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固く閉めておいた扉を、子どもたちに対して少しだけ開けておくことにした

「わたしが横に座るの!」
娘は自分の幼児用の椅子から飛び降り、斜め向かいに置いてある大人用の椅子によじ登った。
なぜなら、そこは息子の椅子の隣だから。
息子は目の前のお皿を、期待を込めた眼差しで見ている。

平日の朝。
暖かな陽光とは裏腹に、肌を刺すような寒さ。エアコンの電源を入れても部屋が暖まるには30分ほどかかる。

寒い、寒いと口に出しているのは大人ばかりで、子どもたちは机の上に出しっぱなしにしていたおもちゃで遊んでみたり、おなかが空いた!と叫んだり、大声を出して笑ったり。元気が有り余っている。

幼稚園の登園時間に間に合わせるためには、あと30分ほどで朝ごはんを食べ終わらなくてはいけない…。
時間を気にしているのも、もちろん大人だけ。
なんとなく、娘も朝のルーティンというものがわかってきているように思えるのだけれど、強烈な欲求の前には、ルーティンなど消し飛んでしまう。

「わたしがあーんしてあげる」
自分のご飯は全く手がつけられていないまま、息子にご飯を食べさせてあげるという。私は時計と睨めっこ。どっちにしても、息子もご飯を食べなきゃいけないのだから、許容範囲。
「いいよ、お願いね」

娘は嬉しそうにスプーンにご飯を乗せて、息子の口元に運ぶ。
しかし、娘のかいがいしい世話とは裏腹に、1歳の息子は顔を背けて食べようとしない。

「お腹が減ってないのかなぁ…」
なおも執拗にスプーンを近づける娘をハラハラしながら見守る。息子はスプーンを払いのけて、助けを求めるような表情を私に向けている。
ご飯をあげているというよりは、どこか喧嘩のような風景になりつつあり、娘が爆発する前に止めてあげなければ、と思う。

「そうだ、じゃあおにぎりにしてあげてみようか」
ふと、思いついて娘に提案した。
最近、手づかみで色々なものを食べれるようになってきた息子。
もしかしたら、小さなおにぎりにしてお皿に置いてあげたら自分でつかんで食べるかもしれない。

「うん!」
娘は目を輝かせてうなずいた。

どうして、こんなに嬉しそうなのだろう、と思う。
見ること、することが「初めて」で溢れているからだろうか。

娘の目には、私とは全く違う世界が見えているに違いない。
こんなにも嬉しそうに、こんなにも真剣にラップにご飯をのせる娘の姿を見ていると、そんなことを考えてしまう。

娘が見ている景色が極彩色なら、私が見ている風景は、いつか両親に見せてもらった古いアルバムのセピア色か。

何度見たかわからない時計を、またしてもちらりと見る。
今ならまだ間に合う。娘の口には私がご飯を放り込んでやれば、きっと。
登園時間に間に合うことを考えて、「早く早く」と急かすよりも、娘のいきいきとした心の動きを、ご飯をあげる姿を通して見ていたかった。


「私もやりたい!」

その言葉を、家事や料理をする私に対して、ここのところ頻繁にかけてくるようになった。

折り紙をしたり、工作をしたりする手をぱっと止めて、不意に自分もやってみたいと主張する娘。
どんなことが、娘の心の琴線に触れたのだろう。

手元を見れば、皮をむきかけた玉ねぎがあったり。
海苔巻きを作ろうとして、巻き簾があったり。

じゃあ、玉ねぎの皮をむいてくれる?と提案すると、それはやだーとそっぽをむかれる。
あのね、切りたいの。そっかぁ、でもこれはちょっと硬いから、もう少し大きくなってからにする?あと、目が痛くなるよ…。

娘には、やってみたい!という衝動が、川面からカエルが飛び出るように、心の底から急に飛び出てくるに違いない。
間断なく、飛び出る衝動。
そしてその対象もコロコロと変わっていく。

