さんが反応した。

「同じ高校……? 若葉台だったんですか?」

「あ、はい。あ、えっと、同い年ですし、その、敬語じゃなくて大丈夫ですよ」

 そう言いつつ自分は敬語をやめられない私の事を、猿渡さんがまた笑った。その横で水原さんが、私の顔をまじまじと見つめた後、「すみません、私、人の顔を覚えるのが苦手で」と、またぺこぺこと頭を下げた。どうやら、私の事を全く知らないらしい。

「ああ、えっと、気にしないで下さい。同じクラスになった事も無いし、私も、何となく見覚えがあるというくらいなので」

「あれ、じゃあもしかして中山さん、特進科でした?」

 水原さんの問いに私が「あ、はい」と答えると、猿渡さんが横から「へぇ」と声を上げた。水原さんは、「凄い!」「だから私、知らなかったんですね」と、少し興奮したような様子だ。

 そして、次に水原さんの口から飛び出してくるであろう言葉に、私は心の中で身構えた。できればこのまま触れないで欲しいと祈ったが、その願いはあっという間に打ち砕かれる。

「今は、どこの大学に通ってるんですか?」

 若葉台高校はスポーツが盛んで生徒数も多いが、はっきり言ってしまえば、大安牌だいあんぱいの滑り止めとして受験するような私立高校だ。けれど、学内外で特別視される存在が二つある。

 一つは、全国大会の常連となっている、サッカー部とテニス部の特待生達。実際に多くのプロを輩出していて、その特待生ともなるとわざわざ他県から入学してくるような子も珍しくない。

 そしてもう一つが、各学年に一クラスずつ設置されている特別進学科の生徒達だ。特別と言っても、そのクラスの中でも更にトップの子達が僻地へきちの国立大学や私立の薬学部に合格すれば上々とされるレベルで、私の第一志望だった高校とは比べるまでも無いのだけれど。

 それでも、普通科では留年する生徒も多いため「四年制高校」なんてあだ名を付けられているこの高校においては、まるで天才のように扱われるのだ。

 ちまたでは「若葉台の特進は校門から違う」などと噂されているが、実際のところは専用の校門が設置されているような大袈裟な話では無く、特進クラスはクラス替えが無い事もあって三年間ずっと固定の靴箱を割り振られており、その靴箱の位置が西門から入った方が利便性が良いので、クラスの多くが正門では無く西門を使っているというだけの話だ。

 ただ、そういった諸々の理由で、普通科の生徒と顔を合わせる機会が少ないのも事実だった。

「あ、私、大学行ってないんです……。浪人とかでもなくって……その、ここでバイトしてるだけで……あの、あの、親が忙しくて、私が祖母の介護もしていて……」

 ぼそぼそと小声で説明する私に、水原さんが初めて敬語を崩して言った。

「わぁ、私と一緒だ」

 それから水原さんは、仲良しだった子達は短大や専門学校に進学したので話が合わない事、自分の祖母は認知症の症状が進んでいるので夜も目が離せず、そうなると友達とどんどん距離ができてしまった事など、せきを切ったように一気に語った。

 それまでの緊張した面持ちはすっかり消え、やっと仲間を見付けたと言わんばかりの水原さんの身の上話は、なかなか店内に出てこない私達三人を不思議に思った猫柳さんが探しに来るまで続いた。

 私と水原さんはとにかく平謝りをし、猿渡さんは笑って誤魔化していた。


・・・・・


 この日以降、私達は急速に親しくなった。とは言っても、普通は十代の女の子同士であれば自然と仲良くなれるものなのかもしれない。

 実際、私にとって友達と呼べるような存在が出来たのは中学以来だったが、水原さんの方は二、三カ月経つ頃には他のバイトの女の子達とも普通に会話をするようになっていたし、私との会話の中でも「この前、友達とね」と、高校時代の同級生や近所の幼馴染みとどこそこでお茶をしただの、誕生日プレゼントを贈っただのといった話を聞かされる事が度々あった。

