映画レビュー#2 三度目の殺人
今回も映画レビューをしてきたいと思います。
今回紹介する映画は「三度目の殺人」。
予告を貼っておきます。
https://www.youtube.com/watch?v=kukXk23wy24
とある殺人事件の弁護を依頼された弁護士の重盛。弁護の方向性は死刑を無期懲役にすることでした。
しかし物語は被告の三隅の証言により二転三転し、最後には三隅の死刑で閉廷してしまいます。
この物語上で重要な要素はいくつもあるのでその中でも「境界」について記述していこうと思います。
この映画の中で示される境界の一つは犯罪者とそうでない者の境界であり、演出でもかなり強調されています。
重盛がたびたび訪れる拘置所の面会で、重盛と三隅を真横からの視点で撮影して意図的に二人の間にある間仕切りを映し出すことで犯罪を犯した者とそうでない者の境界を可視化しています。
終盤の面会のシーンではクリア板の反射によって三隅と重盛の顔が重なって見え、あたかも重盛が壁の向こう側にいるような錯覚に陥ります。
重盛は三隅との面会を重ねるうちに、三隅と自分の考えが似ておりその境界がほとんど無いことに気が付きます。
娘である咲江に対して暴行をしていた被害者は殺されても仕方のない人間だということを重盛は言葉にします。
さらに被害者は自身が経営していた食品会社で食品偽装という犯罪を内密に犯しており同情の余地がなく、実は被害者も公にはなっていないが犯罪者だったことが判明します。
三隅は被害者のことを裁かれるべき人間であり、殺されて当然の人間だと考え殺したのだと視聴者と重盛は理解させられます。
ただし犯罪を犯していた者に対して殺されてもしょうがない、という考え方は過去に殺人を犯した三隅に対しても同様の事であり矛盾しています。
過去に罪を犯した者が偏見の目を向けられます。
その人間がさらに犯罪を重ねる余地があると決めつけられる社会や、逆に罪を犯したからといって殺されてもおかしくないという意見は誰しもが一度は考えたことがあると思います。
では犯罪者とそうでない者の境界とはそんなに大きいものなのかといわれるとそうではありません。
その罪が判明して裁かれたかどうかの差でしかなく、それは誰もが犯罪者になりうることを示しています。
少し書いていることがぼやけてきましたが、大なり小なり実際に見過ごされている罪というのは多くあります。
そのような罪は償われず見過ごされ、明るみになった犯罪に対しては過剰に裁かれバッシングされるという現実があります。
このような社会と司法に対しての問題提起がこの映画のメインテーマであり、それが非常に良く表現されていたと感じました。
終始重苦しい空気で物語は進んでいくため、苦手な方もいらっしゃるかもしれませんが、是非最後までご覧になって色々なことを考えてもらいたいと思います。
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