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6本の木

ゆるやかな勾配が続く砂利道を、ゆっくりと降りていくと見慣れた人影があった。
大家さんだ。
わたしの住んでいるアパートは、公道から脇道に入って少し歩き、同じような形のアパートをいくつか通り過ぎたら、一番どんつきの山を背に立っている建物だ。
周囲のアパートの住人とは、同じ村に住む住人のような感覚で、顔を合わせれば互いに会釈する。しょっちゅう顔を合わせる人もいれば、同じ建物に住んでいたとしても生活リズムが違うのか、ここに引っ越してきてからおよそ2年間一度も顔を見たことのない人もいる。

そんな中、ほとんど毎日顔を合わせている人がいる。
それが、この一帯のアパートの大家さんだ。
70歳を超えているだろうという大家さんは、夏場は半袖のシャツ、冬場はいつも同じ紺色のジャンパーに身を包み、タバコをふかしている。
ここに引っ越してきたばかりのころは、いつも同じように外に立っているおじいさんを不審に思っていたが、ある日隣に住む女性が「大家さん」と呼んでいるのを聞いて急いで認識を改めたのだった。

初めて大家さんに出会った頃は、娘はまだ胸の中で抱かれる乳飲児だった。「赤ちゃんがここに来て嬉しいねぇ」と、大家さんと立ち話をしていた女性が微笑んだ。
「名前はなんて言うの」と大家さんに聞かれ、自分の名前を答えようとして聞かれたのが娘の名前だとわかり慌てて言い直したこともある。それ以来、大家さんは娘の名前を呼んでかわいがってくれるようになった。
ときには、「ちょっと待ってて」と自宅に引っ込み、すぐに果物がいっぱいついた枝を持ってきて「これ食べる?」と渡してくれることもあった。
秋には、ビワ、銀杏、焼酎を漬けて甘くしたという柿、寒い季節になったら、伊予柑やはっさく、ポンカンなど数えきれないくらいの柑橘類を、「これどうぞ」と言って娘に手渡してくれた。

そういえば、アパートの周辺には果樹がたくさん植えてある。大家さんが時々手入れをしていて、季節になればこれらがたわわに実を結んでいる。いつの日だったか、ここには6種類の柑橘類の木が植わっていると大家さんに聞いたが、一つひとつの名前は忘れてしまった。

その日もベビーカーを押して外に出ると、いつもの場所に大家さんが立っていた。
取り立てて会話が発展するわけでもなく、挨拶をする程度。出かけるときに顔を合わせ、帰るときにも顔を合わせることもある。
以前はこんなにも頻繁に顔を合わせることが何となく気づまりで、大家さんがいないであろうお昼時の時間帯を狙って外出しようとしたこともある。
「プーさんは好き?」
娘の顔を見ると、大家さんはたずねた。娘はプーさんが大好きだ。家にあるクマのプーさんのぬいぐるみは娘の一番の友人で、汚れたり洗濯をしたりを繰り返しかわいそうなくらいくたびれている。
「姪っ子が要らないって言ってたのをもらってね」
大家さんは、自宅の前に停めてある車のトランクから一抱えほどあるぬいぐるみを取り出した。途端に娘の目がキラキラと光る。
何度もお礼を言って大家さんと別れた。

いつも娘のことを気にかけてくれる大家さん。ふと、大家さんの顔が実家の父の姿に重なった。娘を連れて実家に帰っていたとき、父は仕事から帰ると開口一番、娘の名前を呼びわたしや母のことなど目に入らぬかのように娘を溺愛してくれた。

初めは会釈する程度だった大家さんとの関係が、ときには世間話をするくらいになった。初めての人や慣れない人に会うことに、悲しいくらい身構えてしまうわたしにとっては大きな変化なのだと思う。
思えば、昔から「友達」とそうじゃない人とを無意識のうちにはっきり区別してしまう癖があった。一旦友達だと思えば、腹の内まで見せられるくらいに仲良くなるけれど、友達ではないと思っている相手には礼儀正しくしなければと思うあまりどこか上部だけの姿で接してしまう。
そして、何をもってして「友達」だと言えるのか、それが自分でもわからないのだった。

ある日、本の中に書かれていた一節を読んで驚いた。
そこには「友達だから一緒に遊べるのではなくて、一緒に遊ぶ人を(そのとき、その場で)友達と呼ぶ」(ヘルシンキ 生活の練習)とあった。

これは子どもと共にフィンランドで暮らす著者が、保育園の先生に「友達作りについて、先生方はどのような工夫をするのか」と質問し、「友達を作ることにフォーカスするというより、一緒に遊ぶ瞬間を増やすことにフォーカスします」という返答を受けて得た発想だった。わたしも、この著者と同様に、逆の考え(友達だから、一緒に遊ぶ)をずっと持っていたから目から鱗だった。
その話を夫にすると、夫は一緒に遊ぶ人を友達だと思っていたらしい。なるほど。夫は仕事柄初めての人と会うことが多い。でも案外ストレスなくやっていけているのかもしれない…。

年初めには、柄にもなく「新しい友達をつくりたい」と意気込んでいた。
でも、友達をつくろうとするのではなく、ただ、人と共に過ごす時間を大事にしたらいいのかもしれない。

もしかしたら、わたしが勝手にまだ友達じゃないと二の足を踏んでいたことで、相手を傷付けていたことがあったのかもしれない。今までの交友関係を振り返りながら、ふとそんなことを思った。

友達であれば大切にして、友達じゃなければ大切にできない、そんなことをしていたらいつまでたっても人との関係は築けないじゃないか。
友達か、友達じゃないのか、そんな線引きで人との接し方を変えなくていいのだ。
どうか堂々と相手を大切な人と思える自分でありたい。そしてできるなら、一緒に過ごせる限られた時間を喜んで過ごしたい。

いつの間にか大家さんとは親しくなった。それはわたしの努力ではない。いつもそれとなくわたしたち家族を気にかけてくれて、適切な距離を保ちながらも優しさを言葉以外で示してくれた大家さんのおかげだ。
今までわたしが築いてきたと思っていた交友関係も、どれほど多くの相手からの優しさで支えられてきただろう。わたしはどれだけその優しさに気付けただろうか。
いや、きっと、気付かれることすら望んでいなかったのだ。


今月は、家族で懐かしい友人に会いに行く。手土産は手作りのお菓子か、お花か、それとも季節の果物を持って行こうか。最近はそんなことばかりを考えている。

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