 いや、聞かされる、というのは単なる私のひねくれだ。水原さんの方には、特段、私に対して何か自慢してやろうといった意図は見受けられなかった。

 私は彼女を好ましく思う反面、私と同じ不器用なタイプでありつつも、私より遥かに人付き合いの上手な彼女に、小さな劣等感を抱いていた。

 ーーーーーそしてそれと同時、心の奥で見下してもいたのだ。


「ねえ、中田さん。このネギのポップなんだけど、社員さんが間違えちゃったんだって」

 水原さんがバイトを始めて、二か月が経った頃だったと思う。

 彼女がそう言って差し出して来た二枚の手書きのポップには、『八戸産はちのへさんねぎ 180円』『熊谷産くまがやさんネギ 180円』と、それぞれの産地と価格が表示されていた。

「えっとね、この、『やとうまれ』と、『くまだにうまれ』と、値段が違うのに一緒にしちゃってたんだって。それで、書き直してって言われたんだけど、私、まだポップを書いた事が無くて。どうしたらいいのかな?」

 私の脳みそが理解するまで少し時間がかかり、それからてっきり冗談を言っているのだと思って笑いかけたが、その数日前、日報の書き方を教えた際に、携帯電話のメール機能で漢字を確認しながら必死に書き上げていた彼女の姿を思い出し、慌てて口をつぐんだ。

 地理や漢字が苦手なのだろう。この頃は、その程度に思っていた。そもそもあの高校の普通科の生徒なのだから、勉強をおろそかにしてきたタイプの人間である事は推して知るべしだ。私が学費免除枠で渋々通わされたあの高校が本命の受験で、合格発表の際には嬉しくて泣いてしまったというのだから。

 けれど、三割引きと三十パーセントオフが同じである事を知らなかったり、大阪や名古屋が日本のどこに位置しているのかも理解していなければ、ポスターの簡単な英単語も読めず、徳川家康も夏目漱石も知らないと言う彼女には、その度に驚かされた。学校の勉強うんぬん以前に、そもそも一般的な教養が身についていないのではないか。

 私が驚きを隠しながら優しく教える度、彼女は高校時代の井の中のかわずを地で行く価値観のまま、「やっぱり特進科の人は頭がいいなぁ」「そんな事知らなかった、本当に物知りだよね」と、尊敬の眼差しで見つめるのだった。

 私はその度、くすぐったいような気持ちになるのと同時、そんな彼女と同じフリーターでしかない自分に焦燥感しょうそうかんを募らせ、そしてそんな気持ちを唯一の友人に対して抱いてしまう後ろめたさも入り混じった、何とも言えない気分に襲われた。

 私はいつものぎこちない笑顔をただ浮かべるだけだったが、水原さんは分厚い眼鏡越し、キラキラと瞳を輝かせるのだ。

 そう。彼女は勉強は不得手であっても、私があの高校で普通科の派手な女子達から受けていた上から目線の嘲笑ちょうしょうや、一方的な値踏みの視線を誰かに対して送るような、いやしい品性は一切持ち得ていなかったのだ。だからこそ、私は自分の心根を恥じた。


 けれど私には、どうしても彼女に対して優越感に浸ってしまう、感情のコントロールが不可能になるジャンルが二つだけあった。

 一つは、私達がお互い何より仲間意識を感じているはずの、祖母の介護のに関して。

 私の祖母は病気と齢のせいで身体こそ弱ってはいるが、彼女の祖母のように錯乱してオムツを外してしまったり、昼夜逆転で困らせたりはしない。彼女から聞く介護の話は私のそれよりも遥かに悲惨で、その度に私は彼女に比べれば自分はずっとマシなのだと安堵あんどした。

 そしてもう一つは、店長からの扱いだ。

「ねぇ店長。若い子と私達に対する態度、ちょっと違い過ぎでしょう」

 私が高校二年生で新人のバイトだった頃、猿渡さんが笑いながら店長に言っていたこの言葉には、正確にはただし書きが必要だった。

 “但し、見た目が悪い子は例外です”と。

 確かに店長は、パートの主婦達に対してはそっけ無いが、大学生やフリーターの若い女の子のバイトの前では露骨に愛想が良かった。けれどそれは、可愛かったりスタイルの良い子だったり、もしくは、外見は平凡でも愛嬌があるタイプの子などに限られていたのだ。

