私の「隣人」とは、私の子どもたちのことだった
聖書の中に、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉がある。
キリスト教会では何度も耳にした「隣人」という言葉。
りんじん。
なんて不思議な距離感を持った言葉だろう。
あなたの夫とか、あなたの妻とか、あなたの両親とかはっきりと言ってくれればすぐにわかるのに、どうしてそんな、奥歯に物が挟まったような言い方をするのだろう。
隣人と聞くと、すぐに思い浮かぶのは「お隣さん」である。
私が住んでいる賃貸アパートには、ベランダがついている。横並びの二部屋分の長さがあるので、それないの長さだ。そのスペースを使って、毎年細々と花や野菜を育てている。
隣の部屋のベランダとはフェンスで仕切られていているが、目の荒いただの金網なので、それぞれのベランダの様子は丸見えである。
ベランダでお隣さんと鉢合わせするのも少々気まずい。
だからベランダで用事をするときは、窓を開けてちらりと横のベランダを確認し、誰もいないことを確認してから外に出る。とは言えほとんどお隣さんの姿を見たことはない。
洗濯物干し。布団干し。植物の水やり。プール遊び。虫の観察…。
我が家のベランダの稼働率が異様に高いにも関わらず、気づけば隣のベランダには洗濯物が干され、気づけばその洗濯物が取り入れられている。
ということは、お隣に住んでいる人々も、我が家がベランダを使っていないタイミングを見計らってベランダの用事を済ませているのであろう。
薄い一枚の壁を隔てた場所で、食べたり寝たりしている存在であるのにも関わらず、ほとんど姿を見たことがない。
これが私のお隣さんであり、そのイメージは「隣人」にも繋がっているのだった。
聖書の中に出てくる隣人という言葉は、掴もうと思って近寄ると消えてしまう蜃気楼のように、どこかぼんやりとした、実体のないものに聞こえてしまう。
「あなたの隣人を愛しなさい」
その言葉を聞くたびに、今よりも若かった私は、「どこかで自分の助けを求めている困っている人がいるのだから、早くそこに行かなければ」と思っていた。
その人は、電車やバスも通らない辺鄙な場所に住む人かもしれない。あるいは大都会の中で人に紛れるようにひっそりと暮らしている人なのかもしれない。いずれにしても、早くそこに行かなければ。
私の使命感は、ここではないどこかに住む会ったことのない人にのみ向けられていて、身近な人には向けられていなかったのだろう。
同じ教会に通っていた年上の女性に、「あなたには愛がない」と目の前で言われ、面食らうと同時に腹が立ったが、ある意味では核心をついていたのかもしれない。
今、夫とふたりの子どもたちと暮らすようになって、「誰かを愛さなければ」という、今思えば大それたことは思わなくなった。
なぜだろうか。毎日子どもを着替えさせ、食事を作り、お風呂に入れて、子どもたちと遊び…と、日常がこまごまとした用事で埋められているからだろうか。
それとも…。
子どもたちと過ごしていると、彼らが求めているのが、空腹を満たすことや清潔にすることではなく、親の愛に他ならないことを痛いほどに感じる。
「愛」という言葉すら知らない幼い子どもたちが、必死に求めているものは、親の笑顔であり、親が隣の席に座ってくれることであり、一緒に遊ぶことであり、自分の話を聞いてくれることであり、悲しい時に慰めてくれることであり、自分を信じてくれることであり…。これが愛を求めていると言わずしてなんだろう。
そして、子どものこの求めに応えることは、相手を愛することと言えるのではないか。
おぼつかない足取りではあるけれど、子どもたちの思いに応えようと奮闘する日々。
これは、人を愛する日々に他ならないのだと思ったとき、ハッと気づいた。
私の隣人とは、私の子どもたちであり、私の家族だったのだ。
一番近くにいる人たち。
私の感情を激しく揺さぶり、私を怒らせたり、泣かせたり、これ以上ないほど喜ばせたりしてくれる人たち。
私の愛を最も求めている人たち。
隣人とは、ここではないどこかに暮らす架空の人々ではなくて、手を伸ばせば触れられ、側に行けば夏の陽気に熱った体の熱や汗の匂いさえ感じられる、共に生きる人のことだったのだ。
家族を愛すること。
当たり前のようでいて、愛するとはなんて難しいことだろう。
イエス・キリストが隣人のために見せてくれた愛を知ればなおさら。
だからこそ、朝、幸運にも子どもたちがまだ目覚めないときには、ひとりで机の上に聖書を開き、祈るのだった。
私の家族を愛することができますように。
私を愛してくださったキリストの愛を、私がもう一度知ることができますように、と。