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同じ「時空」を生きること

知っている人も多いと思うが、天文学で用いられる単位に「光年」というのがある。「年」が付いているけれど「時間」の単位ではなく「距離」の単位である。光の速さで1年かかる距離のことを指していて、それが1光年である。光の速さを秒速30万キロメートルとすると、1光年は約9兆5000億キロメートルになる。
 
いまの季節、夜の8時9時頃に空を見上げると、晴れていれば天頂のやや南寄りにオリオン座が見える。オリオン座を鼓の形に見立てると、天頂に近い上辺の左側に赤っぽい星が見えると思う。それがベテルギウスである。おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオンとともに「冬の大三角」を形作っていることでも有名だ。ちなみに鼓の下辺の下側にうさぎ座がある。
 
ベテルギウスは赤色超巨星と呼ばれる種類の星で、その巨大さたるや、仮に太陽の位置にベテルギウスを置くと、木星の軌道にまで達すると言われている。またベテルギウスは遠からず超新星爆発を起こして星の一生を終えると予想されている。ただし「遠からず」とは言っても天文学的な時間尺度での話であって、数万年とか十数万年とかの期間のことである。もしベテルギウスが超新星爆発を起こせば、半月程度の明るさになるとの予測もあるので、これまた凄まじい。
 
実は、あくまで可能性という意味で言えば、ベテルギウスはすでに超新星爆発を起こしてしまっているかもしれないのである。えっ、いまベテルギウスは半月のような輝きを発していないよ、と思うかもしれない。しかし、ベテルギウスまでの距離を考えてみてほしい。
 
現在ベテルギウスまでの距離は約550光年と推測されている。つまり「いま」ベテルギウスが超新星爆発を起こしたとしても、その爆発が地球上で分かるのは550年後ということになる。別の言い方をすると、今夜ベテルギウスが突然とんでもない明るさで輝きはじめたら、それはベテルギウスが550年前に超新星爆発を起こしていた証拠かもしれない。
 
「宇宙」という言葉の「宇」は「空間」を、「宙」は「時間」を意味するという。「時空」という言葉もあるが、空間と時間の絡み合いというのは本当に不思議なものだ。ベテルギウスはあまりに遠いので、もう少し身近な例で「時空」を考えてみようと思う。
 
地球から太陽までの距離を約1億5000万キロメートルとすると、光の速さで太陽まで約8分20秒かかることになる。例えば今朝の日の出の時刻を午前6時だとすると、その日の出の輝き(太陽光線)は地球(日本)上の時計で午前5時51分40秒に太陽を出ていたことになる。最近「宇宙天気予報」などといって、太陽のご機嫌を伺う予報が注目を集めている。太陽がご機嫌斜め(太陽フレアの発生)になると、停電や通信障害が起きる可能性が指摘されるようになったからだ。しかし、太陽のご機嫌も(その前兆であっても)8分20秒後でなければわからないということになるだろうか。
 
月もまた「いま」の月を眺めることはできない。地球から月までの距離を約38万キロメートルとすると、光の速さで約1.3秒かかることになるからだ。1.3秒くらいと思う人もいるだろうが、1秒って思いのほか長い時間だったりする。
 
さらに身近なことを考えてみよう。「あなた」と「わたし」のことだ。あなたとわたしが1メートル離れて立っていたする。あなたがわたしを(わたしがあなたを)認識する(姿を見る)のにどれだけ時間を要するだろうか。電卓で簡単に計算できるので試してみてほしいが、約3億分の1秒かかる。もちろん瞬間と言っていいだろうが、決して同時ではない!
 
ところで、ここまでの計算は光の速さを秒速30万キロメートルとしてきたが、正確には秒速29万9792.458キロメートル=秒速2億9979万2458メートルである。この「光が(さらに正確に言えば真空中を)2億9979万2458分の1秒の間に進む距離」が「1メートル」の現在の定義である。かつて「メートル原器」などを使っていた時代を思うと隔世の感がする。
 
さて、わたしたちは「いま」を生きていると思っているが本当にそうだろうか。わたしたちは「いま」を生きていると思った瞬間、すでに「いま」は過去のものとなり、次の瞬間に移っているのではないだろうか。しかしそれは決して「未来」でもない。「未来」は「未だ来ない」ものであって「未来」を経験することはできないはずである。
 
「いま」とは「過去」と「未来」の狭間にあるものであって、それは瞬間という言葉でさえも言い表せない幅のない時間ではないだろうか。すなわち「いま」とは「時(とき)の間(はざま)」である。しかし、この「間」とは幅のない「間」である。数学の定義では「線」や「点」は面積を有していない。ところが、どんなに細い線や小さな点を描いても、それは面積を有している。「いま」や「間」は数学定義上の「線」や「点」のような存在ではないだろうか。
 
いずれにしても、わたしたちはそのような「いま」を積み重ねた「時間」の中に身を置いて生きているとは言えそうである。「あなた」と「わたし」の関係性で言えば、「あなた」と「わたし」は約3億分の1秒の時間差でお互いを認識しながら(光のキャッチボールをしながら)時間の流れの中を同じ方向へと泳いでいるようなものかもしれない。
 
ここまで書いてきたことは、ごく初歩的な(あるいは「簡略化した」とか「素朴な」と言い換えてもいいかもしれないが)科学的知見に基づいているが、「あなた」と「わたし」は同じ「時空」を生きていないし、同じ「時空」を生きることはできない、というのが結論になると思っている。
 
しかし一方で「いま」を生きることに着目すると、「あなた」も「わたし」も同じ「時間」の中を生きている同士ということになる。先のベテルギウスに生命体が存在するとはとても思えないが、仮に「ベテルギウス」星人がいたとすれば、「ベテルギウス」星人と地球人との関係性も同じであろう。550年の時間差で光のキャッチボールをしながら、この宇宙を生きている仲間と言っていいだろう。
 
一見「あなた」と「わたし」は同じ「時空」を生きていないし、同じ「時空」を生きることはできない、ということは、それこそ宇宙的な孤独を感じさせないでもないが、別の捉え方をすれば、この宇宙を生きていくことは決して孤独ではないとも言えそうである。
 
わたしは「宇宙」を科学的な知見だけで捉え得る存在ではないと思っている。哲学的、宗教的(神学的?)に捉える必要があると思うし、文学や文化的な側面からの理解も欠かせないだろう。ただし、急いで付け加えておくが、エセ科学やエセ宗教(?)に組みするつもりはまったくない。生きる時間もカウントダウンに入ってきたように思われる昨今(いま生命に関わる状態にあるわけではないので、念のため申し添えておきます)、自分なりの拙い考えを「note」に吐き出し、まとめていくことも何らかの意義があると思いたい。
 
最後まで読んで頂きありがとうございました!

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宙野牛頓
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