 私のように、高校に入学してすぐに女子柔道部からお誘いがかかるような剛腕ごうわんの固太りで、愛想の「あ」の字も無い不器量な女は、当時の最年少であり唯一の女子高校生バイトであっても、パートのおばさん達と同じ扱いだった。

 いや、同じどころか、そんな店長であっても猫柳さんのように気が利くパートさんの事は大事にしていたし、歯に衣着せずにしつこく話しかけてくる猿渡さんに対しても、口では邪険にしつつもある種の親しみを抱いている様子だった。けれど店長の私に対する態度は、とにかく「無」と言って良かった。

 それでも、高校生の間はまだ良かったのだ。週に二回か多くても三回、それも短時間のシフトで、店長と頻繁に顔を合わせるのはせいぜい夏休み等の長期休みくらい。けれど高校を卒業して勤務時間が増えると、店長のその露骨さが苦痛になった。

 私より後に入って来た女の子達から、「ここの店長って優しいよね」と言われる度、酷く惨めな気分になったものだ。

「私、何か店長を怒らせるような事したかなぁ」

 だから、水原さんからそう言われた時、私は心の底から安堵した。そして、その理由が自分の容貌ようぼうにあるなどとは少しも思ってもいないらしい彼女の様子を見て、今まで周囲の人間に恵まれてきたのだなと、少し憎くもあった。

 店長の私への態度は相変わらずだったが、よくよく観察してみると、私に対しては「無」だが、水原さんに対しては少々当たりが強い事に気が付いた。おそらく、店長にとって同じカテゴリーであっても、小さなミスが多い水原さんより、陰気でも仕事だけは真面目に黙々とこなす私の方がまだマシと言う事なのだろう。

 水原さんが店長に冷たくされる度、私は自分の心に溜まった黒いものが消え去っていく錯覚を覚えた。


 そんな日々が唐突に終わりを告げ、私の人生が大きく変わったのは、その冬の事。

 年末年始特有の、せわしないのにどこか浮足立ったようなあの雰囲気が落ち着き始めた頃。久しぶりに退勤の時間が重なった私達は、次のバスまで時間が空いた事もあり、店の裏側にある従業員用の自動販売機付近で立ち話をしていた。

「エリちゃーん」

 見慣れない女性が、こちらに向かいながら声をかけてきた。二十代半ばくらいの、細面ほそおもてでロングヘアの優しそうな雰囲気のお姉さん。

「あれ、お姉ちゃん。何でー?」

 水原さんの言葉に、ついつい二人を見比べる。お姉さんは一つ一つのパーツは地味ではあるが整った顔立ちをしていて、背も高く手足がすらりと長い。丸っきりあか抜けず、中学生に間違えられる水原さんと姉妹と言われても、にわかには信じられなかった。

 しかしよくよく見てみると、分厚い眼鏡の奥にある水原さんの瞳は、確かにお姉さんと似ていたのだ。

 お姉さんは、私に「こんにちは」と一礼し、私も慌てて頭を下げた。その時、視線の先にあったお姉さんの真っ白いパンプスが綺麗で、私は自分の履き古したスニーカーを恥ずかしく思った事を覚えている。

「エリちゃん、メール見てないでしょう? 何回も連絡してたのに。私が車で迎えに行くから、直接お店に行こうって」

「あ、ごめん、携帯の充電切れてるんだ。迎えに来てくれたんだ? ありがとう、お姉ちゃん」

 二人の表情や言葉の端々から伝わってくる姉妹の仲の良さに、私の胸がチクリと刺された。その上、水原さんは自分の姉に対して、無邪気にお願い事をしたのだ。

「あ、中田さんの家、高校の近くだったよね? お姉ちゃん、お店と同じ方向だから、中田さんも一緒に送ってもらってもいいかな? ちょうど、次のバスまで時間が空いちゃったって話をしてたところなんだ」


 パステルカラーの可愛らしい軽自動車の中、ルームミラー越しにお礼を言うと、お姉さんは優しそうな笑みを浮かべた。

「こちらこそ、いつも妹がお世話になってます。中田さんのお話、妹から聞いてますよ。すごく頼りになるバイト仲間●●●●●だって」

「もう、お姉ちゃんてば、恥ずかしいからやめてよ」

 助手席の水原さんが、大袈裟にかぶりを振って自分の姉を制止しようとした。お姉さんは「いいじゃない」と軽く流し、話を続ける。

「でもこの子、本当に頼りないから心配で。自分がおばあちゃんの介護をするって言った時も●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●家族は皆反対したんですよ●●●●●●●●●●●●。この子に出来ると思ってなかったから」

