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夢を語りあえる関係は美しい

「僕、宇宙飛行士になりたい」
ある日の午後のことだった。
わたしは台所に立ってお昼ごはんの準備をしていた。横では夫が座っていつものようにスマホを眺めている。そんな夫が不意にこちらを見つめて言った。

わたしは返事をせずに夫をまじまじと見つめた。夫はいたって普通の表情で「どう思う?」と重ねた。

聞きたいこと、言いたいことは色々あったけれど、それよりもまず口から出たのは「いいと思う」という言葉だった。

それを聞いて夫は嬉しそうに笑った。
なぜ夫が宇宙飛行士になりたいと思ったのか、それは別の機会に譲るとして、夫がその夢を語ったとき、驚いたと同時に「やはりこの人はこういうことが言える人なんだ」という妙な納得感があった。


「未来について話をしよう」
「夢について語ろう」

しばしば、彼はそうやって夢を語った。長い電車の道中とか、散歩している道すがらとか、ふとそんなことを言い出す。きっと彼が未来のことを話すことが好きなのだ。

時々、残念そうに「過去のことや現在のことを話す人は多いけれど、未来のことを話す人はあまりいないね」と言っていた。誰かと未来のことを話すときは、特別にワクワクするらしい。
とは言っても、夫自身、未来のことよりも現在抱えている仕事や課題について話すことの方が多いのだけれど。

そして、当然のように「ふさこちゃんは何かないの」と尋ねる。その度にわたしは困ってしまうのだ。あなたみたいにやりたいことがポンポン出てくるわけじゃないのよ、と内心でつぶやく。
「家族で海外に行きたい」とか、「いつか田舎で暮らしたい」とか、そんな返事をしてみるも、夫は「そっか」と言い、あまり盛り上がらないまま会話が終わってしまう。どこか本気じゃないということを、夫も、わたし自身もよく承知しているのだろう。


未来のことを話していて楽しいのは、その未来を心の底から願うからなのだろう。何としてでも現実にしたい夢について話すことと、決して手の届かない幻想について話すことは、似ているようで全然違う。夢を叶える人にとって、夢は現在の延長にある。

思えば、本気で叶えたい夢を持っている人は、その願いがすでに現在の生活に現れているものだ。プロの野球選手になりたいと願う人は、すでにバットを振ってボールを追いかけているはずだし、絵描きを目指していた芸術大学の同級生たちは、ほぼみんな幼い頃から絵を描き続けていた。

「今、どうやって生きるか」ということが、夢の実現に結びついていることを知っている人は、今日という日を生きることに真剣だ。そんな人々にとっては、「こんな夢がある」と言いながら、何の努力もせずに、夢を後生大事に棚の中にしまっているような輩は、不思議で仕方ないだろう。

どちらかと言えば、口先だけで何もせずに終わってしまうことが多いわたしにとっては心の痛い話である。
とは言え、夢に向かって歩むということは、その夢だけを一心不乱に見つめ、寝食を忘れるほどに熱中したりすることなのだろうか。芸術大学で大学生活を送ったわたしは、アーティスト気質の仲間達に囲まれていたせいか、以前はそんなストイックな生き方に憧れていたこともあったが、今はちょっと違う。

夢を追うということは、ある種の旗を立てることじゃないだろうか。「ここに行きたい」という目印をつけること。そしてそこに向かうために、時には思い切り熱中しつつも、時にはむしろ俯瞰した視野を持つ。目的地までの道順は、自由なのだから、どんな体験をしてもいいし、途中で休んでもいい。


夫も、自分の心の底から願う夢のために、ずいぶんと自由に自分の道を歩んでいる。
牧師をしていて、イエス・キリストが大好きな夫は、宇宙でも「イエスさま大好き」を叫びたいらしい。途方もない夢だが、彼の机の上には見るだけで宇宙に関する参考書が積まれていた。好奇心から手にとってページをパラパラとめくると、見るだけで興味を失くすような数式が目に入ったのですぐに本を閉じた。でも、彼はどうやら本気のようだ。

「努力をすれば大抵のことは叶えられると思っている」
いつだったか、夢の話をしていたときに夫が言っていた。
「そんな大層な夢、叶えられると思うの?」と、何かに対してわたしが言ったことへの返答だった。
夫の言葉は、自分の能力への自負というよりも、努力をすれば結果があるということへのある種の確信からきているようだ。
夢を叶えたいと思うときに、初めから「無理だろう」と思っていたら始めの一歩すら踏み出せない。いつ、どのような形で叶えられるかはわからないけれど、きっとできる。そう信じるからこそ、夢を夢で終わらせないために一歩を踏み出せる。
「どうせ自分には無理だろう」と思って、何もしない人がいかに多いことか。そして自分もそういう人間の一人かもしれない。この世の中から「無理だろう」という考え方をなくしたら、素晴らしく創造的で興奮に満ちた世の中になっているんじゃないだろうか。


本当は、わたしにもやりたいことがあった。このnoteもその一つだけれど、もっとたくさん自分のために文章を書きたかった。でも、1歳の子どもを家で育てながらどれくらいのことができるというのか。
文章を書きたいというわたしの夢を応援してくれている夫は、いつも「もっとたくさん書きなよ」と言ってくれていた。でも現実は、少ない時間を何とかやりくりしている。これ以上は無理だととっくに諦めているわたしは、その状況を夫に「よく知らないのだろう」と思って丁寧に説明した。
すると彼は即座に「どうして無理だと決めつけるの」と言った。
「時間がなければ、作ればいいし、そのためにお金をかけてもいいんだよ」
その言葉に、夫が単に根性論で努力しろと言っているのではなくて、やりたいことができるようになるための方法を考えろと言っているのだということがわかった。

そうだ。初めから無理だと思っていたら、目的地に向かう道筋を考えようともしない。その道は決して1本ではないのに。

何も願わなければ、確かに楽かもしれない。慣れた場所に留まり、それなりに快適に過ごせるだろう。でも、未知のものに触れる興奮も、一歩一歩、目的地に近づいているという実感もないまま、代わり映えのしない1日を終えてしまう。

そう考えると、「こうしたい」という願いや意思を持つことは、自分自身の人生を生きるための大切なエッセンスだ。人が羨むような、キラキラとしたことを願う必要はない。人から見たら「そんなこと」と思われるようなことでも、どんなに地味なことであっても、自分自身が心から願っているということが大切なのだ。


このところ夫と夢を語りながら、自分の考え方が少しずつ変化していった。できる、できないということに関わらず、「こうしたい」ということを臆せずに口にできるようになってきた。
翻訳の仕事をしたい、ということもその一つ。とある翻訳家の方の記事を読みながら、無性に憧れた。それを夫に話すと「いいじゃない!」と自分の夢のように興奮して、応援してくれた。


7月が始まった。今月は家族で出かける予定がいくつか入っている。それが楽しみで、また夫婦で「こうしたい、ああしたい」と語り合っている。そして相変わらず自分たちの夢についても話している。
言葉だけで終わり、そのまま忘れられていくものもあるだろう。でもきっと、口に出すことをきっかけに動き出すものもあるだろう。小さな想いをのせた言葉が、その後の人生を変えていく。ふと、夢を語りあえる関係は美しいと思った。


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