ひとつひとつに応えてあげたらどれだけいいだろう。娘にとっても、私にとっても。
時計とスケジュールによって形作られる私の日常は、子どもたちと共に過ごすことによって、予期せぬことが常に起こる野営生活のようになっている。それはそれで面白い。

でも、好奇心のままに動くことをすっかり忘れてしまった、錆びついた心の持ち主である私は、しばしば「今はだめ!」と叫ぶのだった。
行き場を失った娘の衝動は、胸の奥に渦巻いたまま、さまざまな行動となって現れてくる。
その後始末をいつもしながら、自分という存在が、娘にとって怖い監督者、もしくは敵のようなものだろうかと、考える。そうではなくて、良き同伴者、一緒にいれば面白いことが起こる友達のようなものになればいいのに。


私には、突発的に起こることに対処する力がない。
前もって、心の準備が必要。

家にいるときは常に、ありったけの陽気を振りまいている夫を見て、ため息まじりにつぶやいたことがあった。

「いいよね。外で仕事をしているから。家にいるときは陽気に振る舞えるものね。私は日常という仕事をいつも子どもたちに見せているから。陽気に振る舞う暇がないのよ」

そう言うと、驚いたように夫は「そんなことないよ」と叫んだ。
こんな風にすればいいんだよ、と夫はキッチンに立つと芝居がかった調子で叫んだ。
「さ〜あ、今からお料理するからね〜!」

途中でガス欠するであろう夫の振る舞いは、私には到底無理だと思った。
でも、「楽しそうな母の姿」を多少は無理をしてでも、子どもたちの目に映してやりたい。

夫のように、手品師かサーカス団のように、即興的で興奮に溢れる遊び方は私にはできない。
自分が無理をして疲れてしまうようなことは、きっとすぐにボロが出るに違いない。
だから、自分が好きなフィールドで子どもたちと関わろうと思った。

それは、料理であったり、本を読むことであったり、自然の中で過ごすことだったり。


自分だけがやる、自分だけの仕事だと思って、固く閉めていたその扉を、子どもたちに対して少しだけ、でも、いつも開いておくことにした。


例えば料理。

この料理であれば、どんなことなら娘が自分でできて、興味も持ってくれるだろう。
台所に立つ前に、そんなことを思いめぐらせる。
そして、娘が声をかけなくても、こちらから「これ、やってみる?」と声をかけてみる。

「やる!」と言ってすぐに立ち上がるときもあれば、「今はいい!」と言うときもある。
やりたいときに、やってくれればいいな。

新鮮なトマトとか、ザルいっぱいのもやしとか、娘と一緒に同じものを見つめているときには、ほんの少し娘の心がわかるような気がする。
触ってみたい!とか、これを千切ったらどうなるんだろう?とか。
好奇心で溢れる娘と、後ろでそっと誘導しながら、一緒に楽しんでいる。

ときに、私が子どもの世界にお邪魔させてもらっているように、私の世界にも子どもたちをお邪魔させてあげよう。

「このこはね、生まれたばかりの赤ちゃんなんだけどね、お熱があってね、病気なの」
娘がひとりごとのようなお話を(でも決してひとりごとではない)、私に向かって必死に語りかけてくるのを、大方聞き流しているのだけれど、ふっと手を止めて耳を澄ますと、なんとも面白いストーリーが聞こえてくる。
「そうなんだ。大変だね。病院には行ったの?」
合いの手を入れると、嬉しそうに不思議なストーリーをいつまでも聞かせてくれる。

私が見ている世界と、子どもが見ている世界。
それはきっと別のものなのだけれど、努力すればそのふたつの世界は交錯し、あるいはひとつのものとなってくる。

子どもと同じものを見て、一緒に笑ったり、喜んだり、泣いたり。
共に心を震わせられることは、子どもをひとりの人として扱う謙遜さが心の中に抱けたときにだけ許される、プレゼントのようなものかもしれない。

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