「お姉ちゃんってば!」

「祖父の方はもう何年も前から有料老人ホームに居るんですけど、そこに空きが無くて。この子が、おばあちゃんをホームに入れるならおじいちゃんと同じ所じゃないとダメだって、泣くんですよ。でも、両親も働いてるし、祖母の認知症が一気に進んでしまったから私達も困ってしまって。そしたら、なら自分が介護するから、って」

「だって、あのホームじゃないと安心して預けられないよ。最初におじいちゃんが居た所、酷かったんでしょう? それに、おじいちゃんとおばあちゃんバラバラだとかわいそうだし」

 ルームミラーに映るお姉さんの瞳が、水原さんが私をキラキラと見る時とそっくり同じになり、横目でちらりと、けれどとても愛おしそうに、妹を見た。

「でも、タイミング良く、一年後に姉妹施設が出来る事になって、そこに一緒に入れる事になったんです。だから、この子が介護するとしても一年だけって。一年経ったらちゃんと学校に入って、小さい頃からの夢だった保育士の勉強をするのよって、そういう約束でね」

 徐々に早くなっていた私の鼓動が、まるで鼓膜を直接叩かれているかのように重低音を響かせて頭を貫いていく。

 何、何、何の話をしているの?

 聞いてない。ああそうか、私、ただのバイト仲間●●●●●だもんね。

「心配だったけど、自分で言った通りに頑張って、ちゃんと進路も決めてくれたし。それで今日は、家族でお祝いの外食なんです。年末には短大の合格通知が来てたんですけど、おばあちゃんをショートステイに預けて皆で外出する事になるから、お正月が明けてからがいいって、この子が」

 やめて、やめて、やめて。

 こんな話、聞きたくない。

 ーーーーー頼りないけど、本当に優しい良い子なんですよ。姉馬鹿ですよね、すみません。今のバイトも、もともと三月末までって話で始めたので、あと少しですが、これからもよろしくお願いしますね。

 ーーーーーお姉ちゃん、本当に恥ずかしいからやめてよ。

 ーーーーーあは、顔真っ赤。彼氏と一緒に居る時みたい。

 ーーーーーもう。彼氏じゃ無いよ、友達だって言ってるじゃん。

 ーーーーーーーーーー。


 姉妹の会話の最後の方は、もう私の耳には半分も届かなかった。


・・・・・


 あの日、あの車に乗らなければ、私は今も地元に居て、あのぎこちない笑顔を浮かべ続けていたのかもしれない。

 ほんの二十分足らずの間に、車内で繰り広げられた水原姉妹の会話。それによって私の価値観はハンマーで叩き壊され、知らない間に装着していた目隠しが引き剝がされ、凄まじい衝動で背中を押されたのだから。

 私は、帰宅するなり自分の荷物をまとめた。受験する事すら許されなかった志望大学の赤本に手を伸ばしたが、持っていくのは諦め、泣き叫びながら壁に叩きつけた。

 物音を聞きつけ、ずっと家に居るくせに家事も介護もしない姉が「うるさい、何やってんの!? 早くご飯作ってよ、愚図ぐずなんだから」といつもの調子で言ってきたので、生まれて初めて自分の剛腕を暴力の為に使った。

 度重なる夫婦喧嘩で穴だらけのふすまを開け、高校の頃からずっとバイト代を搾取さくしゅしてきた親の引き出しにあった有り金を全部奪い、その親がパチンコから帰ってくる前に、幼い頃から容姿の事で罵り続けてくれていた祖母の枕もとで別れを告げた。

 家を出て駅に向かう途中、携帯を解約する前にと思い立ち、バイト先のスーパーに電話をかけた。最後に猫柳さんの声を聴きたい気持ちが少しあったが、残念ながら店長が出て、「辞めます」とだけ言って通話を終え、そのまま最初にやってきた電車に乗った。

 それっきり、私は地元に帰っていない。

 

 




「あの子」 おわり



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「のどに骨、胸にとげ」まとめ
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