子どもを育てる「知恵」を与えてくださいと祈ったら、教えられたこと
娘が体調を崩してから10日以上経った。
もうびっくりするような高熱は出ないし、ぐったりすることもないけれど、普段の様子と比べるともう一歩というところ。熱もまだ少しある。
体温計を見つめながら「ねえこれはもう誤差の範囲だよね。もう幼稚園に行ってもいいんじゃないかな」と言うと、夫に冷静に却下される。「その体温は風邪だよ」と。
日中はいつもと変わらないように動き回るし、ゲラゲラ笑うし、なんだよ元気じゃないかと思うけれど、食欲は全然ない。そしていつもなら「公園に行こう!」とすぐに言うのにそれも言わないで、座ってできる遊びとか、ベランダに出てちょっと遊ぶとかして過ごしている。
こんな風に日中娘と一緒にいることは夏休み以来か。夏休みが始まる前はこんなに一緒にいて耐えられるだろうかと怯えていたけれど、意外となんとかなった。
そして今回もなんとかなっている。娘が療養中ということも大きいのかもしれないけれど、不思議に穏やかな時間を子どもたちと過ごしている。
ベランダで伸ばしっぱなしだったアサガオのつるを片付けて、種を取ってはしまったり。
粘土をふたりで小さく小さく丸めて、極小のお団子を作ったり。
床にブロックをばらまいて、思い思いの形を作ったり。
ふと、ホームスクールをすればこんな風に四六時中子どもと一緒に過ごせるのだな、と思った。
子どもとずっと一緒にいることは、大変だけど、嬉しい。
何をしているのか、どんなことに興味があるのか、ずっと見ていられる。そんな時間は幸せだなと思う。
でも、見るだけではなくて、見られていることに耐えられるだろうか。
私は全く、子どもに見倣ってほしい人間ではない…。
今日も、着替えの途中だというのにふざけて走り回り、遊ぼうとするものだから、大きな声を出してしまった。
一瞬真顔になり、何か別の話題を出そうとしたけれど続けられなくて、泣き出してしまった娘。
しまいには大泣きして、「いじわるなお母さんはいやだああ」と言って座り込んでしまった。
「だって、今お着替えしていたのに遊ぶんだもの」
そう言ってみたものの後ろめたさがあるのは、こんなに大声を出さなくても良かったことを自分が一番よく知っているからだ。
「大声出してごめんね。お母さんが悪かったよ」
そう言って娘を抱きしめると、娘は涙と鼻水で濡れた顔をあげていつもの笑顔に戻った。
なんて純粋で、素直な子ども時代。
そんな尊い期間を、一緒にいられることの幸せと、怖さを思う。
その後の人生の土台となるような幼少期は、ひとつひとつの出来事が、記憶には残らずとももっと深いところでしっかりと刻みつけられているのかもしれない。
「どのように子どもを育てたらよいのか、知恵を与えてください」
その祈りを、祈りのリストが書き連ねられたノートに書き加えたのはいつの頃だっただろう。
新しいいのちの誕生に喜び、一挙手一投足に「可愛いね」とはしゃいだ時代は、消えてはいないけれどどこか思い出の中だ。
今は、ひとりの人として向き合うことに、面白さと、悩みがある。
どのように接したらいいのか。
どんな体験をさせてあげればいいのか。
どんな声かけをしたらいいのか。
そんなことをじっくりと考える余裕もないまま、一瞬のように過ぎ去ってしまった3年間。
日々の生活の中で起こるさまざまな出来事に対応することが精一杯で、どこに「知恵」が現れたのやら。
振り返ると苦笑いするしかない、私の子育てだけれど、ひとつだけ、心に留めていることがある。
それは、「人の善意を信じること」。
そう思うようになったきっかけは、一冊の本だった。
子育てで悩みから思うように寝付けず、ひとり寝室を抜け出して、本棚から選び取った育児書。
それは人からの勧めで買った、佐々木正美さんの『子どもへのまなざし』。
それは、幼児期の育児の大切さを考えさせてくれる本。どこを読んでも「そうだなぁ」と深く頷いてしまうような内容なのだけれど、その夜、とある箇所に差し掛かったとき不意に涙が溢れたのだった。
そこには『まず、自分が人の善意を信じること』という一文があった。
それまで私は、どこか自分の力で子どもを育てられるはずだと肩肘張って過ごしていた。
周りには夫を始め、地域の方々、園の先生やお母さんたち、友人や両親など、「頼ってもいいよ」と言ってくれる人はたくさんいるのに。
声をかけてもらっても、なんとなく笑ってごまかすばかりで本当に困っていることや悩んでいることは話すことができなかった。
うまく頼ることができなかったのは、自分の情けない姿を見せたくなかったのかもしれない。
でも、人の善意を信じるということは、情けない姿のままでも受け入れられることを信じることなのかもしれない。
後日、園の先生に子育て上の悩みを相談した。
ユーカリが生い茂る園庭の中で、駆け回る子どもたちから目を離すと、彼女はこちらがドキリとするくらい真剣に向き合ってくださった。
その中でうまくいかなかった過去の子育てを話してくれた。。
保育の仕事をしているからこそ、自分の子どももうまく育てられると思っていたのに、予想に反して全くうまくいかなかったこと。
子どもに辛くあたってしまい、ある日子どもにぽつりと「お母さんはぼくが死ねばいいと思ってるの?」と言われショックを受けたこと。
最後にその方は少し遠慮がちに言った。
「子育てをしながら悩むとき、本当はわたしたち自身が成長しているんですよね」と。
昼過ぎに、遅い昼ごはんを娘と食べていると、園から着信がかかってきた。
電話をとると、娘の担任の先生。連日休んでいる娘の体調を心配して電話をかけてくださったのだ。
電話を終えると、娘が目をキラキラさせて、「どうして先生電話してくれたの?」と聞いた。
「幼稚園お休みしているから、大丈夫かなー?って心配してくれてるんだよ」と答えると、もっと嬉しそうになった。
娘が安心して過ごせる場所が、家庭のほかにもあることが嬉しい。
頼る心の謙虚さと、感謝を持ちながら、子どもをいろいろな人との関わりの中で育てていきたい、と思う。