【読書録#1】人生の意味の哲学入門
こんにちは。常見多聞です。
この本を読んで、まず思ったのは、、、
あの時の彼はこの本を読んでいるだろうか?
ということでした。
彼はこう言っていました。
「僕は反出生主義について卒論を書いています。"生まれてこない方がよい"という哲学をどうしても論破したいんです。僕自身が生まれてきたことが辛くて、親に『なぜ俺を産んだんだ』と言ってしまったこともあって、この反出生主義が理路整然としているのが悔しいのです」
反出生主義という存在
この『人生の意味の哲学入門』には、こう書いてある。
※ 反出生主義とは、誤解を恐れずに言うと、「人は生まれてくるべきではない」「子を産むべきではない」と主張するものである。そんなバカなと思う方もおられるだろうけど、結構厄介な理論武装をされた主張である。
この反出生主義は、紀元前からの源泉がある。
例えば、仏教の考える解脱は、もう生まれ変わらない、つまりもうこの世に生まれてこないために修行をする、ということであって、生まれてこない方がよい、という目標のために、生まれてきた自分が生きながら修行をするという、まさに生きることが苦ということにもなる。
不思議な力を宿した思想に思えてくる。
反出生主義に対抗したい哲学者
この「反出生主義」を主張する旗手の哲学者に、D・ベネターがいる。『人生の意味の哲学入門』の著者の一人である森岡先生は、別の本『生きることの意味を問う哲学』において、このように言っていた。
森岡先生自身が、生まれてきて本当によかったと、自分で思えるにはどうしたらよいかと真剣に悩んでいる方であることから、まさに当事者の心血を注いだ哲学であり、書籍の1つであるといえるのでないだろうか。
反出生主義を論破したい若者との出会い
数年前に大人になってから、大学に入学して哲学を学んでいた時、
ある演習の科目で、いつも私の後ろの席に座っていた若者がいました。
少し斜めから物事を見ている感じで、気を張ってはいるけど、とても繊細そうな人でした。
遅刻してきた時は、後ろから私の肩をトントンとして、「いまどこやってますか?」と聞かれたものです。
ある日に、いま自分が手がけている卒論について、順番に全員話すことになり、彼の番となった。
その時に聞いたのが、彼が自分が生まれてきたという運命を受け入れたいけど、受け入れられない、ということ。
彼の悲痛な声が今でも心に残っている。
呪われた問い
この本によると、
「人生に意味は何か」という問いは「呪い」であるという。
私なりに、確かにと思うのは、
まずそもそも、意味があるかどうかわからない。
この本にもあるように「意味のない人生があり得る」のである。
そして、仮にあるならば、それを確固たる定義として見出すには、個人個人の孤独なる探究が永遠と続くだろうし、
もしないとすれば、生きるってなんだろうってことになる。
この本を読んで、真剣に考えるほど、堂々巡りをして、生きる意味のことを考えていたつもりが、いつの間にか寄り道をして迷路にはまっていることに気づく。
意味とは何か?これは多種多様で結構難しい。
個人の満足や幸福度に価値を置くと、犯罪者や独裁者などの残酷な人の人生に意味があるとしてしまうし、社会貢献をしていることに価値を置けば、本人の満足度や評価されない貢献についてはどうなのかというテーマも出てくる。
この本にもこのようにある
一旦この「人生の意味についての問い」が生まれてしまうと、まさに呪われたかのように、取り憑かれてしまうことになる。
今日から一生問い続ける
私は端的に、人生には意味があり、それは自分で見つけるものだ、と当たり前のように思っていたが、この本を読んでいると、一周して自分が考えていた人生の意味像のメッキが剥がれていくのを感じた。
それが、まさにスタート地点なのかもしれない。そういう私を見透かしたかのように、こう書いてあった。
彼は卒論でニーチェの哲学を考察すると言っていた。この本にもニーチェの運命愛が取り上げれている。
彼はいまも問い続けているのだろうか?
運命愛を体現しているのだろうか?
私も今日から一生考え続けよう。
自分の人生により濃密な意味を見出していく人でありたいと思う。