短気なわたしが子を育てる
自分がこんなにも「待てない」ということを知ったのは、娘がなんでも「自分でやる」と言い始めてからだった。
それまでの娘と言えば、されるがままに身の回りの世話は何でも人にしてもらっていた。それが2歳になり、運動能力の成長も含めて、自分の意思の主張が際立つようになってきた。
「じぶんで!」
ズボンを履かせようとすると、すかさず声をあげる。
じゃあやってみてとズボンを渡すと、ニコニコして一つの穴に両足を突っ込んでいるのは毎度のこと。
手強いのはおむつを履かせるときで、娘は頑なに自分でおむつを履きたがるくせに、裸の状態が心地良いのか、おむつを前にしたままなかなか履こうとしない。裸で家中を駆け回り、そのまま漏らしてしまったことも一度や二度のことではない。
そうか素肌が気持ち良いのかと、そのまま放っておきたい気持ち半分と、これからやることと時間を逆算して、なるべく早く履いてほしい気持ちが半分で、大抵いつも後者が勝ってしまい余裕なく娘を追い立てている。
とは言え、早くと言って行動に移してくれる相手ではないのだ。だから余裕を失った時点でもうこちらの負けは確定したようなもので、わたしが必死になっておむつを片手に追いかければ追いかけるほど、娘は嬉々として逃げるのだった。
側から見たら微笑ましい親子の図でも、当人にしてみたら試練の瞬間である。
待つか、それとももう少し遊びに付き合ってやるか。それとも…。
ジリジリと時間ばかりが過ぎるなかで、遂には大声で「早く!」と怒鳴ってしまう。
大声を出すのはそれなりに効果があるようで、目を丸くした娘は遊ぶのをやめておむつを履くことに専念するのだった。
おむつを無事に履けて良かった。そう思って一息つくものの、罪悪感が残る。
そんなことをした日の夜には、娘は悪夢を見ているのか眠りながら泣き声をあげていることがある。
一度、泣きながら「どうぞ!」と寝言を言っていることもあった(丁寧に何かを差し出すようなポーズもしていた)。
ははあ、さてはこれは、早くしなさいと怒られて、仕方なく何かを渡している夢だな、と思った。そして早くしなさいと怒鳴るのはわたししかいない。
寝ている娘の枕元で、胸が少し痛んだ。
怒鳴るのをやめよう、子どもの自尊心を傷つけるのをやめよう、そう心に決めるものの、結局は決心虚しく、感情が沸点に到達するかどうかは、その日のスケジュールと気分によるところが大きいのだった。
大人の関係であれば、少しくらいの感情の揺れならばいくらでも取り繕うことができる。
少し気分の悪い思いをしたとしても、それを顔にも言葉にも出さず、何事もなかったように済ますことができる。そこには、感情を害しているしていることを出すべきではないという理由で我慢している側面もあれば、立場や関係上、言いたくても言えない、という側面もある。
ところが、子ども相手になると、ことさら我が子が相手となると、どうして他の誰に対してもそんな態度はとらないであろう態度をとってしまうのだろう。
ここにわたしは自分の弱さを見てしまう。
相手を自分よりも弱い存在、自分がコントロールできる存在と思っているからこそ、大声で怒鳴るという行為によって、自分の意思を通そうとしているのではないか。
そこには子どもの、一人の人としての人格がどこかに忘れられてしまっているのではないだろうか。
たかだかおむつ替えで何をそこまでと思うかもしれない。
子どもに機嫌よくおむつを替えてもらう方法なら、ネットを開けばいくらでも見つかるのだから、手っ取り早くそうした方法を試してみればいいのかもしれない。
でも、おむつ替えがうまくいっても、歯磨きのとき、寝かしつけのとき、そして日常のあらゆる瞬間に、子どもに対して無理に自分の意志を通そうとしている自分の姿を知っているわたしには、子育てハウツーはなんと無力だろう。
子は親に似てくると言うけれど、2歳を過ぎた今、娘の行動のそこかしこに、わたし自身の姿を発見することができる。
例えば、食べ物で口の周りが汚れてしまったとき。
離乳食を始めたごく幼い頃から、食べ物の汚れはその都度拭いてきれいにしていた。テーブルの汚れも、食事の後でまとめてきれいにすればいいと思いつつも、つい気になって汚れる度に拭いてしまう。
今の娘の姿は、そんなわたしの姿そのままなのだ。
ちょっとでも手や口が汚れると、「ベタベタするー!ティッシュー!」と騒ぎ出す。
まさに、蒔いた種の実を刈り取る瞬間と言うか、子どもへの接し方が、後になってそのまま子どもの姿になってしまったのを見た気がした。
余裕がないからと、後先考えずその場を切り抜けるためだけの言動をとっていた自分を考えて少しヒヤリとした。
夫にそんなことを話すと、「子どもってね、親の言った約束をちゃんと覚えているんだよ」と言う。
例えば、シャンプーをしたらお菓子を食べていい、とか。ごはんを食べたら一緒に遊んであげるとか。子どもはその約束が果たされることを信じて、健気に待つが、約束をした当の本人は簡単に約束を忘れてしまったり、内容をすり替えてしまうことがある。
それを知ったとき、子どもはどれほど幻滅するだろう。
夫と話をしながら、子どもとした約束はどんな小さなものでも守っていきたい、と思う。
どんなことでも自分でやりたがる娘を見ながら、ふと胸に抱かれておっぱいを飲んでいたあの頃が懐かしくなる。子育てのときはまたたく間に過ぎ去ってしまうというのは本当だ。
今、わたしの娘は自分で生きるための一歩を力強く踏み出している。
そんな娘に対して、一人の人として向き合っていきたい。
ある日、親子が自由に使える遊び場で、娘がほかの小さな子どもに対して絵本をめくって見せてあげている姿を目にした。いつの間にそんなことができるようになったのだろうと感慨深くなるのと同時に、誰かに言われたわけでもないのにそんな風にできたのは、親にしてもらったことを自然に真似をしていたのかもしれない、と思った。
いつか娘の姿を見て、自慢の娘だと思えるようなそんな生き方を、まずはわたし自身が生きていきたい。始めに短気を直すところから。