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Antiの気分

Twitter。
いや、もうXになりましたが、とにかくそのアカウントを削除しました。とはいえ削除したのは個人的に使っていたアカウントの方で、Fushigi Products SHOPの広報用アカウントは残してあるのですが。
思えば10年以上使っていて、人生の中でデザインをやっている期間の次にTwitterをやっている時期が長いかもというぐらい愛用していました。なぜやめたのかというと、最近のイーロン・マスクCEOの私物化っぷりにボイコットするような気持ちで、Xの世界から一歩引いてみたという理由です。

アカウント削除のことをある友人に話したとき、もったいないと驚かれました。長年使ってたけどまあいいかと思っていたのですが、想定以上にリアクションが大きくて意外でした。
こういうことって、公共の輪で自分の考え方、例えば政治的立ち位置とかをどう表明するかにもつながるような感触があります。いきなりアカウント削除して大丈夫かこいつ…みたいな受け取り方もできるし、ふしぎデザインはちゃんとやってるんかという感じにも見えてしまうかも?(ちゃんとやってます。お仕事ください)

反対することの難しさ

ふしぎデザインを作った時にも同じようなムードを感じていましたが、自分の中に通底して、大きいものに反対したくなっちゃうような性質があるのを感じます。逆張り気質というか。
ネットでよく言われるアンチとは違うと思っていたいけれど、なにかに反対したくなるときは確かにある。自分を正当化するような言い方になりますが、あるものや考えに対してこれは違うよと伝え、そこからコミュニケーションを始めることも、ときには重要なのではないかなと思います。

例えばデザインでも新しいアイデアや製品を考える際、今までの考え方に反対し、脱出する力を働かせなければならないときがあります。
自分の仕事でも、与えられた要件をそのままは作らず、クライアントに反対する意見を述べることがあります。今までの提案や製品を頭ごなしに否定するのではなく、既存製品や会社の資産、歴史などを踏まえ、より新しいものを考えるための反対意見ですよ、というふうに伝わるように工夫しているつもりですが。

弁証法という考え方では、ある考え方A(テーゼ)に対して、矛盾したり反対する考え方B(アンチテーゼ)をあえて提示し、AとBを統合してより優れたものに作り直していくというプロセスを用います。この中では必然的に反対するという行為が必要になります。ところがSNSのような空間では、最近ますます「なにかに反対すること」が難しくなっていると感じます。これは創造的にものごとを考えていく上で大きな障壁になるのではないでしょうか。
単純に反対するだけではアンチ呼ばわりされるし、かといってうわべだけ批判的な態度を取って実はおもねるというのも真摯ではない。なにかに反対したいとき、その意見を発信したいときのふるまいには、必要以上に気を使わないといけなくなっていると感じます。

洗練された反対

名著らしいということで読んでみた

少し前に、自動車の社会的費用という本を読みました。
1974年に書かれた本で、当時日本で爆発的に普及しつつあった自動車とそれに伴う環境の悪化について批判的に論じた本です。
自動車の便利さについて認めた上で、それを無邪気に受け入れるだけではいけない、自動車を使える人と使えない人、あるいはお金がある人とない人の格差をさらに広げる要素として自動車が働いてしまうと説いています。本当に必要なのは自動車ではなく豊かで格差の少ない生活なのだから、それを達成するために自動車をいかに利用する/しないかということが本の論点です。
この本を書いたのは宇沢弘文という著名な経済学者で、当時の国家施策であった自動車の導入について批判的な書き方をするのは勇気が必要だったのではないでしょうか。「自動車の社会的費用」の中では緑地帯や歩車分離の必要性に度々触れていますが、それが説得力のある意見となり、自動車中心の街や道づくりを推し進めていた当時の施策に一石を投じ、現在の街づくりに影響を与えたのではないかと想像します。

宇沢弘文の反対のしかたには学ぶべきところが多いです。
単に反対するだけではなく、要所を突いた統計データを引用し自分の意見を補強しています。車の大量普及の背後にある高度成長期の政策や経済学の枠組みについても再検討が必要といい、より人道的で、人間にとって豊かな自動車とは、街、道路とは何かということを考えています。
このような効果的な反対ができるようになりたいと最近考えていました。SNSや世間の空気にのまれず、自分の考えを効果的に発信する。自分と違う意見を持った主流派とコミュニケーションはとるが、おもねるわけではない。

ただ、「行儀のよい反対」のようなことを考えすぎて、例えば社会的に大変な状況に置かれたひとが怒りを持って反対することを、「論理的でない」「ひどい言葉を使うな」といって封じ込めてしまうこと、トーンポリシングだけはしてはならないと思います。

反対は解毒剤になる

いわゆる同調圧力的な、何かに対して反対する勢力をダサいという風潮は以前からありましたが、ここ数年でさらに強まってきたように感じます。日本特有というより世界的に。
世の中全体のスピードが加速していく中で、何か決断をする際に反対する勢力がいると確かにスピードは落ちるでしょう。ただ、反対勢力やブレーキを踏む人がいないと、もし決断が誤っていた時に大きな損害を被ることになります。反対することは物事の進み方を遅らせる悪い要素ではなく、決断の精度を高める重要な要素です。弁証法でも、アンチテーゼなくして統合することはできません。

英語では解毒剤のことをantidoteといいます。アンチ・毒、だから解毒剤ということなのだと思いますが、日本語では毒を解く薬と書いているところを、英語で毒に反対するものと書いているのは興味深いです。「アンチ」と言うとネガティブな印象が感じられてしまうかもしれませんが、ここでのantiには悪いニュアンスはありません。
中二病っぽい響きでかっこいいから覚えていたんですが、毒に反対することで健康な体を取り戻すantidote的なふるまいが、仕事でも、暮らしていく中でもできたらナイスだなと思います。


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